第四章 Shot(3) ファベルジェの卵
***
それ以降ほとんど会話を交わさぬまま食事を終え、アトリエに戻ってきた二人である。
さて、とイリヤが作業用のエプロンを下げると、その背後で浩が前髪を上げ手袋をはめた。彼らの視線の先には例のチェストがある。二人の前に重々しく鎮座し、その秘密を暴かれることをしきりに拒んでいる。
昨日はチェストの中身が空だと言い張った二人だが、
「……よくこれが二重底だと分かったね」
浩がぽつりと呟いた。
イリヤは苦笑しつつ、「明らかに奥行きの寸法がおかしいじゃないか」とだけ返す。
「普通は気づかないよ。この金庫の内部構造はある視差効果が発生するように設計されている。奥行が『より深く』見えるようにね。とてもいい作品だ。作者の愛を感じる」
浩は淡々とした口ぶりで言い、ゆっくりと目を細めた。
イリヤはそんな浩の様子をじっと見つめ、それから目を逸らす。一瞬だが彼が笑ったような気がしたからだ。おかしいな、見間違えたかな、と内心首を傾げつつ、イリヤはチェストの傍まで工具を収めた可動式のワゴンを引き寄せる。
「どれくらいの時期に作られたものだろうか」
イリヤの問いに、浩は口を開く。
「君はどう思うの」
「一九〇〇年代初頭」
「じゃあ、それでいいんじゃない」
随分適当だなぁ、とイリヤはけらけらと笑う。浩が適当に答える理由も十分に理解していた。やはり彼はそれなりの場数を踏んでいる鑑定士だ。技師との距離の取り方が分かっている。
イリヤは昨夜作ったスケルトンキーを鍵穴に差し込むと、時計回りにブレードを捻った。回したときに金属が動く独特の重たい感触が指先に残る。
中は例によって空だが、イリヤは浩に対しこのように尋ねた。
「『両端のくぼみ』だと思うんだけど」
浩は言葉を発することなく、ただ短く頷くばかりである。
底を外す作業はイリヤが行うことにした。縁を指でなぞった際に感じる微かなふくらみをそっと押し込む。中に仕込まれたばねによる反発する力を感じつつ、そうっと棚板を引き抜いた。
すると、かこん、と軽い音がして、すんなりと棚が外れる。
イリヤは傷をつけぬよう敷物の上に外した棚板を置くと、そっと中をのぞき込む。意外と奥行きがあるようで、そのままでは内部がよく見えない。ワゴンからペンライトを探し出すと、イリヤは電源を入れ暗がりへ光源を向けた。
改めて二人は中を覗き込み、
「……っ、」
思わず息を呑んだ。
ペンライトの明かりに照らされて、卵状の小物入れがきらきらと瞬いていた。卵を守るようにチェスト内部にはクッションを仕込んだ上質な夜色の布が張られている。その姿はあたかも暗がりの中に浮かぶ氷の塊のようだった。美しく細やかな彫刻の価値は遠目に見ても分かる。
イリヤは似たようなものをサンクトペテルブルクの美術館で見たことがあった。
「『ファベルジェの卵』だ」
浩が呟いた。「取り出してみてもいいか」
「いいよ」
浩が両手を伸ばしそっと取り出すと、その手の中に卵型の小物入れがすとんとおさまる。色のない半透明の卵の中にはなにやら花かごのようなものが入っているのが見えた。
浩はそれを目の当たりにした刹那、短く言い放つ。
「あっ、これ、贋作だ」
「……、うん? これ、偽物なの? こんなにきれいなのに?」
そうだよ、と浩は淡々と答えた。
「『ファベルジェの卵』――一般にはインペリアル・イースター・エッグと呼ばれる、ロマノフ朝時代の皇帝のために作られた美術工芸品だ。本物は一九一三年の作品だけれど、二〇〇〇年代に競売にかけられて今は本国とは別のところにある」
しかし、と浩は微かに唸る。「かなり現物に近い構成なのが気にかかる。使われているのはダイヤ・水晶・プラチナ、あとは金と、正長石……、それからデマントイドガーネットかな。全部本物と同じものを用いている」
「妙だな」
「妙だよ。可能性があるとすれば……」
浩は少し考えて、実にさっぱりとした口調で言った。「脱税、かな。そう思うと昨日の連中が躍起になってこれを探していた説明がつく。おそらくだけれど、このチェストのオーナーは比較的最近このチェストを手に入れたんじゃないか」
イリヤは依頼を受けた際に渡された資料を思い返し、浩の言い分に全面的に肯定した。
「何らかの手違いでチェストが競売にかけられ、今のオーナーの手に渡ったんだろう。それだけでも大失態だというのに、エレホンにチェストを持ち込むなんてことをされたから、向こうは相当慌てたんじゃないかな……」
浩はそこまで言うと、壊さぬよう優しい手つきでその卵を近くのテーブルの上に置いた。
「ああ、裸眼だと判別しにくいな。君、ちゃんと鑑定する必要はあるかい」
その問いに、イリヤは否と答えた。
「薄々気づいてはいたけれど、君になんでもお願いすると俺の報酬が減るんだ」
「あ、一応気づいていたんだね」
浩はさっぱりした口調で言う。「てっきりそのあたりを考慮していないものだと思っていたよ」
「俺だって長年エレホン技術部門のトップに君臨する訳じゃない。ちなみに、今回はどこまでが課金対象だい」
そうだな、と浩は呟く。暫しの逡巡ののち、
「人質の件で迷惑かけたのと、昨日君が手掛けたラフ画を散々拝ませてもらったから……。鍵穴を見つけるまでの三分間でいいよ」
そして浩は胸の前で三本指を立てて見せた。「ちなみに、俺の時間あたりの基準単価はこれだ」
「……三万ルーブル?」
「三十万ルーブル」
ちなみに、本日時点での一ルーブルは日本円換算で約二円である。
俺の単価の三倍――、とイリヤが呆然とする中、浩は手袋を外し上げていた前髪をがしがしとかき乱した。
「じゃあ、俺は今度こそ帰るよ。支払いについては相良に言ってくれ、彼は俺のマネージャーだから」
トレンチコートを羽織りながら事務的な内容を伝えると、――浩はふとイリヤの視線を感じた。のろのろとイリヤへ目を向けると、彼は確かに浩を見つめている。しかし、今までの穏やかな眼差しではなかった。
生気など一切感じられない、どす黒いものを奥深くに沈めた眼。それは昨夜一瞬だけ見せたものだ。
心臓が跳ねる。
これはいったいどうしたものだろう。苦し紛れに浩が絞り出すような声色で尋ねた。
「今度は何?」
「いや……、多分聞かないほうがいいことだと思うんだけど、やっぱり気になるな。君、なんで俺のことは見えるんだい」
それを耳にした刹那、浩の動きは止まった。
どういう意味? と唇が動く。声は出なかった。
「そういう人間をひとり知っている。君、生物の『見え方』――否、生物が視界に入ったときの脳の動き、か。他の人と随分異なる動きをしているんじゃないか」
たとえばそう、とイリヤは言う。「『生物』と『人形』が入れ替わって認識されている、とか」
今まで真顔を貫いていた浩の表情に微かな変化が訪れた。ただでさえ白い肌に血の気が失せ、口唇が震えている。イリヤの言う漠然とした表現の真意を、彼はきちんと理解できているように見えた。
「なぜそう思う」
「少し君の挙動を観察させてもらった。目の動きがあまりに独特だったから」
イリヤは淡々とした口調で話してはいるけれど、口を動かすたびにその瞳が淀んでいくのが分かる。
刹那、浩はようやく理解した。
――彼は間違いなく、『こちら側』の人間だ。
浩は一瞬口を閉ざし、それから、
「……、君が『かみさま』たる所以を今更ながら実感している」
と返した。「そうだよ。俺はたぶん、普通の人とものの見え方が違う」
彼の黒い瞳のインクルージョンは限りなく少ない。イリヤほど淀んだものは沈殿していないけれど、代わりに生物たる要素が抜け落ちている。
貴重な双黒の石が一組、『かみさま』の前に差し出された。
「興味があるなら、教えてあげる」
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