Balance of Power 34

 

   *

 

 葉隠はがくし北の交差点の手前で信号が赤に変わり、アルカードがジープを止めた。

 交差点の向こう側の角にファミリーマートがあって、その建物の向こうに小高い山が見えている――マリツィカも通ったことのある小学校の裏山で、位置的には硲西の交差点を左折していった先、デルチャの近家を通り過ぎてもうしばらく行った場所になるのだが、山頂に近いところにさびれた神社がある。

 どことなくおどろおどろしい雰囲気の漂う神社で、足を踏み入れるとわけもなく不安な気分になるので地元の人たちはあまり近寄らない。無人の社なこともあって、正月に初詣に訪れる人もほとんどいないらしかった。

「どうしたの?」

 青信号に変わったのに気づいていないのか、アルカードがその裏山のほうを厳しい表情で睨み据えている――彼は声を掛けられてはじめてマリツィカの存在を思い出したとでもいう様に彼女を振り返ると、

「否……なんでもない。行こうか」 ちょうどそのとき後ろからクラクションを鳴らされたので、アルカードは背後からもウィンドウ越しに見える様に片手を挙げながらアクセルを踏み込んだ。

 先ほどから、自分もアルカードも口数が少ない。自分がおびえているのは、自覚せざるを得なかった――今感じている恐怖は、この男の異常性をはっきり理解したからだった。

 先日アルカードが担ぎ込まれたときは、あまりにも日常離れした武器や装備を目にして感覚が麻痺していた。

 だが今は違う。あれは玩具ではない。この男はあのとき目にしたすべての装備を完璧に使いこなし、そうして敵対した者の命を摘み取るために生きているのだ。

 先ほど羆を一分に満たない時間で斃した光景を目にして、はっきりとわかった。

 どこか非現実じみた状況と危険の匂いが、急に実感として迫ってきたのだ。

 殺しに来た――あのとき、彼は明確にそう言った。彼は殺戮を生業として生きる男だ。

 どこか御伽噺じみた非現実から、その非現実の中にしか存在しない異物が日常の中に存在するという事実を問答無用で鼻先に突きつけられて――はじめてその実感が彼女を恐怖させていた。

「らしくもなくしゃべらないな」 沈黙に耐えられないタイプというわけでもないのだろうが――アルカードが前を向いたまま口を開く。

「俺が怖いか」

 答えられず黙っていると、アルカードは特になにを続けるでもなく沈黙した。

 あまりにも気まずい沈黙だったので、なんとか雰囲気を変えようとしてマリツィカは口を開いた。

「そ――そう言えばこの車、普段はどこに止めてるの?」 ふと疑問を思いついて、そう尋ねる――自宅の駐車場には両親の軽自動車がすでに止めてあるので、アルカードのジープを止めておくスペースは無い。

「本条老が駐車場を貸してくださってな」 そう返事をして、アルカードが再び前に意識を戻す。

 信号をひとつ越えてしばらく走ると、硲南の交差点に差し掛かる――ここからさらに進むと硲西の交差点があって、マリツィカの自宅は南と西の交差点のちょうど中間あたりだ。

 アルカードは一度停車してマリツィカを降ろそうとしたのだろうが、対向車が三台と後続車も数台いたのであきらめた様だった――彼は一度点燈させたハザードランプを消して、そのまま信号の無い交差点を減速して通過した。

 しばらく走るとすぐに、右側に本条兵衛の持ち物である大きな日本家屋が見えてくる――白漆喰で塗られた塀に囲まれた日本家屋は、東京大空襲と大震災を生き延びたという実に赴きのあるものだ。

 右手は一区画まるまるを占める本条邸の屋敷だが、左手は民家が数件と、民家に囲まれる様にして存在する小さな公園がある。

 本条邸の塀の長さのちょうど半分くらいの位置に、硲西の交差点がある。丁字型の交差点の手前にはまだ開店していないコンビニエンスストアの建物が、向かい側には月極の有料駐車場があった。駐車場の金網に掲示された看板に書かれた連絡先は本条地所、本条兵衛とその一族が所有する駐車場だ。

 この近辺は割と田舎に近く地価が安いので自宅の敷地に駐車場がある家が多く、民家の駐車場としての需要はあまり無い。

 ただし近くに大学があって、こういった月極駐車場は車やオートバイで通勤する若者たちがよく使っている――空きがひとつあった様なので、アルカードがそこを借り受けたのだろう。

 アルカードは慣れた様子で駐車場の一番奥、使いにくい位置にあるスペースにジープを止めた。

 五角形のちょっと中途半端な形の敷地の一番奥なので、駐車スペース自体が少しおかしな形をしている。

「……ず、ずいぶん奥なんだね」

「そうだな。だがそれがいい――右側が半端な形状になっているから、隣の車や塀にぶつけるのを気にしなくていいからな」

 そう返事をしながら、アルカードは駐車ブレーキを引いてエンジンを止めた。言われてみれば、アルカードの駐車スペースは塀や金網に沿って側溝があるのを除けば、広いところで一台半分くらいの幅がある。出入りはしにくいが、車庫入れ自体は楽なのだろう。

 アルカードはマリツィカに降りる様に促してから、自分も車から降りた。

 ドアロックをかけて、歩き出す――マリツィカはそれに続いて、彼を追って歩き出した。

 本条邸側へ渡る信号は赤だったので、コンビニエンスストアの側へと渡る横断歩道を渡ってそのまま歩を進める。

 本条邸とは逆の歩道をしばらく歩いたところで、アルカードが唐突に足を止めた。

「……どうしたの?」 そう問いかけるが、アルカードは返事をしない――公園の入口の前で足を止め、どこか感情の感じられない冷たい視線を公園の敷地に向けている。

 視線を追って、すぐにわかった。

 近所で有名な悪ガキが三人、砂場の前で集まっている。

 はずれー、と声をあげているのは、なにかに手にした石ころを当てようとしているのだろうか。

 彼らは砂場のほうを向いているので、砂場に視線を向けて――すぐにわかった。小さな仔猫が、首だけを出した状態で砂場に埋められている。少年たちがなにをしているのかは、すぐにわかった――少年たちのひとりが、手にした拳大の石ころを仔猫のほうに向かって投げつけたからだ。

 投げつけた石くれが頭だけを出して埋められた仔猫のすぐそばにドスンという音とともに落下し、ぱっと砂を巻き上げる。

 周りで見ている者もいたが、誰も止めようとはしていない――みな彼らにかかわり合いになりたくないのだろう、見て見ぬふりをする者、公園に入ってくるなり彼らから視線をはずして去っていく者もいる。彼らの中に、悪戯されて警察に通報した家の家族を襲ったという噂のある者もいたからだろうが――

「ひどい――なんてこと」 うめくマリツィカを無視して、アルカードが公園に足を踏み入れる。

「え? ちょっと――」

 声をかけるが、アルカードは反応を示さない――仔猫は可哀想だが、あの少年たちは本当に危険なのだ。

 それまでおそらくは仔猫に最初に石を命中させた者が得られる褒美について話していた少年たちが、砂場に足を踏み入れた金髪の青年の姿に気づいてそちらに視線を向けた。

「なんだ? あいつ」

「おい、そこのくそ外人! なにか文句でもあるのかよ?」

 アルカードは答えない。どこを風が吹くかという風情で――あるいは駄犬の遠吠えを聞き流す様にその声を無視してその場にかがみこみ、彼は両手で砂を丁寧に掻き分けて仔猫の体を掘り出した。

「行け。もう捕まるなよ」 アルカードがそう声をかけて仔猫の体を放すと、仔猫はにゃあ、とひと声鳴いて、一目散に逃げていった。

「なにすんだ、てめえ!」

「おい! ゲームを邪魔すんじゃねえよ」

「聞いてんのかてめえ!」 少年たちが、口々に詰問の言葉を口にする。

「ゲームか」 背後に視線を向けて逃げていった子猫を見送った姿勢のまま、アルカードが短く返事をする。

「あ?」

「ゲームか――ただの遊びで弱者をいたぶり回すのか」 アルカードがそう返事をして立ち上がり、

「心底からくだらんな――畜生にも劣る見下げ果てた下種の所業だ。それを止めようともしない輩も含めてな」 侮蔑の色を隠そうともせずに、アルカードはそう続けた。

 その言葉をぽかんとした表情で聞いていた少年たちが――やがて体をくの字に折って笑い始めた。

 彼らはひとしきりげらげらと笑ってから、

「は? なに訳のわかんねえこと言ってんだ、この馬鹿――頭大丈夫か? 玩具にされるのは弱いのが悪いんだよ。それとも馬鹿通り越して●●●●か? 檻の中にでも入ってろよ、頭の弱い気違い野郎」

 嘲笑と罵声を浴びせて、少年のひとりが手にした石ころを振りかぶる。少年は醜悪な笑顔で笑いながら、明らかな意図に対処しようともしないアルカードめがけて石ころを投げつけた。

 が――

 次の瞬間、投げつけられた石ころがアルカードに命中する寸前、パアンという音とともに空中で砕け散る。

 ……え?

 パラパラと散乱する石の砕片を目にして、少年たちが間の抜けた声をあげた。状況が理解出来ていないのだろう――マリツィカや、近くのブランコのところで見て見ぬふりをしていた男女と同じ様に。

 なにをしたのかも、わからない――先ほどと違うのは、それまでポケットに入れていた右手が抜き出されていることだけだ。

 それ以上視線で触れるのも汚らわしいと言いたげに、アルカードがこちらに向かって歩いてくる。

 しばらくの間ぽかんとした表情でその背中を見送っていた少年たちが――誰からともなく近くに設置された花壇に視線を向ける。

 誰の仕業か、煉瓦で造られた花壇はなにかが衝突した様に崩れ、煉瓦がはずれやすくなっている。彼らは赤煉瓦を花壇から引き抜くと、にやにや笑いながらアルカードの背中に向けて手にした煉瓦を振りかぶった。

「あ――」 マリツィカが警告の声をあげるよりも早く、少年たちがその背中をめがけて、手にした煉瓦を投げつける。

 だが、ニタニタ笑うその表情が凍りつくまでは一瞬だった――次の瞬間アルカードの背中に向けて投擲された煉瓦みっつのうちふたつが先ほどと同様空中で砕け散り、残るひとつをアルカードが振り向きもしないまま空中で掴み止めたのだ。

 無数の砕片がばらばらと地面に落下し、右足を引いて体を開いた状態のまま足を止めていたアルカードがそのまま背後を振り返る。

 アルカードが手にした煉瓦を見下ろしてから少年たちに視線を戻し――そのまま短いストライドで一歩踏み出しながら上体をひねり込み、右手を一閃させた。

 次の瞬間、爆発音じみた轟音が周囲の空気を震撼させる。それが投擲された煉瓦が音速の壁を突破する際の衝撃波ソニックブームだということに気づいたのは、一瞬あとのことだった。

 ズガンという轟音とともに、少年たちのすぐ背後で――植樹されていたならの木の枝葉がバサバサと音を立てて揺れ、羽を休めていた小鳥たちがあわただしく飛び立ってゆく。少年たちが恐る恐る背後を振り返り――幹をごっそりとえぐり取られた楢の木を目にして凍りついた。

 いったいどれほどの威力と速度で投擲すればそうなるのか、アルカードが投げつけた煉瓦の衝突による破壊である。

 投擲された煉瓦は手前に植えられた楢の木の幹を半ばまでえぐり取り、その向こうに植えられたぶなの木の幹に喰い込んで、そこで耐久力の限界に達したのか砕片ひとつ残さずに文字通り粉々に砕け散っている。

「弱いのが悪い――」 嫌悪感を隠そうともしない低く抑えた声で、アルカードが彼らに声をかける。

「そう言っていたな。弱いから、力が無いからなにをされても仕方が無い、それでおまえたちがどんな理不尽にも納得出来るのなら、今この場で――」

 マリツィカの位置からでは、アルカードの表情は窺えない――だがアルカードがどんな兇相を浮かべているのか、少年たちが真っ青になってがたがたと震え出す。ズボン股が濡れている者もいた――それ以上視線を触れさせておくのも厭だと言う様に少年たちから視線をはずして踵を返し、アルカードはマリツィカを促して歩き出した。

「帰るぞ」

「あ――うん」

 それ以上なにも言わないままかたわらを通りすぎるアルカードを追って、マリツィカは早足で歩き出した。

 歩きながら、背後の少年たちを一瞥する。

 今この場で、喰い殺してやろうか――そう聞こえたのは、気のせいだろうか。

 でも――

「どうした?」 歩調が遅いのが気になったのだろう、肩越しに振り返ってアルカードが声をかけてくる。

「ん、なんでもない」 そう返事をして、マリツィカは足を速めた。彼の能力に対する恐怖心はそのままだが、彼自身に対する恐怖心が薄らぎ始めている。自分の現金さに苦笑しながら、マリツィカはアルカードに追いつくために小走りに走り出した。

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