Balance of Power 18
2
「――リディアが負傷を?」
ライル・エルウッドの言葉に、アルカードは小さくうなずいた。
「ああ」
ライル・エルウッドは『主の御言葉』の前庭に置かれた長椅子に腰かけて、水道で遊んでいる愛娘の様子を眺めている。前庭の植え込みに水を撒くのに使うホースリールをプール噴水のところまで伸ばし、周囲に水を撒いて遊んでいた。エルウッドはその娘の様子を眺めながらこちらには視線を向けずに、
「容態は?」
ホースリールのシャワーノズルを使って水を頭上にばら撒き、そのたびに小さな虹が出来るのを見てはしゃいでいるアルマに向かって手を振ってから、アルカードはエルウッドに視線を戻した。
「まあ負傷の程度自体はたいしたことはないがな――挫かれただけだ。ただ、ちょっと足をひねったとかじゃなく、攻撃として足を挫かれたからな――普通の捻挫に比べるとダメージがひどい。ただ、時間はかかるが後遺症は残らないだろう」 そう告げてから、それまで体重を預けていた照明のポールから体を離す。
「ただし、しばらくは戦闘には参加出来ないな――三人集めての戦闘訓練もしばらく中止だ」
「そうか」 エルウッドは短く返事をして、周囲に視線をめぐらせた。
「ところでライルよ、ほかの子供たちはどうした?」
ほかの孤児たちが誰もおらず、アルマとアイリスだけが前庭で遊んでいるという状況に疑問を持ったので、アルカードはそう尋ねた。
「学校の用事でいない――昼過ぎには帰ってくるだろうが」
「そうか」 アルカードはうなずいて、腕時計に視線を落とし――それまで足元に置いてあった手提げのケースを取り上げた。定期的に届けられる、アルカードの血を仕込んだ銃弾だ――今回は別な用事もあって、じかに受け取りに出向いてきたのだが。
ちょうど教会から出てきたシスター舞が、帰り支度を始めた吸血鬼の姿に目を留めて、
「あら、もうお帰りですか? お茶でもご用意しようと思ったんですけど」
「ああ、神父さんに挨拶が出来ないのは残念だがね。約束があるからそろそろ行かないと」 アルカードがそう答えると、シスター舞はちょっと残念そうな様子で微笑した。ぱっと見はおっとりした容貌を際立たせる花の様な笑顔なのだが、ちょくちょくエルウッドを馬車馬のごとくこき使っているのを知っているので、どうにも心惹かれない。
シスター舞は小首をかしげて、
「約束、ですか?」
「リディアを病院に送って、そのままここに来たんだよ――帰りに迎えに行くって約束したから、戻ってやらないと」 病院の待合室でリディアと別れてから、もうそろそろ一時間経っている。アルカードたちが病院に着いたときには待合室でだべる老人たちが既に大勢いたから、まだ診察が始まっていないか、そろそろ始まる頃合いだろう。
「あら、ご病気でも?」
「否、
「大丈夫、後遺症が残る様な怪我じゃない――救急医には連れて行ったが、それだけだったからな。あらためてちゃんと病院で診断を受けさせてる」
昨夜救急で病院に連れてはいったが、受けた治療は応急的なもので、レントゲンなどの専門機材を使う様な本格的な診断ではない。実際に診察でレントゲン写真を撮ったりするかどうかはわからないが、単なる応急処置ではなく専門医に診てもらうに越したことはないだろう。
そう答えてから、アルカードはアルマのほうに歩いていった。アルマはホースリールのシャワーヘッドを頭上に向けて、降り注いでくる水滴に歓声をあげている――アルカードはアルマのそばにかがみこみ、
「アルマ、俺は今日はもうおうちに帰るよ」
「帰っちゃうの?」
「うん、また今度ね」 話が終わったら遊んでもらえるものと思っていたのか、さびしげな表情を見せるアルマのびしょびしょになった頭を軽く撫でてやってから、アルカードは立ち上がった。
「また会いに来てね」
「ああ」 穏やかにうなずいて、アルカードは歩き出した。
教会の関係者が使うための小さな駐車場に足を踏み入れると、エルウッドの、というより教会の所有車輌のメルセデスのGクラスとエルウッドのヴァイパー、シスター舞所有のスープラが視界に入ってきた。柳田神父は運転免許は持っていないらしく、Gクラスはエルウッドが戦闘任務や教会の子供たちを連れ出すほか、シスター舞も運転するらしい――彼女とは何度か峠につきあったことがあるが、峠を攻めているときの彼女はまるで別人の様だった。まさかオートマティックのトランスミッションと低回転大トルク型のエンジン、重く重心の高い車体であの運転技術を披露しているということはないだろうが――あの本性を知っている柳田神父はさぞや不安に違い無い。そういえばアパートまで誘いに来たシスター舞に誘われたフィオレンティーナが、同乗を表情を引き攣らせながら断っていた――峠に到着してから、さもありなんと納得したが。
ヴァイパーの隣に止めたジープのバックドアを開け、荷台にブリーフケースを放り込む。アルミジュラルミンのケースは、思いのほか大きな音を立てた。
バックドアを閉めて運転席側に廻り込んだとき、携帯電話がメールの着信を告げて着信音を奏でた――SUM41のStill Waiting。聖堂騎士団関係者のメールアドレスだ。
内容を確認すると、リディアからだった――どうやらこれからようやく診察らしい。もう少しゆっくりしてもいいのかもしれないが、こちらが着くより早く診療が終わったら、長く待たせるのも可哀想だ。
それにもう帰るって言っちゃったしな――胸中でつぶやいて、アルカードはジープの運転席のドアを開けた。
*
巨大なフレイルの様な触手の棘に削られ巻き上げられた土砂がばらばらと降り注ぎ、建設途中で廃棄されたホテルの周囲の木が容赦無い打擲によって次々と薙ぎ倒される――生木の繊維が裂けるめりめりという音とともに驚くほど広範囲の樹木が薙ぎ倒され、チップの様な木端が飛び散った。
無数に枝分かれした触手が広範囲にわたって蹂躙し、こちらの回避行動を制限したうえで極太の触手が襲い掛かってくる。
だがそのうえで、アルカードは数分間にわたってその攻撃を凌ぎきっていた――すべての攻撃がジャンノレを起点に始まる以上、躱すだけならさほど難しくはない。
縦に振り下ろされた触手の一撃を躱し、そのまま
踏み込みの轟音とともに、ジャンノレの体がまるで殴られた西瓜の様に破裂する――ジャンノレはやんちゃな子供が癇癪を起こして投げつけた人形の様に派手に吹き飛ばされ、轟音とともにホテルの外壁に激突した。叩きつけられて潰れたトマトの中身の様に大量の血が壁に飛び散り、コンクリートの外壁が叩き潰された衝撃で瓦解して、大量の瓦礫の下にジャンノレの体が埋もれてゆく。
指を丸め手の内に空間を作った掌底を当て、そこに掌打を叩き込むことで、力を単なる外的な破壊ではなく内部に浸透する衝撃波に変換する、『
本人も完全に使いこなせてはいない奥義だったが、それは肉体が未成熟であることに起因するもので――それを撃つことによるリスクが、アルカードには無い。体重も腕力も格段の差があるので、威力の桁も違う。
両腕を顔の前で交叉させる様な残心動作を解いて、アルカードはいったん後方に跳躍して距離をとった――それでジャンノレが確実に死んだかどうか、確信が持てなかったからだ。
案の定、まるで叩きつけられたトマトの様に潰れたジャンノレの姿をしばらく注視していると、瓦礫の下から一部だけ覗くジャンノレの体が細かく震えているのがわかった。
「き……ききき……」 そこらにぶちまけた大量の血はそのままに――油の切れた蝶番の軋み音の様な不快な笑い声をあげながら、ジャンノレがその場で跳ね起きる。瞬きひとつするより早く、まるで踏み潰された蛙の様な有様だった体がボリュームを取り戻し、何事も無かったかの様にジャンノレはこちらに視線を向けた。
「いやはや、凄い技だねぇ――でもボクには通用しないよ?」
小さく舌打ちを漏らして、アルカードは右手に
思ったよりも面倒かもしれんな――胸中でつぶやいて、アルカードは地面を蹴った。
†
国道としては整備されているとは言い難い片側一車線の道路なので、そこを通る車はみな一様に速度を抑えて走っている――さすがにトラック同士が衝突しかねないほどの道幅ではないが、両側を森に囲まれていて見通しが悪いからだ。
権田梱包株式会社という社名の入った軽トラックの運転席で、三十過ぎの運転手が十年くらい前のB'zの曲を大声で歌っている――たまたま対向車も後続車もいないのでそこそこスピードを出していたその軽トラックの運転手は、百メートルほど前方のコーナーのあたりで林縁の木が十数本まとめて薙ぎ倒されるのを目にしてあわてて急ブレーキをかけた。
まるで巨大な熊手で引っ掻かれたかの様に細かい砕片を撒き散らしながら、アスファルトが削り取られている。まるで地面を撫でる様にして路面を薙いでいった巨大な鞭の様なものを目にして、車から降りた運転手がぽかんと口を開けた。
薙ぎ倒された木の幹の上に、黒い人影が着地する――獅子の鬣を思わせる長い金髪をうなじのあたりで束ねたその男は一瞬運転手のほうに視線を投げたあと、すぐに視線をそらして跳躍した。
まるで巨大な蚯蚓の様にのたくる鞭に似たなにかがアスファルトを削り取り、道端の岩塊を粉砕し、樹木を薙ぎ倒しながら金髪の男に肉薄する。不規則な軌道でのたうちながら猛威を振るう巨大な触手を空中で体をひねり込んで易々と躱し、人間離れした跳躍を見せた男は体重を感じさせない動きで路面に降り立った。
金髪の男に続いて――薙ぎ倒された木の向こう側に、二メートル近い体格の人影が姿を見せる。否――あれを人影と形容していいものかどうか。
人影の両腕はまるで軟体動物の脚の様に長く伸び、巨大な棘が密生している。どうやらあれを振り回して、十数本の立ち木をまとめて薙ぎ倒したらしい。
運転手はしばらくの間魅入られた様にその光景を見つめていたが、やがて状況の異常さに気づいたのか踵を返して車に乗り込み、その場でUターンして走り去った。
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