Long Day Long Night 1

 盛りは過ぎたもののいまだ燦々と照りつける太陽が、頭上からちりちりと肌を焼いている。

 風はかなり強い――真正面から吹いてくる風に逆らう様にして進んでおり、そのため相対的に風は実風速以上に強くなる。フェリーは甲板上に四角い構造物が多いため逆風では速度を維持するのが難しいらしく、あまり船速あしは出ていない。

 気温が高く空気も生暖かいが、風が強いのでそれほど暑苦しさは感じない――青い空に白い雲、波間に反射して時々煌めく陽光。潮の香りのする、柔らかく冷たい風。時折水面を跳ねる魚、フェリーの舳先に引き裂かれる波。スクリューで撹拌された海水が泡立って、海面に白い航跡を刻み込んでいる。

 遠くの海面でたゆたう波が時折陽光を照り返して、刺す様な鋭い反射光を放っている――あまり度が過ぎれば目を傷めるが、問題になるほどではない。

 実に申し分の無い光景である。水着姿の女の子の姿は無いが、まあそれは仕方が無い。甲板に大きなプールがあって、そこで甲羅干しが出来る様な豪華客船ではない。シーボーン・レジェンド号、映画『スピード2』でサンドラ・ブロックとその彼氏役が乗っていた様なやつだが――そういった船には何度か乗ったことがあるが、たいがいはおばちゃんしかいない。美女の甲羅干しは映画の中だけだ。

 現地に着いてからに期待しよう――水着の似合いそうな女性の連れなら、幸いなことに何人かいる。せめてクレー射撃でもあれば、時間潰しが出来るのだが――あるわけないけど。

 それまで船首側のハンドレールに手をかけて展望デッキのへりから眼下に広がる海を眺めていたアルカードは、そんなことを考えながらその場で反転して背中からハンドレールにもたれかかった。

「――あ、アルカード」 横合いから声がかかって、アルカードはそちらに視線を向けた。船室のほうから姿を見せたリディアが、彼の姿を見つけてこちらに歩いてくる。

 フィオレンティーナやパオラもそうだが、ローマから衣類をほとんど持ってきていなかった彼女は、日本で調達した服を着ている。リディアは赤いTシャツにグレーのパーカー、デニムのミニスカートといったいでたちだった。

「どうした? ほかのふたりや子供たちは一緒じゃないのか?」 という質問に、リディアがかぶりを振る。

「フィオと姉はふたりとも、生ける屍になってますね」 小さく息を吐いて、彼女はそんな返答を返してきた。

「船酔いか」

「はい」 溜め息に載せる様なアルカードの返事に、リディアは似た様な口調でそう首肯してきた――フェリーに乗り込んだあと、アルカードはしばらくの間車に残って別行動をとっていたので彼女たちのその後の動向は知らなかったのだが、どうやらフィオレンティーナとパオラのふたりが船酔いでダウンしているらしい。

「凛ちゃんと蘭ちゃんは、お爺さんたちと一緒にいます――アンさんとジョーディさんはゲームコーナーにいるのを、さっき見かけました」

「そうか」 ふたりで音ゲーやってましたよ、というリディアの言葉にうなずいて、アルカードは再び海へと視線を戻した。となると、あとはエレオノーラとフリドリッヒだが――まあ、このふたりに関してはマッサージルームでまったりしているのを見かけたのでそれはそれでいい。

「君は平気なのか?」

「一応、島育ちですから」 リディアがそれ以上なにも言ってこなかったので間を持たせるために口にした質問に、彼女はそう返事をしてきた。

「ああ、前にそう言ってたな」 そう言えば、なにかの会話のときに聞いた様な気がする。でもそれなら、パオラも平気そうなもんだがなあ――胸中でだけそんなことをつぶやいて、しかし口には出さずに、アルカードは再びそれまで体重を預けていた手摺りに腰かけた。

「そういうアルカードは、船酔いとかしないんですか?」 かたわらで手すりに体重を預け、リディアがそんな質問を発してくる。

 その質問に、アルカードはかたわらの彼女へと視線を向けた。潮の香りのする風に目を細めながら、リディアがこちらを見上げている。もう脚の捻挫も頭部の裂傷も完治しており、痛々しい包帯やテーピングも不要になっていた。

「俺か? 五世紀ほど前にポルトガルで生まれてはじめて小舟じゃない外洋帆船に乗ったんだけどさ、しばらく船酔いで動けなくなってた。すぐに慣れたけど」 アルカードはそう返事をしてから、再び前方に視線を戻した。

「ソバちゃんたちは?」

「出歩かせるのは禁止されてるから、車の中に置いてきた」 リディアの質問にそう答えて、船内の駐車スペースに視線を向ける。

 預け先として託児ならぬ託犬を頼んでいた相手――先日の鳥勢の斜め向かいに住んでいる神城忠信の古馴染の家だが、奥方が転んで足を骨折したらしくそれどころではなくなってしまったのだ。

 急なことでほかにあてが見つからなかったのと、海に一緒に連れて行こうという凛と蘭の主張によって、アルカードは三匹の犬たちを一緒に連れていくことに決めた――もっとも宿泊予定の温泉旅館に犬を一緒に連れ込むわけにはいかないので、車の中で眠ってもらうことになるだろう。

 場合によってはアルカードも付き添って車中泊することになるだろうが、それはそれでかまわない――雨風を凌ぐ屋根も無い場所で泥水にまみれながら、何日もろくに食事を摂らずに潜伏していたことなど、何度もある。それに比べれば、たかが車中泊などなにほどのこともない――なにしろ眠るのが部屋でないだけで、雨曝しの場所で泥まみれになりながら眠るわけでもなく、十分な食糧は確保出来るのだ。なんの問題も無い。

 というのが答えのつもりだったのだが、リディアの求める答えは違ったらしい。彼女は軽くかぶりを振って、

「いえ、そうじゃなくて――あの仔たち、船とか大丈夫なんでしょうか」

「意外に元気だったよ」 要するに彼女の懸案事項は、犬の船酔いであるらしい――ので、リディアの質問には、そう答えておく。

 たいていのフェリーは船会社の利用規約上、動物の連れ込みは認められても船内で連れ回すことは認められていない――このフェリーも例外ではなかった。船室に入れておくかケージに入れておくかもしくは車の中に入れておくか、いずれにせよどこかに閉じ込めておかねばならない。

 動物嫌いの人もいるしアレルギーの人もいるし、それはアルカードとしても特に文句は無い――そもそもそれ以前に船に乗せたことなど無かったので、アルカードの懸案事項は犬たちの船に対する反応だった。

 気を紛らわせるためにしばらく車にとどまって遊び相手をしたりしていたのだが、犬たちの順応性は意外に高かったらしく、最初は絶えず揺れる船体に驚いたりおびえたりしていたもののすぐに元気になり、同じフェリーに乗船していた家族連れの子供の遊び相手を務めたりもした。

 そのために子供の気が紛れて船酔いがましになったらしく、親御さんからお礼を言われたりもした。

 そんなことを説明すると、リディアはそうなんですか、と屈託無く笑ってから海に視線を向けた。

「綺麗ですね」

「そうだな」 彼女の視線を追ってそう返事をしてから、アルカードは横目にかたわらの少女に視線を向けた。

「今日はいつものおさげじゃないんだな?」 リディアはその言葉にちらっとこっちを見上げてから、髪型の話だと気づいたのだろう、ハンドレールに覆いかぶさる様にしてかがみこんでいた上体を起こした。

 今日の彼女はいつもの大きな三つ編みをほどいて、腰まで届く長い黒髪を下ろしている。普段の三つ編みで編み癖のついた黒髪は、ストレートの姉とはまた印象が違う――彼女はほどいた黒髪を潮風になぶらせながら、

「たまには変えてみようと思って――似合いませんか?」

「否? 似合ってると思うよ」 そう返事をすると、その返答が意外だったのかリディアはえっと声をあげてこちらを振り返った。

「いつもの三つ編みも素敵だが、たまに髪型を変えるとなかなか新鮮でいい」 そう続けてから、アルカードはリディアに視線を向けた。

「で、なんだ? ちゃんと普通に褒めたのに、そのものすごく意外そうな顔は」

 鳩が豆鉄砲をフルオートで喰らったみたいな顔でこちらを見上げていたリディアが、その言葉に気を取り直して、

「いえ――アルカードの口からそんな言葉が出るなんて思わなくて」

「俺はどんな目で見られてるんだ?」 眉根を寄せて溜め息をつくと、

「その、容姿で他人を評価しない人なのかなと――それに、そんなお世辞を言ってくれるタイプでもないと思ってました」

「別に容姿で態度は変えないよ――美人だからちやほやしたりしないし、そうでないから野良犬みたいに追い払ったりもしない。ただ綺麗な女性が綺麗なのくらいはわかるし、別に俺だって美しい女性は嫌いじゃない。まあ、眺めてるぶんには楽しいしな」 適当に肩をすくめてそう答え、アルカードはリディアの背中を軽く叩いてから手摺から体を離した。

「綺麗な女の子と並んで、他愛も無い雑談をしてるのもな――さて、どうしたものかな。これはこれで悪い気はしないが、船酔いで死にかけてるふたりをほっぽっておくわけにもいかないし」

 そう続けてから、アルカードはリディアを促して歩き出した。

「どこに?」

「売店に酔い止めの薬があったから、それを買っていこう――症状が出てからでも、ある程度の効果はあるだろうから」

 

   †

 

「売店に酔い止めの薬があったから、それを買っていこう――症状が出てからでも、ある程度の効果はあるだろうから」 そんなことを言って、アルカードが歩き出す。

「あ、それは大丈夫です――ふたりとも医務室にいますから」

「ああ、そうなのか?」 その背中に向かってリディアが声をかけると、アルカードはそう返事をしてからちょっと考えて、肩越しにリディアに視線を向けたまま右拳を顔の高さに翳し、

「ま、一応様子を見に行くくらいはしておこうか――もし症状が酷い様だったら、」

「だから、それやめてくださいってば」 ぴっと右手の人差し指を立ててみせるアルカードに盛大な溜め息とともにそう答え、リディアはちょっと足を速めて彼の隣に並んだ。

 リディアに合わせて少し歩調を落とした吸血鬼の横を並んで歩きながら、ちらりと彼の横顔を見上げる――先ほどの言葉を思い出して、彼女は小さく嘆息した。この吸血鬼としては、特になにか意図して口にしたことではないのだろう――どの言葉も。

「どうした? なんかむっつりしてるぞ」

「気のせいです」 ちょっとつんけんした口調でそう返事を返し、リディアは足を速めてアルカードを追い抜いた。

 頭の上で疑問符が蝶の様に舞っているのか、首をかしげつつもアルカードが歩調を変えないままついてくる。その様子が船内と甲板を仕切る自動ドアのガラス戸に映っているのを確認して、リディアは溜め息をついた。まだ一ヶ月にもならないつきあいではあるが――この人鈍すぎる。

 わたしも悪い気はしてないことくらいは、気づいてほしいけど。

 まあそれはそれとして、展望デッキから船内に足を踏み入れると強風が遮られ、スピーカーから流れるBGMが耳に届いた。

 展望デッキに面した船内のロビーで、乗客たちが思い思いにくつろいでいる――ロビーの構造物の船首側半分の壁はガラス張りで、高く昇り始めた太陽の光が差し込んで明るく照らし出されていた。

 壁際にはサントリーとアサヒ、コカ・コーラの自販機が置かれている――子供がひとり、コーラの自販機の前で母親に飲み物をねだっていた。

 正面にあるエスカレーターに歩いていくと、アルカードが彼女に続いてエスカレーターに乗るのが気配でわかった。

 エスカレーターを降りると、右手にキッズルーム、とゲームコーナー、左手には喫煙サロンとマッサージルームがある――喫煙サロンに関しては、入ったことが無いので中はよくわからないが。

「……ん?」

 あからさまに胡乱そうな声をあげて、エスカレーターを降りたアルカードがその場で足を止める――降り口で止まるのは迷惑ですよ。

「どうかしました?」 背後を振り返ると、アルカードの視線はキッズルームに隣接するゲームコーナーの出入り口へと向けられていた。その視線を追うと、彼がなにを見つけて今の声を出したのかがわかった――ゲームコーナーの入り口のところで、アレクサンドル・チャウシェスクが床に手を突いてぐったりとしていた。

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