第十一章 Fever(3) 根回し

 電子ケトルに水を入れスイッチを押すと、

「お腹は空いてる? 何か作ろうか」

 イリヤはそのように尋ねてみた。ヒロはそれに対し首を横に振り、


「あまり空いてない。お茶だけもらうよ」

 それと、とヒロは言う。「イリヤ、あのさ」


「ん、なんだい? 君がセシルに連絡したことかい?」


 イリヤがさらりと言うものだから、ヒロは思わず瞠目した。まるで思考を読まれたかのようだった。本当にヒロはイリヤにそのことを聞こうとしていたのだ。


***


 ――昨夜、浩は嫌々ながらとある人物に電話をかけた。数コールの後、耳に飛び込んでくるのは流暢なイギリス英語だ。


『おや、君が電話してくるなんて珍しいこともあるものだね』


 時差の関係で向こうはまだ昼過ぎだった。そのせいか、電話に出た男は少し怪訝そうな声色で対応している。


『そっちは夜中だろう? もう寝なよ、ミスタ・ショーライ。それとも僕の声を聞かないと眠れない? 子守歌でも歌ってあげようか』


 エレホン主宰、セシル・マッキントッシュ。浩は本来彼の直属という立ち位置で、年に一度くらいは電話してやらんでもない程度の仲である。

 ちなみに浩はこの男のことはあまり好きではない。浩は微かに眉間に皺を寄せながら微かに唸る。


「君の声なんか聞いたら眠りたくとも眠れなくなる。主に苛立ちで」

『はは。君は相変わらずつれないなぁ』

 それで? とセシルは尋ねる。『わざわざ君が連絡してくるってことは何かあったんだろ。ミスタ・チャイカがなにか粗相でもした?』


「単刀直入に聞く。『エレホン』と『アブオエナ』の関係について」


 浩がその言葉を口にした刹那、ぴたりと電話の向こうが無音状態となった。ややあって、随分と声色を落としたセシルが口を開く。


『……、それを聞いてどうするの』

「単純な興味だよ」

 浩はさっぱりとした口調で言い、右手で首筋を撫でる。「それ以外に理由などない」

『ふん』


 セシルはしばらく考えた素振りでいたが、


『君ね、もう少し上手に嘘をつきなよ。おそらく『アブエオナ』の研究部門について聞きたいんだろ』


 とそっけない口調で返す。『その様子だと、もともとエレホンうちとアブエオナは競合他社にあたる、というのは知っているみたいだね。ひとつ違うのは、アブエオナは独自に研究機関を持っていて、表向きそれを“子供たちを守るための医薬品研究”という名目にしていた、ということだろうか』


 ふむ、と浩は思う。このあたりはイリヤが言うこととおおよそ合っているようだ。


『それで、だ。あるときアブエオナが“人道的でない研究をしていた”ということが発覚し、それをきっかけに一度解散を迫られた。当時『アブエオナ』はエレホンほどではないにしろ優秀な鑑定士が揃っていたからね、美術品保全部門はうちがもらい受けることにした。研究機関も他社へ吸収合併することになって、最終的に児童保護の部門だけが残った、というのが事の次第だ。今のアブエオナはそういう経緯でできているから、調べると結構風当たりが強い。今の主宰はそのあたりをよく分かっているから、信用回復に対しての行動はかなり誠実だし、それと同時に慎重だとも思う』


 それは先日の『イスタニア・コレクション』の件で嫌というほど痛感している。 しかし慎重というのはどうだろう。あんなやり方でこちらと会おうとする男を、果たして慎重と評価してよいものか。浩はそう思ったが、敢えて口にすることはやめた。

 あの夜のことはエレホンにすら報告していない。互いの関係性を下手に公言するわけにもいかなかったので、ダンテとは事前に話をつけていた。


 こんな説明でいいのかい? とセシルが問うので、浩はもうひとつ彼へ問いかけた。


「イリヤ・チャイカがエレホンに入団したのはそのとき?」

『ああ、そうだね。というか、そうなった原因を作ったのが彼だからなぁ』

「うん?」


 イリヤはそうは言わなかったはずである。思わず問い質すと、


『ミスタ・チャイカから聞いていないのかい?』

「合成エメラルドのことか」

『……それもあるけれど、ああ、多分君はそこまで聞かされていないんだね』


 そう言って、セシルは意味深に笑った。


***


「……なんで知っているの」


 ヒロが尋ねると、イリヤは苦笑しながら言う。


「さて、どうしてでしょう」

 しかしね、とイリヤは続けた。「その話を今の君にするつもりはないよ。悔しかったら早く治して。そうしたら種明かししてあげる」


 ヒロはじっとりとイリヤを睨め付けると、ゆっくりと席を立つ。ふわふわとイリヤの側までやってくると、イリヤの袖を引きながら、

「……どうしても?」

 と普段見せないような甘ったるい声色で囁いた。


「どうしても」

「イリユーシャ」

「色目使っても、だめ」


 病人がなにやってるんだい、とイリヤは言う。微かに腹筋のあたりがぷるぷると震えているのは、笑いを押し殺しているからだった。


「俺がいつまでもちょろい奴だと思ったら大間違いなんだからね。それに、言わないとは言ってないだろ。君はあざといなぁ、本当」


 そう、とヒロは微かにしゅんとした顔をした。

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