第88話 真実の想い

 バクバクと鳴る胸の鼓動に、かすかな目眩と吐き気さえ感じてしまう。

 しっかりと握り締められた手を乱暴に振り払う事も出来ず、じわりと汗が滲んでくる。

 彼の言うように、確かに彼はずっとこの返事を待っていた。すぐにでも返事が聞きたかったはずなのに、国民達の手前今はそれを最優先するべきではないからと喪が明けるまでの長い時間を待ち続けていたのだ。

 断ると心に決めて覚悟も決めたと言うのに、やはり本人を前にすると申し訳ない気持ちに包まれて上手く思っていたことを口に出せない。だが、今言わずしていつ言うのだろうか。先延ばしにしても結果は同じなら、早く伝えるに越した事はないはずだ。

 リリアナはもう一度自分の胸にそう言い聞かせ、ぐっと唇を噛んだ。

「……ご、ごめん、なさい」

 目をあわせられないまま、リリアナは顔を俯けたままなんとかそう口にするとピクリとロゼスの動きが止まる。

 リリアナはぎゅっと目を閉じたまま、意を決したようにもう一度同じ言葉を口にした。

「ごめんなさい。ロゼス王子は、とてもよい方だと思います。親切で優しくて、何よりあたしの事を考えてくださる素敵な方です。でも、あたし……まだそんな気にはなれなくて……」

 言った。言ってしまった。

 思っていたことを口にした事でどこか安堵したような気持ちと、それ以上に不安な気持ちでバクバクと胸が鳴っているのを自分の中で聞いていた。

 リリアナは何も語らなくなったロゼスを、おそるおそる見ると彼は心底落ち込んだような目で視線を逸らしていた。

「……そうか……」

 溜息混じりにそう呟いた言葉があまりにも切なくて、リリアナは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、感極まって涙が滲み出そうになった。

「ロゼス王子……?」

「……じゃあ、待つよ」

「え?」

 思いがけない言葉が返ってきた事に、リリアナは目を瞬いた。

 落ち込んでいたように見えたロゼスだったが、すぐにこちらを真っ直ぐ見つめ返し、緩めていた手に力を込めてリリアナの手を握り返してくる。

「しつこいと思われても仕方がないけど……でも、君がその気になるまで待つよ」

「ロ、ロゼス王子……?」

「僕にとって君は、これまで生きてきた人生の中で一番心惹かれた女性なんだ。市民の為に身分や階級など関係なく公平に対処してくれる君は、僕の国の民にとっても必要だと思う。だから、君が僕との結婚に頷いてくれるのを待ちたい。それが、どれだけの時間がかかっても……」

 待ちたいと訴えかけるロゼスに、リリアナはどう答えてよいか瞬間的に分からなくなってしまった。

 あなたの事が嫌いだからそんな気には絶対にならない。そう言えれば気も楽なのだが、彼の事は嫌いとは言えなかった。

 またこんな中途半端な状況で、これから先も相手に期待だけを持たせたままでいてもらうのか……。

 リリアナは自問自答を繰り返した。しかし、やはりそんな状況のままで良いはずがない。

 握り締められていた手をそっと振り解いて顔を俯けてそっと目を伏せる。そしてかすかに震える声で口を開いた。

「……ごめんなさい」

「リリアナ……」

「ごめんなさい……。これから先どれだけ待ってもらっても、あたし……きっとあなたの想いには応えられません」

「なぜ? 誰か他に、心惹かれる男性がいるの?」

 その問いかけに、リリアナは躊躇いながらもしっかりと頷き返した。

 どこの誰とはどうしても言えない。それでも、自分の気持ちに嘘は付かず本当の事を伝えたかった。

「その人とはこの先に続く道を交える事はないかもしれません。でも、あたし、これから先どんな未来が待っていようとも、その人を愛してま、す……」

 リリアナが震える声でそう言いながら視線を上げ、ロゼスを振り返った瞬間。そのロゼスの遥か後方にレルムの姿を捉え思わず動きが止まってしまった。

 レルムは仕事の途中だったのだろう。何枚もの書面を手にしたまま、この東屋で話している自分たちを見つけて彼もまた足を止めてしまったようだった。

 ほんの僅かな視線の交わり。何故かそらせなくて固まってしまったリリアナの視線を追い、ロゼスが後ろを振り返った。

「あ……」

「……」

 バレてしまうかもしれないと思うと焦りが生まれ、瞬間的に声が漏れた。

「……」

「……」

 2人の間に僅かな沈黙が生まれ、リリアナはそれが気まずくて一人で勝手に焦りを覚える。

 ロゼスが振り返るよりも僅かに早く、レルムは通路の奥へと消えたのだが……。

「……誰か、いたの?」

 しばしの沈黙の後、そう訊ね返してきたロゼスにリリアナは内心ホッと胸を撫で下ろしながら首を横に振る。

「い、いえ……。ただ、普段あまり見ない猫が通ったものだから……」

 何とかそう取り繕ってみる。あまりにも嘘臭い言い訳だったかもしれない。それでも、他に思いつく言葉が見つからずそう言うしかなかった。

 ロゼスは長い息を吐き、後方を振り返っていた視線をリリアナに戻すと今度こそ本当に残念そうに呟いた。

「……そうか。君には想い人がいるんだね。君にそこまで愛されている相手が、正直とても羨ましいよ」

「ロゼス王子……」

 とても残念そうに、少し寂しげに微笑みながらリリアナを見る彼の姿に、意図せず涙がこみ上げてきた。

 彼の自分を想う気持ちを痛いほど分かっていても、その想いに応えられない事への申し訳なさがとても苦しくて仕方がなかった。

「ごめんなさい……」

 ボロボロと涙をこぼしながらもう一度謝ったリリアナに、ロゼスは困ったように微笑んだ。

「謝らないで。リリアナの気持ちは分かったから……」

 ロゼスは胸ポケットからハンカチを取り出し、リリアナの涙をそっと拭う。その優しさにますます涙が止まらなくなってしまった。

 自分から彼の一世一代のプロポーズを振っておいて、泣くのは間違えているのかもしれない。それでも、溢れ出る涙が止められなかった。

「誰かを好きになる気持ちは、誰にも止められない。自分では調整が利かないんだから、仕方がない事だよ」

 そう言いながら手にしていたハンカチをそっとリリアナの手に握らせると、ロゼスはクスッと笑ってみせる。

「だから……やっぱり僕は、君を待つよ」

「……王子」

「今回のプロポーズは白紙に戻して構わない。でも、君の言うように、君と僕の道がこの先交わる事が無かったとしても、僕が君を想っている限り待ちたいんだ。往生際が悪いって思われてもいい。みっともないって思われたって構わない。この先何が起こるかなんて誰にも分からないし……。だからこそもう一度だけ、僕に君を待つチャンスをくれないかい?」

 どれだけ待ってもロゼスの想いには応えられない。そう伝えても尚、彼は自分の事を待つという。それだけ、彼の気持ちが本気だと言う事がよく分かった。

「でも……」

「いいんだ。僕のことは何かあった時の保険だと思ってくれて良い。これから先、もし君の望む通りに行かなくなって困難な事が起きたら、僕を頼って。僕はいつでも待ってるから」

「……っ」

「僕は、遠くから君の望みが叶う事、祈ってる」

 微笑みながらそう告げたロゼスの言葉に、手渡されたハンカチをぎゅっと握り締めながら大粒の涙をこぼし、リリアナは頷き返した。




「ロゼス様……」

「残念だけど、フラれたよ。ランバート」

 明日帰国する事になっていたロゼスはその晩、あてがわれていた部屋の窓辺に立ち寂しそうに笑いながら控えていたランバートにそう告げた。ランバートもまた何と言葉を返して良いのか分からず、そして心底残念そうに頭を下げる。

「それは誠に……残念でございます。リリアナ様は本当に素晴らしいお方ですから……」

 窓から見える半月の月明かり。デルフォスの中庭を見下ろせるその窓辺から外を見ていたロゼスは、その視線の先に見回りをしているレルムの姿を捉えた。

 自分に与えられた職務を真面目にこなし、誠実そうなレルムの姿を見つめながらロゼスは目を細める。

「……でも、彼女はもう一度僕に待つチャンスをくれた。今はそれだけで十分だよ」

 そう呟きながら、ロゼスはモヤモヤとする気持ちを胸の奥に押し留めた。

 本当は知っていた。リリアナが愛していると言ったあの時、自分の背後にレルムがいた事を。そして彼女がレルムに心を奪われていたのは自分と出会うより前だったと言う事も、レルムが彼女に想いを寄せている事も……。

 心から好きになった彼女を見ていれば、それぐらい簡単に看破できた。

 従者との相容れない恋路。お互いそれは十分すぎるほど分かっている事だろう。だからと言ってそれを無理やり引き裂くような真似はしたくなかった。

「……僕は本当に彼女の事を愛してる。だから彼女が悲しむ姿は見たくないんだ。彼女の望みが叶うよう祈りたい。だけど……諦める事もしない」

 ロゼスはレルムが立ち去った中庭を見つめながら、きゅっと拳を握り締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る