第三章 Trigger(2) 邂逅

***


 営業担当と電話してから数時間後のことだった。

 引き続きアトリエで粘っていたイリヤの元に、二人の来客があった。


 ひとりはエレホン美術品鑑定士派遣部門の営業担当――確か名はサガラといったはずだ――である。彼のことはイリヤも知っており、会えば少しの話をするくらいの仲だった。昔は官公庁に勤めていたそうだが、身体を壊したことをきっかけにエレホンへ入団したのだと聞く。非常に面倒見の良い、穏やかな性格の持ち主である。


 そして、彼の後ろにもうひとり、見慣れない男がいた。

 イリヤは少し驚いて、思わずその身体を硬直させる。


 背はさほど高くない。黒い髪はオールバックにし、凛とした面持ちでサガラと何か話している。スリーピースに身を包む彼の背には縦長の大きなバッグ、それから片手には封が閉じられた紙袋が下げられていた。


 正直なところ、イリヤはティーンが来たのかと思った。その見た目があまりに若かったためだ。それに、男性としては体の線が細く――こんなことを本人に言ったらものすごく失礼だろうが――、心なしか女性的な雰囲気があった。


「イリヤ、久しぶり。例の鑑定士を連れて来たよ」


 サガラは開口一番、このように告げた。


 ――こんな子供が?


 そう思ったイリヤだったが、すぐに人当たりのよい表情を作り上げ彼に挨拶をした。日本語はほとんど話せないが、唯一できる少しの言葉を組み合わせれば意外とどうにかなるものである。


「ハジメマシテ。ヨロシクオネガイシマス」

「ああ、はい。どうも」


 ところが彼はイリヤを見るなり不愛想な声色で返答し、数秒思案した上でこのようにイリヤへ伝えた。


「……ロシア人? 無理に外国語で話さなくてもいいですよ。俺、ロシア語話せるので。英語のほうがいいならそうしますけど」


 その口から紡ぎ出されたのが流暢なロシア語だ。イリヤは思わず瞠目するも、すぐに自分もロシア語で返事をする。


「特に支障がないのであればロシア語のほうがありがたい。ゆっくり話さなくてもいいのかい」


「あなたが一番楽に話せる速度で構いません」


 さて、と彼は部屋の奥にある例のチェストへ目を向ける。羽織っていたトレンチコーチを脱ぎながら、呆気にとられているイリヤに問いかけた。


「例の『金庫』って、あれのこと?」

「ああ、そうだが」

「触っても?」

「構わない」


 彼はポケットから白い手袋を取り出し、両手に嵌めた。表情を崩さずチェストを一周ぐるっと見て回り、そしてチェスト二段目の引き出しに手をかける。

 彼はいったい何をしているのだろう。そこを触っても引き出しそのものはフェイクである。普通のチェストのように手前に引き出したりすることなどできず、一枚扉にそれらしい模様をつけたようなものなのだ。


「無駄だよ、そこは――」


 イリヤがそう呼びかけた、次の瞬間。

 彼の目の前で、二段目の引き出しの淵を飾る板がずるりと


「えっ」


 動揺したイリヤには目もくれず、男はずれた天板をじっと見つめている。――否、ずれた板の下から現れた小さな丸いくぼみに目を向けていた。

 それはどうやら鍵穴らしかった。ふむ、と男は唸り、胸元からペンライトを取り出す。鍵穴へ光を投入し中を覗き込むと、ようやく彼はイリヤへ向き直った。


「鍵は?」

「そんなもの、初めからついていなかったさ」

「分かった。じゃあ、こういうものを作るといい。あなたならすぐに作れるでしょう」


 そう言うと、男はメモ帳にさらさらと絵を描いてイリヤへ渡した。


 鍵の設計図だった。数十秒ほどで描いたものとは思えないほど指定が細かく、このメモ書き自体がひとつの作品だと言われてもおかしくないほどのレベルである。

 ほう、と感嘆の声を洩らしたイリヤである。


「その通りに作れば開く。試してみて」

 彼はそう言うと、再び鞄を担ぎ直し「До свидания.じゃあね」と足早にアトリエを出ていってしまった。


 一週間以上粘っても開けられなかったイリヤをよそに、彼はものの数分で謎を解き明かしてしまった。


 ――何者だ、あれは。

 ほぼ一瞬で仕掛けを見抜き、風のように去った日本人。エレホンにそんな人物がいるだなんて聞いたことがない。


 イリヤはほけほけと微笑んでいるサガラを捕まえると、興奮した様子で言った。


「サガラ、あのティーンはいったい何者だい?」

「ティーンじゃないですよ、あの顔で二十四歳です。確かにエレホンの鑑定士の中ではかなり若いですけれど」

「ず、ずるい……これだから東洋人というやつは……」


 色々と言いたいことはあるが、論点はそこじゃない。イリヤはもうひとつ彼に尋ねた。


「ねえ。また、彼に会えたりしないかな」


 その言葉を耳にしたサガラが、ぴたりと動きを止めた。彼にしては珍しい神妙な面持ちのまま、イリヤに対しひとつ問いかけをする。


「彼に興味がおありですか」

「うん。驚いたんだよ、俺は。はっきり言って日本の鑑定士はあまり質がよろしくない。どうして隠しているんだい、彼のことを」

 それに、とイリヤは言う。「これは……本音だけれど。俺はロシア語が話せる人に久しぶりに会った。嬉しいから彼ともっと話してみたい。友達になれないだろうか」

「彼、結構変わっているけれど……そのへん、大丈夫?」

「変人じゃない芸術家がどこにいるの」


 サガラはイリヤの言い分を聞くと、しばらくうんうんと唸り声を上げ始めた。いやでも、しかし……とイリヤの聞き取れない日本語をいくつか並べたのち、彼はようやく覚悟を決めたらしかった。


 失礼、と眼前のイリヤに声をかけると、彼は携帯を取り出しどこかに電話をかけはじめた。


「……ああ、浩くん? さっきはありがとう。お休み中だというのに呼び出して悪かったね。ところで君、紙袋を忘れているようだけれど」


 サガラはそう言いながら己の足元に目を向ける。そこには確かに、男が持っていた紙袋がそのまま置いてあった。イリヤはサガラが何を言っているかまるで分からなかったが、おそらく紙袋を忘れていることを指摘したのではないかと思った。


「さっきの彼が届けてくれるって言っているよ。どうする? ……うん、そう、表の通りにある喫茶店だね。分かった、伝えよう」


 それじゃあ、とサガラは電話を切り、イリヤへ声をかけた。


「二〇分後に、表の通りにある喫茶店にこの紙袋を持って行くといいよ。そこで待ち合わせるようにしたから」

「素晴らしい! ありがとう、サガラ」


 そうと決まれば外に出る支度をしなければ。イリヤは手袋を外し作業台の上に置くと、手を洗いに奥の流し場へ向かう。

 確実に浮足立っている彼の背中を、サガラはまるで我が子を見るような穏やかな目で見つめていた。


「ねえ」


 そして一言、彼はこのように呼びかける。イリヤはまだ手を洗っているのだろう。声だけで「なんだい?」と返した。


「あの子、とってもいい子だから。仲良くしてあげてくれるかい」


 もちろん、とイリヤは即答する。


「ベストを尽くすよ」

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