第60話 初めての苦いキス

 翌朝、馬車に揺られながらマルリース離宮を目指していたリリアナは、無理を言って同乗してもらったレルムを前に緊張していた。

 昨日聞いた事が頭の中をグルグルと巡って仕方がない。これから彼がどうするつもりなのか、後継者の事をどう考えているのか聞きたかった。

 幸いにも、馬車の中は二人きり。道を走る車輪の音が大きくてこちらの会話までは外には聞こえないだろう。

「あの……レルムさん」

 勇気を出して声をかけたリリアナに、向かい側に座っていたレルムが不思議そうにこちらを見つめ返してくる。

 このもやもやを少しでも払拭しなければ、医師たちから直接指導してもらう貴重な勉強に身が入らなさそうだ。

「昨日、ドリーから聞いたんですけど……、総司令官の時期後継者を育ててるって……」

 リリアナのその言葉に、レルムは別段驚いた様子もなくいつもと変わらない様子で頷き返した。

「はい。今は司令官を失い沈静化しているマージですが、新たな司令官を得ればまたいつ奇襲を仕掛けてきてもおかしくない現状です。その中で、万が一のことが私にあった場合でも、代わりに指揮を執れる人材がどうしても必要ですから」

 ごもっともな言い分でそう答えるレルムに、リリアナはぎゅっと膝の上に置いていた手を握り締める。

「でも、総司令官の座には、本来レルムさんの血族がなるのがデルフォスでの慣わしになっているんですよね?」

「そうですね。私の一族とデルフォス王家とで古くから結ばれた掟になっていますから……。ただ、今の私には私の後を継がせる正統な血筋の者がいません。例外中の例外ではあるのですが、他の優秀な人材を保険として立てておく必要はあります」

「……それじゃ、あの……。レルムさんは……その、正統な血筋の後継者について、どう考えてるんですか?」

 俯き加減になりながら、上目遣いにレルムを見る。

 聞くのが怖い。不安に耳障りな鼓動の音だけが響く。

 言い出しにくそうにしているリリアナの姿を見て、レルムは彼女が何を言いたいのかを察すると力なく微笑んだ。

「気にしているのですか? 私がどこかの女性を伴侶に迎えるのではないかと」

「う……、あの……。はい……」

 ズバリ問われて、違うとは言い切れない。

 自分の気持ちを隠す事も出来ないまま遠慮がちに頷いて答えると、レルムはリリアナから僅かに視線を逸らした。

 どこか物憂げな目をするそんな彼の横顔を見ると、不安に押しつぶされそうになる。

「……確かに……」

 しばしの沈黙の後、レルムはリリアナから視線を外したまま、流れていく窓の外の景色を見つめながら静かに口を開く。

「いずれそうしなくてはならない時がくるでしょう」

 その声があまりに静かで淡々とした響きを持っている事に、リリアナは一層不安に包まれた。

「……っ」

 どんな言葉を発して良いのか分からなくなり、リリアナもまた視線を下げてしまう。

 彼が自分の事をとても大切に想ってくれていることは分かっている。その彼の事を信じていないわけじゃない。だが、この問題は信じる信じない以前の話だ。

 たとえどんなに彼を信じていようとも、二人の間にある目には見えない身分差と言う壁の厚さは計り知れない。それに背くような事があれば重大な問題として扱われ、それこそ今のように近くにいる事は叶わなくなるかもしれない。

 そんな風に考えると、ゾッとしてしまう。

 いつも傍にいて欲しいと願っていても、ただ傍にいるのとは意味が違う。彼が総司令官と言う座に着いている間は間違いなく自分の傍にいてくれる。だが、それでは違うのだ。

 今ではないこれから先のどこかで、その辛い決断を踏み出さなければならない時がいずれ必ず来てしまうと思うと、気分は塞ぎこむ。

「……これが、身分差って言う事なんですね」

「……」

 まだ先の未来の重さを知り、リリアナは俯いたまま深いため息を吐いた。

 膝の上で握られていた手に視線を落としたまま、それ以上どう言葉を返して良いのか分からずただ落ち込んでしまう。

 やはり聞かなければよかった。そんな後悔が胸の中に渦巻く。

 黙りこんだリリアナへ視線を戻したレルムは、表情を曇らせた。

 この事を知るのはもっと先でよいと思っていたのだが、思いがけず彼女から質問があった事で、いつかは必ずぶつからなければならなかった壁に今ぶつかった。

 正直なところ身分差と言うものがどう言う物か、周りに言われて何となく理解はしていたのだろうが、リリアナ自身まだ良く分かっていなかったのかもしれない。

 落ち込んだ様子のリリアナを見つめていたレルムは、ふっと短い息を吐く。

「そうなるとしても、まだ先の話ですよ」

「わ、分かってます……。けど……」

 リリアナは握り締めていた拳を更にきつく握りこむと、下げていた視線を窓の外へと向けた。

「これから先の道が分かれていると知ってて歩くのは……辛いです」

 苦しげにそう呟くと、レルムは視線を下げて静かに口を開く。

「……それは、私達がこうなる以前から分かっていた事です」

「……っ」

 リリアナは泣き出しそうになるのを堪えるかのようにきゅっと口を引き結び、窓からレルムに視線を向けると、彼は表情を曇らせたまま静かに言葉を続ける。

「あなたと私は初めから、同じ道を歩む事はできない定め。決して許される事ではありません」

「でも……っ」

 まるで突然突き放されたかようなその言葉に、リリアナは瞬間的に声を上げた。しかし、それ以上の言葉が続けられず飲み込んでしまう。

 これ以上何かを言ってしまったら、また泣いてしまいそうだった。

 納得できないのに納得しなければならない事に、ぎゅっと唇を噛み締めて涙を堪えているリリアナを見るレルムの胸は、とても苦しかった。

 ふっと瞳を閉じ、苦しそうに呟く。

「申し訳ありません……。あなたに、そんな想いをさせるつもりはなかったんです」

 リリアナはとても苦しそうに話すレルムをじっと見つめていた。

 閉じていた瞳を開き、レルムは彼女を見つめ返しながら更に言葉を続ける。

「私の心には、あなた以外の女性が入り込む隙などどこにもありません。今の私には、あなたしか愛せない……。他の誰かではなく、あなただけでいいんです」

「レルムさん……」

 レルムが想っているように、自分も全く同じように彼を想っている。こんなにも相手を想っているのに、それは結ばれてはいけないものなのだと思うほど強く惹き付ける。

 リリアナはそっと目を閉じると目尻に涙が滲むのを感じた。

 やがてレルムは浅く溜息を吐くと、感情的な気持ちを抑えた落ち着いた声音に戻る。

「ですが……、ガーランド様が再び私達の前に立った時こそ、この関係は断ち切らなければならなくなります」

「そんな……っ」

 ドクリと胸が不安に鳴った。

 自分たちの関係の終わりは、もう既に決まっている。

 そう告げたレルムの言葉を、俄かには信じたくない思いに包まれた。

「陛下はあなたの為にも、デルフォスの為にもいなくてはならない大切な方です。ですから、あなたの陛下を助けたいと言う望みは、必ず貫いて欲しい」

 レルムは真っ直ぐにリリアナを見つめたまま、これから先の話を続けた。

「……私が妻を娶り、正統な後継者を作るのだとしたら……それは、その時以外ありません」

 はっきりと告げられた言葉に、リリアナの目から堪えていた涙が溢れ出た。

 嫌だと言う事は簡単だ。しかし、それを言ったところでどうなるわけでもない。

「嫌です……」

 分かっていても、リリアナの口からその言葉が突いて出た。

 頬を伝う涙もそのままに、駄々を捏ねる子供のようにリリアナはレルムを見つめたまま首を横に振った。

「それが分かってたなら、あたし医学の勉強なんて……」

 ――しなかった。

 そう口走りそうになると、ふいに視界が暗くなる。

 リリアナは瞬間的に何が起きたのか分からず、言葉を飲み込んでその場に硬直してしまった。

 唇に当たる暖かく柔らかな感触。突然の事に息をするのも目を瞬く事さえも忘れて、暗くなった視界を見つめていた。

 やがて明るさが戻ってくると同時に、自分の目前にあったのがレルムの顔であった事を理解できた。そして、唇に触れていた暖かいものが何であったのかも……。

 呆然としているリリアナに、背徳感を感じているレルムは沈んだ表情のまま叱るように小さく呟いた。

「……駄目ですよ。そんな事を言っては」

「……っ」

 レルムの言い分が分からないわけじゃなかった。しかし、簡単に納得もしたくはなかった。

 あまり考えもせず、目の前の事にばかり囚われていた自分にも問題があるとは思う。現実を目の当たりにしてしまったばかりに、直視しなくてはならない物を知ってしまった事に後悔とも、苛立ちとも取れない感情が湧いて来る。

 これから楽しい思い出がたくさん作れると、安易に考えて浮ついていた自分が恥ずかしくさえ思う。

 リリアナはぎゅっと唇を噛み締めると顔を伏せ、拳を固く握り締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る