第七章 Doll(2) 回想
***
ついでと言わんばかりに簡単な打ち合わせを済ませたふたりが外に出た頃には、東の空は朝焼けに包まれていた。
パーティそのものは結局楽しむどころか碌に顔すらも出さなかったので、わざわざこの場に出向いた意味があったのかどうか少しばかり悩むところでもあった。とはいえ、まったく収穫がない訳ではない。少なくとも仕事をするうえで必要な情報は得ることが出来たし、なにより、ダンテからこの一言を聞き出すことができたのが幸いだった。
――君も知っているとは思うけれど、あのあとアロノフは別件で逮捕されたよ。
どうせ金でも積んですぐに釈放されたのだろうが、一度そういうことになれば少しは外部からマークされる存在にはなるだろう。胸の内に溜まるしこりのようなものが少しだけ小さくなったような気がして、浩はゆっくりと息をついた。
気になることといえば、帰る間際にダンテがイリヤになにか耳打ちしたことくらいだろうか。イリヤがそれに対し何も言わないということは、特に共有するまでもない事柄なのだろう。
浩は眠気のあまり右目を擦りつつ、小さく欠伸をかみ殺した。色々あってくたびれてしまったのと、まだ微妙に続いている時差ボケの影響である。
タクシーを呼ぶこと提案した浩に対し、イリヤは予想外の行動に出た。彼は首を横に振ると、
「俺は歩いて帰るよ」
そう言われてしまうとひとりでタクシーに乗るのはいただけない気がする。浩は眠さのあまり考えることを放棄した。
イリヤが黙々と先を行き、その後ろに浩が続く。浩はイリヤの背中を見つめながら、ゆっくりと息をついた。
「イリヤ」
浩がその名を呼ぶ。イリヤは足を止め、それから浩へと向き直る。いつも通りの穏やかな表情だった。しかしながら、どこか様子がおかしい気がする。浩は慎重に言葉を選びつつ、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ」
「ヒロ」
その言葉を遮るように、イリヤは浩の手を取る。どきりとして浩は身体をこわばらせる。てっきり怒られるかと思ったのだ。今回の件については、はっきり言って無茶をしすぎている。否、無茶をするのは今に始まったことではないけれど、いい加減そろそろ愛想を尽かされるものだと思っていた。
しかしながら、予想に反してイリヤはこのように返してきた。
「言いたくなければなにも言わなくていい」
それにしても、とイリヤは緩んだタイを指で遊ばせつつ、ため息混じりに言う。
「礼装、せっかく新調したのになぁ。あまり着た意味がなかった気がするね」
「それは、ごめん」
「君のせいじゃないだろ」
なぜ謝るんだい、とイリヤは尋ねる。「まあ、こういうのも時々はいいよね。君も好きだろ、俺がちゃんとした恰好でいるの」
「……、」
「ヒロ。返事」
「
浩がそう答えると、イリヤは頬を微かに綻ばせた。
ああ。浩は思う。
彼はどうしてこうも優しいのだろう。
そういえば、今まで昔の話を口にすることは決してなかった。それは互いに言い続けた「誰でも知られたくないことくらいある」という言葉をそのまま体現していただけかもしれない。しかし、ここまで来るともうだんまりを決め込むのも難しいようにも思う。
――きっと彼は察しがいいから、ほとんどのことを分かっているような気さえするけれど。
浩は熟考の末、イリヤの名を呼んだ。
「なに?」
きょとんとしてイリヤが首を傾げる。
「やっぱり、少しだけ話してもいいか」
何を、とは言わなかった。しかしながら、それだけで十分だった。
イリヤは微かに困った様子で首筋を掻き、小さく頷く。
「……いいよ。歩きながら話そう」
早朝の街並みは人通りが少ない。朝独特の澄んだ空気が喉を通り抜け、身体の芯までも冷えていくようだった。
「俺の目は、争いしか生まないんだよ。イリヤ」
浩が抑揚を押し殺しながら言った。掴んだままの手のひらに少しの力が加わり、イリヤは思わずぴくりと肩を震わせる。
「それは、どういう意味だい」
そのままの意味だ、と浩は淡々と言葉を紡ぎ出す。
今でこそエレホンの庇護を受けているが、以前はそれ以上にひどかった。生まれつきものの見え方が普通でなかった浩のことは、古美術商の界隈では有名で、随分早いうちからマークされていたと聞く。
物心つく頃には毎日のように見知らぬ大人に連れ回され、あらゆる美術品と対峙させられていたことをとてもよく覚えている。両親はそれをずっと庇い抵抗していたが、そうするたびに両親はあらゆる方法で傷つけられてきた。浩はそんな姿を見たくなくて、顔も分からぬ大人についていくことに決めたのである。
「アロノフの元に養子に出たのはそういう理由。少なくとも俺がいなければ両親は傷つけられないだろうと踏んで、十歳のときに生家を出た。そこでまさか本当の名前を奪われて、『ツェツィーリヤ』という商品に仕立て上げられたのは誤算だったけれど」
「君が美術品に対して膨大な量の知識を蓄えているのは」
「うん。覚えていないと見知らぬ大人に殺されそうだったから、死ぬ気で勉強した。ただそれだけのことだ」
浩がぼそぼそと言う。「とは言いつつも、アロノフが俺を引き取ったのは別に目が欲しい訳じゃないというのがなんとも言えないところだ。あの男は『女の子の姿をした男の子』が好きらしくてさ。あの家では、そういう趣味がある人間に対して奉公に出す体で養子を迎え入れていた。俺もそのうちの一人」
俺たちと種類が異なるお仲間だというわけだ。
浩はそこまで口にすると、自分でもひどいことを言っているという自覚があったのだろう。深い闇を連想する黒い瞳がさらに淀んで、そのまなざしから完全に生気が失われていく。
「少年が
「うん」
「俺にとって、君と過ごしたあの七日間が『最後の一週間』だったんだ」
イリヤは相槌を打つ以外何も言わず、ただじっと浩の言葉に耳を傾けている。浩自身きちんと話の整理ができていないのだろう。彼にしては珍しくもたつきながら、しかし可能な限り丁寧に言葉を選んでいる。
「君とはほとんどなにも話さなかったけれど、それで充分だった。時が経つのがあまりに早すぎて、恨めしくも思った。君が描いてくれた肖像画はとても、とても素晴らしかったよ。――アロノフが売りに出すことを急遽取りやめるくらいには」
え、とイリヤが小さく声を上げ、思わず浩へ顔を向けてしまった。その言葉を発した浩が、淀んだ目をして己の手を見つめている。
「その代わりに与えられた役目が、ベッドの
そして浩はその手を握りしめ、朝日で白みゆく空を仰いだ。これがもし北の空であったならば、雪のひとつでもちらついてきそうなほど眩しい色だった。きゅっと目を細めると、浩は唇を動かした。
「『人形姫』を町の美術館で見つけたのは本当に偶然だった」
「……うん」
「あの人形のモデル、俺だろ。一目見てすぐに分かった」
ねえイリヤ、と浩はその名を呼ぶ。
「約束、守ってくれてありがとう。君に強く呼ばれているような気がして、だから俺は君を追うことにしたんだ。もちろんしばらくはアロノフに追われることになったけれど、そうしているうちにたまたまロシア滞在中のセシルと出会って、運よくエレホンに入団することになった。エレホンに身を寄せれば少しは守ってもらえるし、鑑定士として活動していればいつか君に気づいてもらえるかもしれない。セシルにそう言われて、莫迦な俺は真に受けた。結局その話のいくつかはセシルがついた嘘だと後から気付いたけれど、それでもあの家での暮らしに比べたら幾分マシだった。――そんなことがあったものだから、日本で君と出会った時は心底驚いたよ。なんでこんなところにいるんだ、って」
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