第六章 Andromimetophilia(3) ※お仕置き
***
その後少しだけ観光し、夕食をとってから二人はホテルへと戻る。
浩は二部屋予約したつもりでいたが、ここでひとつ問題が発生した。手違いで一部屋しか予約できていなかったのだ。明日からはもう一部屋予約できるということなので、浩は横にいたイリヤにそっと耳打ちする。
「とりあえず今日は我慢してくれる」
「というか一緒でいいよ、もう」
考えるのが面倒になったイリヤがそう言うと、浩の制止を無視してひと月分まるごと相部屋に変えてしまった。
おおう……と声にならない声を上げている浩をよそに、イリヤはさっさとエレベーターホールへ歩いて行ってしまう。
おや、と浩は思った。どうも支部を出て以降イリヤの機嫌が悪いような気がするのだ。もちろん話しかければ返事もするし、観光している間はそこそこ楽しげな反応を見せていた。何かしただろうか、と浩は考えつつ同じエレベーターに乗る。
扉が閉じ、徐々に階が上昇してゆく。
「ヒロ」
イリヤがおもむろに口を開いた。「ここって、君が個人で借りているところ?」
「え? いや、エレホンが用意したところだよ。君だっていつもそうするじゃないか」
それがなにか? と尋ねると、イリヤは何かをしきりに考えている様子で固く口を閉ざす。浩は怪訝な顔をしたが、それを今指摘するのもあまりよくない気がして、それ以上深く追及することはなかった。
さて、カードキーを挿入し部屋に入ると、思いのほか質素な内装だった。シングルベッドがふたつ、それからソファとテーブル。自宅にあるものとさほど変わらないラインナップである。唯一気になるのが、浴室がガラス張りだということだった。一応中からシャワーカーテンがかけられる構造にはなっているけれど、それでも明かりをつければ色々なものが見えそうだ。
む……と浩は微かに唸った。一人部屋なら別に構わないが、さすがに二人部屋でこれはなかろう。少し考えて、浩はイリヤへ向き直る。
「イリヤ、ちょっと相談」
「その前に、ヒロ。ちょっと俺の話を聞いてくれる」
珍しいこともあったものだ。たいてい浩の話は優先的に聞こうとするイリヤがわざわざ言葉を遮った。あまりに珍しかったので、動揺した浩が思わず「うん、……なに?」と素直に問い質してしまったほどである。
ぐいと浩の腕を引いたかと思えば、イリヤはその身体をほど近くまで引き寄せた。瞠目する浩に対し、イリヤはいつになく厳しい口調で尋ねる。
「君は一体なにを企んでいるんだ」
は、と浩が声を洩らした。
「はっきり言って俺は君に対して甘いと思う。多分君は俺のことをちょろいとでも思っているんだろうけど、あの依頼内容がおかしいことくらいはさすがに分かるよ。なにか隠しているでしょう」
「イリユーシャ、なにを言って」
「そう呼べば何をしても許してくれると思っているんだ? へえ……」
イリヤの眼から生気が失せた刹那を、浩は目の当たりにした。
心臓が跳ねる。
すべて手遅れだけれど、ようやくイリヤの機嫌を損ねた原因を理解した浩である。きっかけは射撃場だ。少し目を離していた隙に案件内容を確認したイリヤが何かを察してしまったのだろう。察しがいいのは大いに結構だが、今回ばかりは正直勘弁してほしかった。
浩はそのまま冷めたまなざしをイリヤへ向けると、……のろのろと口を開く。
「――ああ、ちょろいと思ったのに」
「やっぱりそう思っているんじゃないか。まあ、自分でもちょろいと思うけど」
「自覚あるんじゃないか」
浩は嘲笑にも似た笑いを浮かべると、ややあって胸の内に隠していたことを告げる。
「ちょっと訳ありでね。個人的な因縁が絡むからあまり言いたくない」
君は察しがいいからすぐ気づくだろうけど、と浩は声色を落として言う。
するとイリヤが珍しく噛みついた。いつもの彼からは想像もつかないような声色に、浩はなんだか言葉で殴られているような気さえしている。それほどまでに今のイリヤには余裕がなかったのだ。
「やっぱり君は『パイデス』なんじゃないのか。どうしてこんな奴の依頼なんか、」
「イリヤ、何を言っているのかよく分からない」
「それはこっちの台詞だよ。俺は君の考えていることが分からない」
浩が気まずそうに口を閉ざし、ふいと目を逸らした。イリヤはすかさず浩の顎を掴むと強制的に顔をイリヤへ向ける。
「言えない? 言えないなら嫌でも言いたくなるようにしてあげようか」
そう言いながらイリヤは浩の唇を親指でそっとなぞった。
「どうせ言っても覚えてないくせに」
浩がぼそりと呟くと、それがさらにイリヤの逆鱗に触れたらしい。一瞬眉間の皺が深くなり、――ようやく怒りより呆れの感情のほうが勝ったのだろう。彼は思わず額に手をやり大げさにため息をついてしまった。
「なんで君はそう厄介なことに平気で首をつっこもうとするかなぁ」
「む……」
「今回の依頼主、というよりも彼のバックにある組織か。あいつらがなにをしてきたか、少しは考えたほうがいい。本当に今回の依頼は『イスタニア・コレクション』の鑑定なの。他になにかあるんじゃないの。たとえば、」
そしてイリヤは、はっきりとした口調で言った。「何らかの薬品に関わること、とか」
浩は何も言わなかった。本当に心当たりがないと言いたげな表情ではあるが、その裏では何か別なことを考えていそうな雰囲気を醸し出している。そして性懲りもなく目を逸らそうとするので、イリヤは最終的に浩の身体を突き離した。
「ああ、何度言っても君は俺の言うことを聞いてくれないんだもんなぁ。危ないことはしないと言いつつも、毎度毎度お姫様みたいに軽々と誘拐されるしなぁ。事前に相談しろと言っても、たいていは巻き込まれてから種明かししてくるしなぁ。ねえ、いったい何回目だい? 君の『事後報告』は」
わざとらしく言いながら、ちらりとイリヤの目が例の浴室へ向けられる。それに気づかない浩ではない。
まさか。浩は戦慄した。
「ごめん、イリヤ。何も言わなかったことは謝る」
咄嗟にそんな言葉が口を突いて出た。「でも、依頼内容は間違っていない。これは」
「『仕事だ』とでも言うつもりかい?」
浩の言いかけた言葉を遮るようにしてイリヤがぴしゃりと言い放つ。
「君、仕事ならなんでもするんだ。へえ。じゃあ、例えば下半身むき出しにして膝立てて脚開けって言ったら、誰が相手でも開くのかい」
「それとこれは別の話だろ。勝手に論点を変えるな」
「論点を変えようとしているのは君のほうだ。なんであのダンテ・ボネッティ・アレンドラとかいう男の依頼を受けようと思ったの。個人的な因縁ってなに」
「それは……、」
「君の身体のことと関係あるんでしょ」
核心に触れたその一言に、浩が凍り付く。
そんな彼の様子を目の当たりにしつつも、イリヤは表情ひとつ変えずに容赦ない言葉を投げつけた。
「どうせ俺はちょろいんだもんなぁ。少し可愛い顔して甘えたらなんでも許してくれると思っているんだもんなぁ。『かみさま』も随分と嘗められたものだなぁ」
「イリヤ、俺の話を聞いて」
「俺の話を聞かないくせに自分の話だけ聞いてもらおうとするんじゃないよ」
イリヤはぼそりと呟いた。声色が完全に笑っていなかった。小さい喧嘩をすることはあるが、ここまで一方的に怒られることは未だかつてない。というより、自分で話をしながら怒りのボルテージを無駄に上げているようにも見える。ここまで来ると手遅れだ。残りの選択肢はただひとつ。腹を括る、のみだ。
浩はぐっと息を呑み、
「……じゃあ、どうしたら許してくれるの」
と尋ねた。完全に墓穴を掘っていることも理解している。
イリヤは砂色の髪をかき上げた。んー、と微かに唸り声を上げると、氷のように鋭いまなざしを浩の黒い瞳へと向ける。
「だから、俺の言うことを聞いてって言っているだろ」
「――っ」
浩の頬が引きつった。まるで死刑宣告のようだった。これは単純に「話を聞いて」のレベルを超えた要求である。しかし、今回ばかりは自分に非があるのでなにも言い返せない。
どうせこの男は噛みついてきたりしない。そう高を括っていたのが仇となった。
「ああ、まずは日が昇るまでの間でいいよ。俺もそこまで鬼じゃないから」
くすりとイリヤは微笑むと、浩の肩を叩く。「とりあえず、お風呂にでも入ってきたらどう? ちゃんとできるか、見ていてあげる」
――こうして、彼らの長い夜が始まった。
***
イリヤが唐突にヒロの名を呼んだ。
うつ伏せのまま枕を抱いたヒロが、のろのろとその瞼をこじ開ける。掠れた声で「
「
その感触が心地よかったのだろう、彼は目を細め、されるがままになっている。
「
それはまるで一種の呪いのようだった。こうして言い続けていれば、いつか洗脳されるのではないかという期待でもあった。
ヒロはそれをどう思ったのだろう。突然のそりと上体を起こしたかと思えば、自身の口腔をそっとイリヤのそれに押し当てた。離した刹那、唇の端からどちらのものとも言えない唾液が零れ落ちる。ヒロはそれを自身の左手で拭うと、
「……、
とだけ口にした。
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