第八章 Phantom(3) 言えるわけがない
***
――とにかく、なにか異変があったらここに連絡してほしい。それが君にとっても、……
ダンテはそう言うと、イリヤに名刺を渡し去っていった。先日イタリアで貰ったものとは別の、おそらくダンテ個人のものだと思われた。イリヤはそんな彼を見送ると、名刺のデータをスマートフォンに送信し――彼はこの手のデータを紙で残さず、データ化することにしている――喫茶店を後にする。
街は暑さで発狂していた。ここに来るまでの間「暑い……」とうわごとのように呟いていたが、今はそれ以上の暑さである。スマートフォンの画面に目を向けると、時刻は一三時。これからまだまだ暑くなる時間帯である。
イリヤは早くもげんなりとしつつ、これからどうしようかと思考を巡らせる。
今頑張って自宅に戻るか、どこかで時間を潰し日が落ちてから帰るか。アトリエで落書きするのも悪くない選択である。いくつか描きたいものもあるし、なによりあの場所は涼しい。
そんなことを考えていたら、たまたま目を向けていたスマートフォンの画面にメッセージの受信を告げるポップが展開した。
ヒロである。「いつ帰ってくる?」といつも通りの短い文章が綴られている。
用事は終わったよ、と打ち込むと、すぐに返信があった。
――できれば夜まで時間を潰してきて。
うん? とイリヤは思わず首を傾げる。要するに家に帰ってくるなとでも言いたいのだろうか。自分は愛する人形たちと楽しいことをしているくせに何を言っているんだ、とツッコミを入れようとし、やっぱりやめた。
すっかり忘れていたのだが、今日は八月二日。自分の誕生日だった。
それを液晶画面に表示されたカレンダーを見て気づくというのが何とも残念なところである。二月のヒロの誕生日の時に「なんで自分の誕生日を忘れるんだ」とぼやいた気がするけれど、まったく人のことは言えなかった。
しかしそういう前提があるならば、朝のヒロの態度も何となく納得できるのだ。あれは別に朝から楽しいお戯れをしていた訳ではなく、なにか別のことをしていたのかもしれない。
イリヤは少し考えて、このように返した。
――分かった。なにか甘いものを買って帰るけど、なにがいい?
自分は甘いものはそれほど食べないが、ヒロが無類の甘党なのである。返信はものすごく早かった。
――
「それ、こっちには売ってないんじゃないかなぁ」
鳥のミルクとは、ミルクスフレを仕込んだスポンジをチョコレートでコーティングしたケーキで、本国ではかなりポピュラーなものである。が、日本では見たことがない。おそらく近いものはあるだろうと踏んだイリヤは、りょーかい、とだけ返信し、スマートフォンをポケットにしまい込む。
そういうことならホストとして少しは頑張らねばなるまい。日差しにはなるべく当たらないよう気を付けながら、少し買い物に出ることにした。
行きつけの百貨店が隣町にあるので、イリヤはそのまま地下鉄の駅に降りてゆく。
湿った空気が足元から吹き上げ、汗をかいた肌を優しく撫でてゆく。この地下独特の生臭い風は嫌いじゃない。少しだけ、本国のそれと似た匂いがするからだ。
本国に戻りたいかと問われれば、答えは「どちらでもない」。もちろん向こうにはたくさんの思い出を残している訳だから、時々は思い返したくなることだってある。それでも一番楽しい記憶は、全部こちらにあるのだ。
ああ、そうか。
ホームに降り立ったイリヤは両手それぞれに嵌まる指輪を眺め、それからひとつ息をついた。
そういうものは全部『彼』と紐づいているのだ。
恥ずかしいほどの初恋も。別人として出会った時も。互いの『秘密』を共有した時も。周囲に彼との関係を公表した時も。
己の人生はすべて彼と繋がっている。場所など関係がない。
電車が到着するアナウンスが聞こえ、ごうっ、と耳鳴りがするほどの強い風が吹いた。電車が走り抜ける強い風圧に目を細め、イリヤはのろのろと呟く。
「――ちゃんと、話さないとな」
先ほどまでのダンテとのやりとりを胸の内で何度も反芻する。彼の言い分はおおむね正しい。取り返しのつかないことになる前に手を打つべき。特にそういう、『身体に関わること』に関しては。
しかし、それをひとたび言葉にしてしまえば。
地下鉄の扉が開く。平日の車内は非常に空いており、ほぼ無人と言っても過言ではないほどである。イリヤはゆっくりと車内に向けて足を踏み出す。
――もしもその瞬間が訪れたならば。
己はヒロ・ショーライの憧れる『神様』ではいられなくなる。漠然とそんな思いがしていた。
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