Long Day Long Night 4

 

   *

 

「――あのふたり、大丈夫かね?」 かたわらを歩いていたアルカードが、気乗りのしない口調でそんな言葉を漏らす。

「さぁ……」

 まるで三週間飲まず食わずのまま行き倒れた様にやつれた姉と友人の姿を思い出して、リディアは眉根を寄せた。

 正直に言うと、老人よりもふたりのほうが重症っぽい感じではある。ちなみに老人のほうは船の医務室の先生にあきれられてベッドは貸してもらえたものの、先生曰くたいしたことはないそうだ――きっと船医同士のネットワークでは、『こういう変な客もいる』実例として回覧されるに違い無い。

「あのな、リディア――人間が水無しで生きてられるのは、どんなに長くても三日間が限度だぞ。発汗量や周囲の湿度によっては、一日持たないこともある」 軍隊の言葉にこんなのがある、『空気は三秒、水三日、食糧無しなら三週間』――まるでこちらの思考を読み取ったかの様にそんなコメントを口にするアルカードに視線を向け、

「アルカード、他人の思考にコメントしないでください」 そう返事をしてから、リディアは嘆息した。

「おじいちゃんは大丈夫かな」

「大丈夫だと思うよ、あれで結構タフだから」

 凛の言葉にそう返事をして、アルカードが彼女の頭を軽く撫でた。

「そうなの?」

「うん、店とおうちが火事で焼けたときも、ちゃんと立て直してたからね」

「おうちが焼けた?」 リディアがそう口をはさむと、

「ああ、言ったこと無かったっけ? 蘭ちゃんが生まれて半年くらいのころにな――あの家を建てる前に」

「へえ」

 その話に興味が無いわけではないが、それ以上聞くのはやめておく――凛や蘭のいるところで話すには、内容が重そうだ。

「どうしよう、あとどれくらいで島に着くのかな?」 という蘭の言葉に、アルカードがそちらを見遣ってから腕時計に視線を落とす。

「たぶんあと二時間くらいかな。順調にいけばだけど――逆風だからもう少しかかるかもね」

「ねえ、おばあちゃん、お腹空いた」 凛の言葉に、イレアナが彼女に視線を向ける。

「そう? じゃあ、レストランに行こうかしらね」 貴方たちもどう? とイレアナがアルカードとリディアに視線を向ける。

 アルカードに視線を向けると、彼もリディアのほうに視線を向けて、

「どうする?」

「そうですね。行きましょうか」 リディアがそう返事をすると、アルカードはイレアナに視線を戻し、

「ご一緒します」

 

   *

 

 火は二時間ほどで消し止められ――というかほぼ燃え尽きてしまい、野次馬は三々五々散っていった。

 あとにはまだ撤収しないらしい警察官たちと消防隊員、町内会の消防団のメンバーだけが残っている。手島紗希の姿が無いのは、マリツィカが心配だったのか、一緒に救急車に乗っていってしまったからだ――まあろくに知らない相手と残されるのも気乗りしないだろうし、そのほうがいいのかもしれない。自力で帰れるのならそれでもいいし、どのみちあとで病院に行かなくてはならない。

 そんなことを考えながら、アルカードはラテン語の通話を打ち切って携帯電話を折りたたんだ。耳慣れない言語で長電話をするアルカードを不思議そうに見ながら、交通規制に当たっていた警察官がこちらに声をかけてくる。

「すみません、そろそろ車を片づけてくださいませんか?」

 消防員が完全に鎮火したと判断したからだろう、交通規制を解除するつもりでいるのかほかの警察官が虎縞のテープを片づけにかかっている。道路の真ん中に止められたジープは邪魔になるからだろう、左フェンダーの特徴的なファイヤーパターンのシートを物珍しげに見ている若い警察官に、アルカードはうなずいた。

「ああ、わかった。すまない」

 運転席側に廻り込んでドアを開けようと手を伸ばしたところで、

「おーい、兄さーん」 聞き慣れた呼び名にそちらに視線を向けると、硲西の交差点のほうから本条兵衛が走ってくるところだった。

「本条さん」

 老人はアルカードのそばまで走ってくると、年甲斐も無い有酸素運動に膝に両手を突いて肩で息をしながら、

「さっき親戚の家から帰って来たときに近所の爺さんに聞いたんだ、チャウシェスクの爺さんちが燃えてるって」

 爺さん夫婦や嬢ちゃんたちは? という老人の質問に、アルカードは消防隊員のほうに視線を向けた。

「マリツィカは無傷です――火災の現場に居合わせておりませんでしたので。奥方と娘御と蘭ちゃんは無事、当主も一応命はある様です」

「様です?」 確信の無いその返答に、老人が眉をひそめる。

「当主は搬送された様ですが、じかに見ておりませんので」 アルカードの返事に、老人はうなずいた。

「どこの病院だろう?」

「わかりません。当主が搬送されたとき、俺とマリツィカはここにおりませんでしたから」 そう返事をして、アルカードは消防隊員のひとりに声をかけた。

「すまない。ここの家の当主や家族がどこに運ばれたのか教えてくれ」

 手近にいた若い消防隊員がその質問に、

「ああ、ここから北に行った幹線道路を左折した先の――」 その返事に、老人が大きくうなずく。

「わしの家の病院だ。乗せてってもらってもいいかね?」 老人がそう尋ねてきたので、アルカードはうなずいた。

「どうぞ。そろそろ私も病院に向かおうかと思っていたところでしたから――あ、そちらではなく反対側です」 助手席のつもりで運転席のドアを開けた老人にそう声をかけて、アルカードは運転席に体を滑り込ませた。

 イグニッションスイッチを回すと、強力なバッテリーに駆動されたスターターの回転音とともにエンジンが息を吹き返す――夏場でオイルの温度がさほど下がっていなかったために、エンジンの始動は非常に滑らかだった。

「なにがあったんだ?」

「わかりません。ですが、あの火の勢いですと――」 そこまで言いかけて、アルカードは言葉を切った。推論は推論でしかない。根拠の無いことを言っても仕方無い。

 かぶりを振って駐車ブレーキを戻し、シフトレバーをリバースに入れてクラッチをつなぐ。滑る様に動き出した車体を何度か切り返して完全に向きを変え、アルカードはそのまま元来た道を戻る様にジープを北上させた。

 硲西の交差点を越えてそのまま幹線道路まで走り、信号が青だったので大きな交差点を左折する。そのまましばらく走って先ほどマリツィカと先を拾った地点を越えると、すぐに『北川総合病院』という看板を掲げた大きな病院が見えてきた。

 先ほども転回する前に通過したところだ――左折した先にある病院といえば対向車線にある狩野川産婦人科医院と北川総合病院、それにずっと向こうに見えている小川動物病院くらいで、あとは走ってみた限り、五キロほど先に小さな個人病院がある。救急搬送に使われる様な病院は北川総合病院しか無いし――先ほどマリツィカと紗希を拾ってチャウシェスク邸に帰るために転回したとき、ちょうどそれまで走っていた車線を通ってやってきた救急車アンバランスが入っていくのを見かけた。今思えば、あの救急車はアレクサンドルを乗せていたのだろう。

「そこの病院でよろしいですか?」

「ああ、この近隣の救急病院といったら、右折した先の市民病院とここだけだ」 老人がそう返事をして、アルカードはウィンカースイッチを操作してから車体を路側帯に寄せた。バックミラーを確認してから、歩道に車を乗り入れる――駐車券発券機が左右両方に設置された有料駐車場に入り、駐車券を取ってから、アルカードは地下駐車場に車を進めた。

 エレベーターのすぐ横が空いていたので、そこに車を止める――助手席側に廻り込んで本条老がジープから降りるのに手を貸したとき、ドアの枠と助手席のバックレストの隙間から後部座席に置きっぱなしになった紙袋が見えた。

 中身は見えないが、おそらく紗希の持っていた大きな手荷物だろう。持っていこうかとも思ったが、邪魔になるかもしれない。

 あとで必要な様なら取りに来てもらうことにして、そのまま置いておく――本条がさっさとエレベーターのボタンを押していたので、アルカードはジープのドアロックを施錠してそちらに歩いていった。

 ちょうどエレベーターに近づいたタイミングで、ベルの音とともにドアが開く。老人と連れ立ってエレベーターに乗り込んで一階に上がると、日曜日だからかさほど待合ロビーは混んでいなかった――救急診療の患者が何人かいるだけだ。

「――父さん」 と呼びかけられて、本条老が振り返る――ちょうど少し離れたところから、口髭を蓄えた四十代半ばの男性が近づいてくるところだった。

「病院で父さんはやめいといつも言っとるだろう――院長が休日になにしてる」

「重傷患者の緊急手術で呼び出されたんだ――もう終わったけどな。そちらは?」 男性がこちらに視線を向けて、そんな問いを発する。

「失礼、俺は――」

「わしの友達だよ。ドラゴス兄さんだ」 老人がそう紹介したので、アルカードは一礼した。

「アルカード・ドラゴスと申します。お父上にはいつもお世話になっております――よろしくお願いいたします」

「あ、これはどうも――そこの兵衛の息子で、当院の院長を務めております本条冬馬です。父がお世話になっております」

 自己紹介を済ませたところで、老人が口を開く。

「冬馬、チャウシェスク家の人らが運ばれてこなんだか」

「ああ、あの飯の美味い洋食店のお爺さん? 俺は見かけてないけど――」 冬馬はそう返事をしてから近くを歩いていた看護婦を捕まえて、

「すまない、さっき救急搬送が来てたかね?」

「はい、外国人の男性とそのご家族が――」

「それだ」

「ですな」 老人の言葉にうなずいて、アルカードは看護婦に声をかけた。

「その一家はどこに?」 というアルカードの言葉に、二十代半ばの綺麗な看護婦はちょっと考えて、

「そこの通路の突き当たりを、右に――男性の方は火傷が酷くて、今緊急手術中です」

「ありがとう」

「私も行こう」 冬馬がそう言って、アルカードと老人を先導して歩き出す。

 清潔感のある廊下を冬馬に続いて歩き、角を曲がったところで、アルカードは足を止めた。

 マリツィカは紗希と並んで、救急診療というプレートを掲示された窓口の前でベンチに腰を下ろしていた。診療か処置を受けているのだろう、イレアナとデルチャ、蘭の姿は見当たらない。

「あ、ドラゴスさん」 先にこちらに気づいた紗希が、そんな声をかけてくる――アルカードがうなずいて近づくと、祈る様に手を組んでいたマリツィカがこちらに顔を向けた。

「アルカード!」 腕の中に飛び込んできたマリツィカの体を抱き止めて、アルカードは嗚咽を漏らしている少女の髪を軽く撫でてやった。

 背中を軽く叩いてやってから、

「ほかの方々の具合はどうだ」

「お母さんと蘭ちゃん、デルチャさんは軽い脱水症状と火傷で治療を受けてます。お父さんは手術を」 という紗希の言葉にうなずいて、アルカードはマリツィカの肩甲骨のあたりを愛撫してから肩に手をかけて体を離した。マリツィカは頬を濡らす涙をぬぐう余裕も無いまま顔を上げて、

「アルカード、家は……?」

「火は消し止められたが家は全焼したよ、店も――」 老夫婦は家の敷地に隣接する土地で、ルーマニアの郷土料理店を営んでいた。店に足を踏み入れたことは無かったが、それくらいは知っている――店は老夫婦の自宅と隣接しており、家と同様に焼け落ちていた。

 店は定休日で休業しており、店員も含めて被害を受けた人間が誰もいないことだけが救いではある。

 アルカードのその返答に、マリツィカが再び嗚咽を漏らす。

「どうして……」

 心当たりはある――あるが、それをマリツィカに言ってもいいものかどうか。

「あ、マリツィカちゃん」 背後から声がかかって、アルカードは背後を振り返った。

「おじさん」 警察の制服を着た男性が、視線の先に立っている。

 熊を想像させるずんぐりした体型で、年齢は四十になるかならずかといったところか。両拳には胼胝が出来ており、立ち居振る舞いはなんらかの武術に通暁していることを窺わせた。制服には徽章のたぐいがいくつもついていて、警察の帽子を小脇にかかえている。

「君たちの家が燃えてると部下から連絡があってね、ここに搬送されたと聞いたから、とにかく来てみたんだが……そちらは?」 そこでアルカードに視線を向け――男がこちらの視線を捉えて一瞬目を見開き、次いですっと目を細める。

「君は――否、なんでもない。私は神城忠信、この街の警察署長を務めている。君は?」

 気づいてるか――胸中でつぶやいて、アルカードは軽く両肩を押し出す様にしてマリツィカの体を離し、彼に向き直った。

「アルカード・ドラゴス――です。マリツィカの親戚でして――彼女の両親の世話になっております」 そう告げて一礼すると、神城はうなずいた。

「よろしく」

「こちらこそ。ところで、神城さんという姓は――」

「お義兄さんのお父さんだよ」 マリツィカの紹介に、アルカードはうなずいた。神城恭輔と陽輔の父親で、デルチャの義父、蘭の祖父。

 アルカードが口を開きかけたとき、

「チャウシェスクさんのご親族の方はおいでですか?」 角から顔を出した比較的年かさの看護婦に声をかけられて、マリツィカがそちらを振り返る。

「あ、はい」 マリツィカが返事をして、彼女に向き直った。

「お母様とお姉さん、姪御さんの処置が終わりました。ご説明することがありますので、こちらへおいでいただけますか?」

 その言葉に、マリツィカが不安げにこちらを見上げる――アルカードは彼女の肩を軽く叩いて、

「行ってこい――ここで待ってる」

「うん」 マリツィカは小さくうなずいて、看護師について角を曲がっていった。

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