第48話 あなたと……

 アシュベルト王国を出て、再び長い船の旅が始まる。

 マージの船は、兵士達が退散するのと同時に海上から消えた為影響はなく、予定通りの出航となった。

 果てしない水平線。

 レルムは甲板でそんな水平線を見つめていた。

 リズリーを討った事で、元の体を手に入れたレルムは水平線から自分の手に視線を落とす。

 どうにもならない状況の中で犠牲となったリズリー。そんな彼女が遺した言葉はとても胸に響いていた。


『自分の気持ちに嘘を付かないで……』


 あの言葉は、いつまでも背を向けたまま踏み出そうとしない自分に対する、彼女なりの最期の償いとも言える言葉だったかもしれない。

 自分の中に芽吹いた気持ちから目を背ける事は、容易いようでそうじゃない。きちんと向き合わなければ、本当に欲しいものは手に入らない。

「……本当に、欲しい物……」

 ポツリと自分の手を見つめながら呟いてみる。

 これまで何事も、その場の状況を見て諦めた物の方が確かに多かった。

 大切で、手放したくないと思っていたはずのリズリーでさえも、結果的にあの時は仕方がないのだと諦めた。その結果が、こんなに苦い思いだけを残す。

 本当にこのままでいいのだろうか。このまま望んだ物を手にせず、ただ職務に全うする生き方をして良かったと果たして言えるのだろうか……。

「……」

 以前、ポルカに言われた言葉も思い出す。


『職務だけが全てだとは思いません。職務に没頭する事であの時の事を忘れ、次へ進めないと言うのは違うと思うの』


 確かに言っている事は間違いじゃない。ただそれだけが全てじゃない事は分かっていた。

 欲しい物がないわけじゃない。でも、それは手にしたくても出来ない物だ。

 しかし……。

 予期せぬトラブルはあったものの、彼女の初の公務を終えて帰還する事が出来た今、彼女にきちんと話をしなければならない。

 あの日、意図せず告白された事に対する正直な返事を……。

 ぎゅっと手を握り締め、そして再び水平線に目を向けた時だった。

「……レルムさん?」

 その声にゆっくりと振り返ると、顔を赤く染めたリリアナが強い海風に煽られながら立っていた。

「……王女」

「……あ、えと……。その……元気かなと思って……」

 なんと切り出して良いのか分からないのか、リリアナは視界をさ迷わせ躊躇いながらそう呟くと、下唇を軽く噛みながら視線を逸らした。

 彼女なりにとてもこちらに気を使っているのが分かる。

 レルムはリリアナのいる方へ向き直るとふっと微笑んで見せた。

「私なら、大丈夫ですよ」

「……ほんとですか?」

「えぇ」

 いつもと変わらない笑みを彼女に向けると、少しだけホッとしたような色を見せる。

「……えっと……、隣、いいですか?」

「はい」

 モジモジしながら、隣に並んだリリアナは船の縁に手を掛けて潮風を体全体に受けながらそっと目を閉じる。

 強い風に煽られて、艶やかで黒く長い髪がサラサラと後方へたなびいていた。

 胸いっぱいに潮風を吸い込んで、ゆっくりと目を開いたリリアナは、まだ火照った顔のまま水平線を見つめている。

 何かを言いたそうにしている彼女を見やり、レルムは静かに口を開いた。

「……ロゼス王子に、プロポーズをされたそうですね」

「!」

 赤らんだ顔をますます赤らめながら驚いたようにこちらを振り返った彼女の顔を見ていると、胸が海の波のように深くざわつく。

 欲しい物はすぐそこにある。この手を伸ばせば届く距離にあるのに、手を出す事が出来ない。

「……あ、あたし、プロポーズなんて、初めてされました」

「……返事は……」

「ま、まだです。全部が片付いて喪が明けてからでいいって言ってましたし、それに、そんな急に言われても返事なんかできないです」

 耳まで赤くなりながら目を逸らしたリリアナは、船の縁を両手でぎゅっと握り締めた。

 そんな彼女を見ていると、ザワザワと胸が更にざわめいて仕方がない。

 ふっと目を細めて、レルムはリリアナと同じように再び水平線へと視線を戻す。

「そうですね……。ゆっくり考えてみてから、答えを出すのもいいかもしれません」

「レルムさんは……」

 間髪をいれず名を呼ばれて、レルムはもう一度彼女へと視線を戻すとリリアナはどこか不安げに揺れる瞳でこちらを見上げてきた。

 言うべきか言わないべきか躊躇いながら、何度目かのタイミングでようやく口を開く。

「レルムさんは……どうするべきだと思いますか?」

「……」

 その質問に、すぐに答えられない自分が歯がゆかった。

 以前の自分なら、「良い縁談だと思う」とすんなり言えていたかも知れない。しかし、今は以前とは違う。その言葉を言えるほど、自分はリリアナに無関心ではなくなっていた。

 じっとこちらを見上げてくるリリアナから、レルムはしばし沈黙を守って視線を逸らす。

「……私には、分かりません」

「え……」

 思っていた答えとはまるで違う答えが返ってきた事に、今度はリリアナが驚く番だった。

 レルムは僅かに下げていた視線を、もう一度水平線へと移す。

「ただ……、あなたが望むままで良いと思います」

「あたしが……?」

「はい。あなたが、望むままで……」

 驚いたような目で見つめてくるリリアナに視線を戻しながら、レルムは己の心の声を聞く。

 全ての采配は、目の前にいる彼女が振るのだと。

 小波と風の音が響く中で、二人は静かに見詰め合う。その時間はほんの僅かなようで、二人にとってとても長く感じられるものだった。

 リリアナはきゅっと下唇を噛みながら僅かに視線を下げると、抱えていた不安をこぼす。

「……一つだけ、聞いてもいいですか?」

「はい」

「レルムさんは、今後……どうするつもりでいるんですか?」

 その質問に、レルムは僅かに首を傾げる。

 そんな彼の姿を見て、リリアナは慌てながら言葉を付け足した。

「あ、あの、つまり、その……。リズリーさんが亡くなられた事で、もしかしたらレルムさん、このまま騎士をやめちゃうんじゃないかとかデルフォスを出て行っちゃうんじゃないかとか、思ってしまったんです」

「……」

 考えもしなかった事をリリアナが考えていた事に、レルムは驚いて言葉を失ってしまった。

 彼女はそんな事を真剣に悩み、考えていたのだと思うと何だかおかしくなってくる。そしてそれだけ、自分の事を考えてくれているのだと思うと、暖かい気持ちに包まれる。

 クスクスと笑い出したレルムに、リリアナは顔をますます赤らめた。

「わ、わ、笑わないで下さい! し、真剣に悩んでたんですから……っ」

「……申し訳ありません。ただ、それは杞憂と言うものですよ」

 ひとしきり笑った後、レルムは優しい笑みを浮かべて、真っ直ぐにリリアナの方へと向き直った。

 リリアナは熱くなりすぎた顔に両手を当てながら少しだけふてくされたような顔をしていたが、レルムが体ごと自分の方へ向き直った事に気が付き視線を上げた。

 もう迷わない。たとえ思い描く未来が実現出来なくても、今この瞬間だけは、自分の気持ちを素直に伝えよう。

 レルムはゆっくりと手を持ち上げると、熱くなったリリアナの頬へ手を伸ばす。そしてスルリと指先で柔らかな肌を輪郭に沿ってなぞると、リリアナはぴくりと体を跳ね上げた。

「……私は、あなたのお傍を離れる事はありません」

「レルムさん……」

「あなたが望む限り、私はあなたのお傍に居続けます」

「……」

 頬を撫でた指先を離して、そっとリリアナの両肩に手を置き、レルムはきゅっと目を細めて半歩彼女に歩み寄る。

 思いがけずに狭まった距離感に、リリアナは動揺の色を見せて顔を思わず俯けた。

 そんな彼女を見下ろしながら、レルムはそっと目を閉じる。

「……どうぞ、今から私が言う事を、今この時だけで構わないので聞いて下さい」

「……」

 静かに囁くような声でリリアナにそう言うと、彼女は恥ずかしさのあまり顔を上げられないままに小さく頷き返した。

 レルムはそんな彼女を愛しく思いながら、もう自分では抑え切れそうにもない想いを口にする。

「……あなたが私を想ってくれているように、私も、あなたを心からお慕いしています」

「……っ!」

 レルムの言葉に、リリアナは弾かれたように顔を上げと、いつになく至近距離に迫ったレルムの顔がある。

 いつもの涼しげな表情とは違い、今目の前にあるレルムの瞳には慈しみ深い愛情と熱が秘められていた。

「レ、レルムさ……」

 思わず何かを口走ろうとするとレルムはそっとリリアナの唇に人差し指を押し当て、それを黙らせる。

 胸の内を全て明かすのは今この時だけ。そう決めていただけに、静かにそれを聞いて欲しかった。

「いつからだったか、あなたを見るたびに私の心はざわめきました……。そして気が付けば、知らず知らずにあなたを目で追う事も少なくありませんでした」

 静かに語るその言葉のどれもが、リリアナの胸に残るようにゆっくりと語る。

 見上げた視線を逸らす事ができなくなっていた彼女を愛しそうに目を細めながら見下ろしていると、堪らなく胸が震える。

「……リリアナ様」

 静かに名を呼ぶと、リリアナの瞳に涙が滲んだ。それは、悲しい涙でないことは見ていて分かる。

「たとえこの先、思い描いている未来が実現できなかったとしても……あなたを想う気持ちに偽りがない事をここに誓います」

 ポロポロと涙を流しながら目を閉じたリリアナは、震える手を持ち上げレルムの服の裾をぎゅっと握り締める。

 レルムはそんなリリアナの額に、そっと唇を寄せた。

「出来る限り、あなたのお傍に……あなたと共に、私はいたいのです」

「……レルムさん……」

 リリアナもまた彼の服の裾を強く握り締めながら閉じていた瞳を開き、これまで心の中に押し込めてきた感情が一気に溢れ出た。

「いて、下さい……。ずっと、ずっと傍にいて下さい……」

 すがるようにそう呟くリリアナに、レルムはふわりとした笑みを浮かべて頷き返した。

「はい……」

 短く答えると、レルムは柔らかくリリアナの体を抱きしめた。

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