第十章 Jewelfish(3) 真贋の区別とは
浩は胸の上に一人分の重さを感じつつ、ゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
布を一枚挟んで感じる人肌が少しずつ冷めてゆく。もともと互いに体温が高いほうではないけれど、今日は一段とつめたく感じられた。
「――そっか」
ぽつりと呟き、浩は右手をのろのろと持ち上げる。「教えてくれてありがとう」
砂色の髪を撫で、指先で毛の束をつまんで遊んでやると、ぴくりとイリヤの肩が震える。だが、彼は未だこちらに顔を見せようとしなかった。
浩は慎重に言葉を選びつつ、柔らかい口調で言う。
「イリユーシャ。君は優しいから、きっと
そういう前提があるならば、彼が『人形姫』を燃やしたことも頷ける。
それが彼の本意だったかと言えばおそらくそうではない。過去に聞いた話によると、あの十二枚の連作を仕上げたとき、彼はほぼ飲まず食わずでいたらしい。それどころかろくな睡眠もとらずひたすらに絵筆を動かしていたのだと彼は言う。そんな執念の塊に対し愛着がわかない訳がなかった。
――誰かに奪われるくらいなら自ら壊す。
この男であれば、平然とそんなことをしでかしそうだった。
イリヤはその言葉に何を思ったのだろう。瞼が動いて、睫毛が肌の上を優しく滑る感触があった。
「……ヒロ。よく聞いて」
そして彼は強い口調で言うのだ。「トーサカという男の名前は少しだけ覚えがある。万が一彼が『パイデス』と関わりがなかったとしても、合成エメラルドと『白梅』については情報を得られるだろう。俺としては間違いなくクロだと思うけど。だからかな。自分でアポを取っておいて言うのもどうかと思うけれど、なんとなくその男に会ってはいけない気がするんだよ」
そこまで言ったところで、イリヤは安心してしまったのだろう。急に体の力を抜いたかと思えば、今にも泣きそうな声でぶつぶつと呟いている。
「ああ、言っちゃった。ヒロに言っちゃった。この件は墓場まで持っていこうと思っていたのに……」
「そこまでショックを受ける話ではなかったよ。俺はもっとこう、えげつないのが来ると思っていた」
そう、もっとひどい話を告げられると思っていたので、浩は相当身構えていたのだ。
たとえば、欲望に身を任せ死姦したとか。そう呟くと、ぴたりとイリヤの動きが止まる。彼はそれに対し何も言わず、顔も上げようとしなかった。
――つまり、したこと自体はあるんだな。
そう思った浩は、それについては敢えて触れないでおくことにした。ここ数カ月のうちにいろいろあったおかげで忘れかけていたけれど、自分たちの趣味嗜好は一般的なそれではない。お互いのことですら、趣味の話だけは褒めるとき以外は口にしない。そう決めていたのだ。
はあ、と大きくため息をつくと、浩は前髪を左手で掻き上げる。
「君のおかげでなんとなく話は分かってきたよ。しかし君も難儀な人生を歩んでいるものだね。人のことは言えないけれど」
かたや毒物を定常的に飲まされた『神様候補』、かたや女装の上見世物にされた『ベッドの
そう思うと、胸がきゅうっと締め付けられた。
「――なあ、イリヤ。真贋の区別はどこから生まれると思う」
「うん……?」
君が言ったんだろう、と浩は言う。
「『本物』の神様じゃなくてごめん、って。それじゃあイリヤは、本物と偽物の境界線はどこにあると思う? 本物だと信じて疑わなかったものが偽物だと知ったとき、あるいはその疑いがあると知ったとき、人は誰しも嫌悪感を抱き拒絶する。あの感情はどこから来るんだろう。君は分かるかい」
その問いに、ようやくイリヤが顔を上げた。浩の問いかけの真意が分からないのか、それともその質問自体が難しすぎたのか。彼はただただきょとんとして、怪訝な顔をして見せる。
「君はそういうの、得意なんじゃないのかい」
「それで飯を食っているからこそだよ、イリヤ。俺はね、別にそれが『本物』だろうが『偽物』だろうが、どっちだっていいんだよ。一番大切なのは、そのものに関わる人間がどのようにして『価値』を見出すか、だ。たとえ偽物であったとしても、それにまつわる大切な思い出があるのなら大事にしようと思うだろ。つまりは『価値』という基準を軸に『快』乃至『不快』という
だからさ、と浩は言う。
「君がもし『松籟浩という人物は本物しか愛せない男である』と考えているのなら、それは誤解だよ。俺は俺の中で決めている『価値』あるものだけを愛している。そこに真贋の区別はない」
そこまで言うと、浩はイリヤの身体をどかしのそりと上体を起こした。乱れた髪を片手で直しつつ、呆けるイリヤの瞳をじっと射抜く。
「前にも言ったけれど、君が言う『神様』と俺が言う『かみさま』は意味が違う。君の言う『神様』は単に芸事のそれだろうけれど、俺のは」
そこまで言うと、浩はぐっと声を詰まらせた。
――ヒロ?
イリヤが問いかけ、見下ろす浩へ向けて右手を伸ばす。浩はその手を掴むと、乱暴に抱き寄せた。
「……っ、俺のは、『俺だけが崇拝していい、唯一価値があるもの』、だ」
だから君がその目を失おうが何をしようが、結果はなにも変わらない。
浩は吐き捨てるように言うと、一度身体を引き離し、今後は彼の両肩を掴む。
ああ、と浩は思う。
我ながら必死なのだ。目の前の『かみさま』を失わないようにするにはこうするしかないのだ。こうでもしないと、彼はいつか目の前からいなくなる。そんな気がした。
「イリヤ。謝るくらいなら、ひとつ、約束して」
そして浩は言った。「お願いだから、俺より長く生きて。一日でも、一時間でも、一秒でも、長く」
それは身勝手で残酷な願いだった。
それでも目の前の『かみさま』を縛り付ける鎖としてはちょうどよかった。
イリヤは柔らかく笑い、力の抜けた声色で告げる。
「俺はたぶん、それほど長く生きられないよ」
「知っているよ。あの溶融液と長く関わりがあると言うのなら、その日が意外と近いということも容易に想像できる」
だからだよ、と浩は言う。「置いていかないで。イリユーシャ」
――イリヤはしばらく口を閉ざしていたが、ややあって、「ああ」と呟いた。
「君の場合、俺が先にいなくなったら躊躇いなく追いかけてきそうだもんなぁ。いいよ、努力する」
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