後編 Pseudonecrophilia

第八章 Phantom(2017/7/24)

第八章 Phantom(1) 真夏の夜の夢

 またこの夢か、と思った。


 少女の形をした人形が、じっとイリヤの青みがかった灰色のまなこを見つめている。そのまなざしを、イリヤはとてもよく覚えていた。

 それは、目の前で内臓をむき出しにされ、血だまりのあぶくにまみれたの眼そのものだった。瞳孔が完全に開いたそれは、まるでガラス細工のように美しかった。


 ――君は。


 己の唇が自然と動く。喉がからからに乾いていた。声を出そうとした刹那、乾いた唾が剥がれる甘い痛みが襲う。


 世界が反転する。どれが生者でどれが死者なのか分からない。脳が判断しようとしない。思考が停止する。

 少なくとも、今眼前で倒れる女だけが己にとっての現実だった。


 胸の内に沸き上がる恍惚とした感情はいったいなんだろう。己は人として越えてはならない一線を越えようとしているのではないか。


 血に濡れた女の身体を抱きかかえ、綺麗なガラスの目を間近で見つめる。頭の冷静な部分で強く警鐘を鳴らしていたけれど、欲しい、と。漠然とそう思ったのをとてもよく覚えている。理性と欲望のはざまで感情が大きく揺れ動き、――そして。


 己は、人としての一線を


***


「っ!」


 気づくと見慣れた天井がイリヤを見下ろしていた。


 ばくばくと心臓が跳ね、息苦しさのあまりイリヤは思わず上体を起こす。背中が気持ち悪いと思ったら、随分ひどい寝汗をかいていたらしい。胸を抑えながら何度か繰り返し深呼吸をすると、ようやく少し落ち着いてきた。


 サイドボードに目を向けると、時刻は午前二時。真夏の夜はまだ長い。


 このまま再び眠りにつくのも難しい気がしたイリヤは、ベッドから降り、シャワーを浴びるべく浴室へと向かった。


 浴室の戸を開けようとドアノブに手を置いたところで、微かに水を打つ音が聞こえることに気が付いた。どうやらヒロとタイミングが被ってしまったらしい。よくよく考えてみれば、彼がこの時間に入浴しているのは決して珍しいことではない。むしろ珍しいことをしているは自分のほうである。

 であれば一度出直すべき。そう思ったイリヤはドアノブから手を離し、水を飲むべくキッチンへ向かおうとした。


「――イリヤ?」


 すると、気配に気づいたのだろう。突然浴室の扉が開き、ヒロが顔を覗かせた。今の今まで頭から湯を浴びていたのだろう、顎元から湯が滴り落ちていた。白い肌が上気し、黒髪が頬に張り付いている。


「ごめん。君が使っているって気づかなかったから」

「それは別にいいけど……、どうしたの。ひどい汗」


 確か先に寝ていたよね? とヒロが心配そうに眉を下げた。

 イリヤは一度眠りにつくとなかなか起きないということをよく知っているせいか、ヒロはイリヤが夜中に起き出したことを不思議に思っているようだ。


「悪い夢でも見た?」

「ああ、うん。そんな感じ。気にしないで」


 ものすごく曖昧なことを言っているけれど、事実だから仕方がない。イリヤがそう返すと、ヒロは暫しの逡巡ののち、浴室の戸を先ほどより大きく開けた。


「おいで」


 俺はもう出るところだから、とヒロは言う。


「そのままでいたら風邪をひく」

「うん、ありがとう。そうする」


 入れ替わりになるように浴室に入ると、すれ違いざまにヒロがぽつりと呟いた。


「身体を洗ったらこっちにおいでよ。話くらいなら聞いてあげる」

「うん」


 君は優しいね、とイリヤが囁くと、ヒロは「そうでしょうとも」と珍しく茶化してきた。それがなんだかおかしくて、イリヤは笑いを押し殺しつつ静かに浴室の戸を閉める。


 一人きりになった途端に脳裏を過る、先ほどの夢の結末。


 ――あれは現実なのだ。紛れもない、現実だ。


 まぼろしだけを信じていたくとも、幸せな思い出だけに浸っていたくとも、あの女がそれを許さない。定期的に現れてはイリヤの思考をじっくりと焦がしてゆく。それはゆるやかに身体を侵食していく毒のようなものだった。


 ぽたり。ぽたり。シャワーの口から湯が滴り落ちる。


 もちろんその出来事全てが悪い訳ではない。『神の目』を得たのは『あれ』がきっかけだからだ。そうしたからこそ、己はヒロ・ショーライと出会い、いま、彼と同じ土俵に上がることができている。


 皆は己を『神様』と呼ぶ。しかし、本当は違うのだ。

 本当の『神様』はヒロ・ショーライ、彼だけだ。


 この目はいわば『贋作』。そしてその秘密はヒロにすら打ち明けたことがない。怖いのだ。軽蔑されることを、己はひどく恐れているのだ。


 イリヤが嗚咽混じりの声を洩らした刹那、突然浴室の戸が開いた。はっとして振り返ると、ヒロのまなざしがイリヤの姿をじっと射抜いていた。イリヤは瞠目し身体を硬直させる。


「……イリヤ」


 名を呼ぶ声。それを耳にしたら、不思議とこわばる身体が緩んでいくような気がした。


「やっぱり、一緒に入ろうか。俺もそっちに行っていい?」


 やはり彼は『神様』なんじゃないかとイリヤは思う。何も言わずとも、彼は大体のことを察してしまうからだ。

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