第71話 感謝と謝罪

 ガーランドのクロッカ病に対する新薬の実験は、ほどなくして始められる事になった。

 全てが万全の体制を整えた中で、ガーランドの寝室に集まったリリアナとポルカ、そしてルシハルンブルクの医療班数十名と新薬開発者のゲーリが集まっている。

 緊張感で張り詰めれた部屋の中は、人数の多さもあってかなにやら少し息苦しささえ覚えた。

「では、まず初めに、新薬についての簡単な説明をさせて頂きます」

 皆固い表情の中、そう言って立ち上がったのはゲーリだった。事前に壁に貼り出された大きな紙には、今回の新薬に見込める薬の効能、成分、考えられる副作用、薬自体がような働きをするのかが事細やかに書かれていた。

 一般にはあまり見られない記号や医学用語なども散りばめられており、おそらくこの場にいてそれが理解できないのはポルカぐらいかもしれない。

 ゲーリはその紙の前に立ち、リリアナたちをぐるりと見回してからおもむろに話を始めた。

「その前に、あらかじめ言っておきますが、この薬は病原体そのものを撃退する物ではなく、働きを制御するものです。体内で繰り返される内臓同士の萎縮と癒着をさせるウイルスの動きを鈍らせ、進行を遅らせるためのものだと言う事を理解していただきたいと思います」

 撃退できるほどの万能薬ではない。これは、ほんの足がかりの一つになる薬に過ぎない。そう言い置いてからゲーリは説明を始めた。どれもこれも一般には簡単に理解できるような説明ではなかったが、難しい言葉を上手く噛み砕き医療に無知なポルカにも分かるよう丁寧な説明をするのはゲーリらしい。

 診療所にやってくる患者さんに対してもそうだ。彼はいつでも分かりやすいようにそれぞれの人に理解できるような物の言い方をする。だから村の皆からも親しまれ、信頼されているのだ。

 真剣に聞き入るポルカの横で、リリアナはゲーリを見つめながらぼんやりとそんな事を思い出していた。

 あの日、ゲーリの告白を聞いて振り切ったのは間違いだっただろうか? もしあの時、あの手を振り切らなかったら今頃どうなっていただろう?

 そう思っては見るものの、遅かれ早かれ離れ離れにならなければいけない事は決まっていたはずだ。今更、考えても仕方がないことなのはわかっている。でも、考えるのを止められなくなっているのはどうしてだろうか……。

 リリアナは小さくため息を吐いて少し俯いた。

 本当はわかっている。こうなる事が分かっていたはずなのに、実際そうなってみると言いようのないほど……寂しい。

 あの頃に戻れないならば、せめて少しでも深くなってしまった溝を埋めたい。

 リリアナはそう思っていた。

 これから大変な実験を始めると言うのに、こんな自分本位なことばかり考えていてはいけないのだがその考えを止められそうにもなかった。

「……と、説明は以上です。何かご質問は?」

 あれこれと考えている間に、ゲーリの説明が終わった。彼の問いかけに誰も質問も無く、問題ないように思えた。

「では、早速ですが……。王妃様。本当に宜しいのですね?」

 最終確認の為に、ゲーリがポルカに問いかけると、彼女は口元に笑みを湛えて頷き返した。

「えぇ。これは一国の為であり、ゆくゆくは同じ病に苦しむ人々にとっても大切な事です。もはや迷いはありません」

「かしこまりました……。では、始めさせていただきます」

 ポルカの固い意志を聞き、ゲーリとルシハルンブルクの医療班達は準備に取り掛かった。

 ゲーリが運んできたワクチンを注射器に吸い上げ、眠るガーランドの腕に繋がれた管にゆっくりと流し込んでいく。その間にも以上が見られないかどうか等を緊張の面持ちで誰もが見つめていた。

 薬が全て注入されると、誰もが黙ったままガーランドを見つめた。

 気が狂いそうなほど、長いようで短い経過観察の時間。思わず息を潜めて、異常がない事をただひたすら願ってやまなかった。

 それから約十分程度、細かいチェックをしながら異常が現れないかどうかを診ていた医師たちは、一様に深いため息をこぼす。

「……特に異常は見られません。目立った変かも現在のところありません」

「心肺、脈拍、こちらも共に変化はありません」

「呼吸、安定しています」

「副反応による発疹反応等も現在のところ見受けられません」

 この中で誰よりも一番緊張していたのは、ゲーリ本人だったかもしれない。まだ誰にも試していない、生まれたばかりの新薬。それがきっかけで一国の王の命を奪うような事があったとしたら、決して許される事ではない。

 だが、これが……この薬が、自分とリリアナを繋ぐ最後の架け橋だと信じてここまでやってきた。だからゲーリにとっても、これは一か八かの大勝負だったのだ。

 医療班達のチェックに異常がないと聞くたびに、ゲーリに始まり、ここにいる全員の緊張感が一つ一つほぐされていくのが分かる。

「現在のところ、全てのチェック項目に異常はございません。極めて順調な滑り出しだと言えるでしょう」

 その一言が聞けた瞬間の、何ともいえない安心感は誰もが抱いていたものだった。まだ、油断が出来るわけではないのは分かっている。それでも第一関門突破と思えば、ほっと胸を撫で下ろすのも頷ける。

「今後長期に渡って経過観察を続けて行きたいと思います。それによる色々なデータも取らせていただきます」

「えぇ……。宜しく頼みましたよ」

 報告を受けたポルカも、深いため息と共に肩の力が抜けていた。

 もうあとはゲーリと医療班に全て任せるしかない。

 ホッと息をついたポルカを見つめ、リリアナもひとまず安堵の色を見せた。



 それから数時間が経った。途中急激な血圧の低下と脈拍が微弱状態になり騒然としたが、その後は何事も無く経過を続けている。

 ひとまず安定している今の内に遅い昼食を摂る事になったポルカ達は、医療班に仕事を任せてゲーリを食事の席へ招いた。

 サンドイッチやフルーツなどの軽食だったが、今はそれで十分なほどだ。

「ゲーリさん、どうぞ。そちらにお座り下さい」

 ポルカに進められ、ゲーリはリリアナの座る席の向かい側に腰を下ろした。

 彼が椅子に座った瞬間、2人の視線はカチリと合う。だが、一瞬早くリリアナの方が視線を逸らしてしまった。

「……」

 ゲーリが僅かに表情を曇らせて視線を下げると、ポルカはそんな2人の様子を見て小さくため息を吐く。

 2人が気まずそうにしてしまう原因には、直接的ではないにしろ自分も関係している。そう思うと僅かながら心が痛んだ。

 2人を引き離した原因が自分にないとは言いきれないのだから、無理もない。

 ポルカは黙り込んでいるゲーリに視線を向けると、静かに口を開く。

「……ゲーリさん。この食事の席にお呼びしたのは、改めてあなたにお礼を申し上げたかったからです」

「……」

 静かに語るポルカの言葉に、ゲーリは下げていた視線を上げて彼女を見つめ返した。

 ゲーリのその瞳を見つめて、ポルカはふっと瞼を下げゆるゆると首を横に振る。

「いえ……。その前に、私はあなたに謝らなければならない事がありますね」

「……」

 ポルカは伏せていた瞳を開き、真っ直ぐにゲーリを見据えると、彼は困惑したような眼差しを向けてきた。

「あなたとリリアナのこれまでの暮らしを一変させ、引き離してしまった事……本当に申し訳ありません」

「王妃様……」

 小さく頭を下げて謝罪するポルカに、ゲーリは驚きとも戸惑いとも取れる表情を浮かべた。

「あなたがこの子と別れなければならなかった時、身を裂かれるような思いだった事と思います。あなたは、リリアナを赤ん坊の頃から育ててくださったんですものね」

「……っ」

「あなたにとって、この子はかけがえのない家族の一人だったはずですもの。それを、私個人の指示で引き裂いてしまった。私はまず、あなたにその事を謝らなければならないと思っていました」

 誠実な言葉の一つ一つが、ゲーリの心に響いてくる。

 ポルカの言葉に、彼の心が大きく揺さぶられ、また傷を少しでも軽減させてくれるような気持ちになった。

 慈悲深く、愛情深いポルカの心に、ゲーリは反論する気も起きなかった。

「……勿体無いお言葉です……」

 俯いたゲーリが、ようやく言えたのはその言葉だけだった。

 そんな彼の姿を見つめていたポルカは、真っ直ぐに彼を見つめたまま言葉を続ける。

「そして、もう一つ。あなたがこの子をここまで育ててくれた事、あなたの家族として迎え入れ、生かしてくれた事……本当に、ありがとうございます」

「……」

 ゲーリの胸中は切なさに満たされて、溢れ出そうな涙をぐっと唇を噛んで堪えていた。

 黙りこみ、じっと涙を堪えるゲーリの姿を見ていたリリアナの方が堪えきれない涙を流していた。

「何より、国王の為に薬を研究し、開発してくださった事。感謝してもしたりません」

「……王妃様」

 ゲーリは俯いていた頭をもたげ、赤くなった目元のままポルカを見つめた。

 本当はそんな素晴らしい理由ではないと言いたくても言えず、それは胸の中に押し込める。そしてふと湧いた疑問をポルカにぶつけてみた。

「なぜ、安全性も確認されていない、危険かもしれない新薬を試そうと思ったんですか……」

 搾り出すような声でそう訊ねると、ポルカは少しばかり驚いたように目を見開くも、すぐにふっと目尻を緩めて微笑み返した。

「それは……。あなたが、リリアナが信頼を寄せるたった一人の家族だからです」

「……っ!」

「お母さん……」

 家族だから。そう言い置いた事に、ゲーリとリリアナは驚きに目を見開いた。

 そんな2人を見やりながら、ポルカは話を続ける。

「この子があなたに信頼を寄せているのなら、私もそれを信じなくては何も始まらないでしょう?」

「ですが、一国の主の命を奪う可能性は否定できないのに……」

「それは、あなたの責任ではありません。あなたを信じ、薬を使う事を決断した私の責任です。あなたがその事で気に病むことは何一つないのですよ」

 にっこりと微笑んでそう言い切ったポルカに、ゲーリは堪らず顔を俯かせると滲み出た涙を拭う。

 疑ってかかる事も出来たが、それではリリアナを信じた事にはならない。リリアナを信じたいから、彼女が頼り、信頼を寄せる彼の事を無条件で信じる。もしもの事があっても、それはゲーリの責任ではない。

 そのポルカの言葉に、ゲーリの心の中にわだかまっていた黒い物が全て涙と共に流されていくようだった。

「……ありがとう、ございます」

 ゲーリはまだ涙が滲む眼差しのまま、その場に立ち上がりポルカへと頭を下げた。

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