Black and Black 6

 

   ‡

 

Aaaaaa――raaaaaaアァァァァァァ――ラァァァァァァッ!」 咆哮とともに――剣の間合いに踏み込み、一撃でローザの頭部を薙ぐ。切断された髪の切れ端が混じった血糊が飛び散り、びしゃりと音を立てて壁にへばりついた。胸の前で手首を押さえていたローザが鼻から上を削り取られて祈る様な姿勢で膝を突き、そのまま床に崩れ落ちる。

 子供のころはよく懐いていたものだが――みずからとどめを呉れることになるとは思いもしなかった。

 だが、感傷に浸るいとまなど無い。

 視線をめぐらせ、再び襲いかかってきているヤコブに視線を呉れる――

園丁の老人はすでに脳震盪から回復したのか、再び剪定鋏を向けて襲いかかってきていた。

 こちらの顔をめがけて繰り出されてきた一撃を、体を沈めて避ける――動きはまるで猫科の肉食獣の様に俊敏だったが、素人の悲しさか視線の動きと予備動作で次の行動が読めてしまう。

 そのまま、ヴィルトールは手にした長剣の鋒を老人の下腹部に突き立てた。鋒が背中まで突き抜け、手元まで腹に喰い込む。

「がぁぁぁっ――」 老人が水音の混じった悲鳴をあげるのが聞こえた――それでもまだこちらに攻撃する意思があるのを見て取って、引き抜いた刺殺用の短剣を脇腹へと突き立てる。

 ぎりりと奥歯を噛んだとき、ヤコブの口蓋から滴り落ちた生温かい血が首筋を伝い落ちた。

「あ、あ、若、様――」

 ヤコブが自分を呼ぶ声が聞こえる。

「私を、殺すのです、か――」

 その言葉に、彼は手にした刺殺用の短剣ををヤコブの脇腹から引き抜いた――逆手で握っていた短剣を両手で握り直し、肋骨の隙間から肺を貫通して心臓に届く様に角度を定めて再び突き立てる。

 それが致命傷になったのか、庭師の体が崩れ落ちた。

 動かなくなったのを確認して、そのままよろよろと後退し、壁に寄り掛かる。

 早鐘の様に脈打つ心臓を甲冑の上から手で押さえ、呼吸が整うのを待って、ヴィルトールは壁から離れた。

 ヤコブの腹に突き刺さったままの長剣を引き抜き――足音を耳にして、背後を振り返る。

 見知った顔が、そこにいた。

 炎と同じ色合いをした父親譲りの赤毛を肩のあたりで切り揃えた十代後半の少女が、静かに立っている。まるでなにかの袋の様に左手から下げているのは袋などではなく、人間の生首であると知れた。

 手にはぼろぼろに錆びついた短剣――ドラキュラ公の父親に当たる以前のワラキアの国主ヴォイヴォダヴラド二世ヴラド・ドラクルのもとで武勲を立てたという、アドリアン・ドラゴスの父の遺品のはずだ。

 保存状態がさしてよくなかったために錆びついて、刃毀れもそのままになっている――血脂の汚れと錆び、毀れでガタガタになった刃に真新しい衣服の繊維と乾いていない返り血、こそぎとられた肉片がこびりついて真っ赤に染まった短剣と、まるで袋に入った果物の様に髪の毛を掴んでぶら下げた人間の生首が、少女の飛び抜けて美しくはないが溌溂とした容貌を禍々しく彩っていた。

 剣の柄を握りしめた指が痛むのを自覚しながら、奥歯を噛む――震える唇が、にこりと笑う少女の名を紡ぎ出した。

「……ラルカ」

 ラルカと呼ばれた少女が、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。

 身構えるべきだ――頭ではわかっていたが、体が動かない。

 意識はこれから襲ってくる危険とそれに対する対処を算段していたが、同時に心がそれを否定していた。認めたくなかったのだ、こんなことがあるはずが無いと。

 せめて彼女だけは、どこかに隠れて難を逃れているものだと――

 黒髪の女性――切断された彼女の母親の首を吊るしていた髪が少女の指の隙間からずるりと抜け落ち、躊躇うこと無く歩みを進める少女の爪先に蹴飛ばされていずこかへと転がっていった。

 少女が彼の眼前で足を止める――喩え様も無い懐かしさとおぞましさを同時に感じながら、彼は目の前の少女の瞳に魅入られて動くことが出来なかった。

 ラルカが――彼と話すときいつもそうしていた様に――どこか照れくさそうな、はにかんだ様な微笑を浮かべて、上目遣いでこちらを見上げる。

 小さな唇が動いて、体の一部であるかの様に耳に馴染んだ声で彼の名前を紡ぎ出した。

「ヴィー――」

 激痛はまるで冗談の様に、一瞬遅れてやってきた。刺されたことに気づいたのは痛みではなく、喉の奥からこみ上げてきた嘔吐感のせいだった。

 そして次の瞬間帷子の隙間から差し込まれ柄元まで深々と突き立てられた短剣の刃がいびつな刃で肉をえぐり、同時にすさまじい激痛で神経を焼いた。

 

   *

 

 唇を噛むアルカードの眼前で、グリゴラシュが先程捩り折った親指を左手で掴み、一度引っ張る様にして正しい位置に直す――『剣』やそれに近い上位の吸血鬼であれば開放骨折の様な重傷も自然に治るが、事前に骨折位置を自力で矯正出来れば治癒の速度は劇的に速くなる。

 結果、へし折った右手親指はあっという間に完治していた。

 撃ち込んだ魔力が足りなかったか――舌打ちを漏らして、アルカードはさらに間合いを詰めた。

 グリゴラシュがそれに合わせて間合いを離す――もともとグリゴラシュはアルカードに比べると、遠間を好む傾向がある。アルカードほど近接距離での組み討ちに長けていないということもあるだろうが、どちらかというと派手な技が好きなのだ――遠間を作るということは渾身の一撃を撃ち込みやすいということではあるものの、逆に言えば相手の渾身の一撃も受けやすいということでもあるのだが。

 まあ、戦いやすい間合いで戦えばいいが――いくら親父に師事した期間が五年も無いからといって、ひとつ忘れてやしないか、グリゴラシュ?

 胸中でつぶやいて、アルカードは唇をゆがめた。

 ヴィルトール・ドラゴスに得手な間合いは無い――代わりに不得手な間合いも、『無い』のだということを。

 グリゴラシュが動くよりも早く、間合いを詰める――迎撃に繰り出してきた右の拳撃を、アルカードは左手で押しのける様にして払いのけた。同時に繰り出したカウンターの右の鈎突きを、グリゴラシュが頭を傾けて躱す――グリゴラシュの拳が胴甲冑の右脇をかすめ、その一撃が魔力強化と干渉して発生させた激光が瞬間的に視界の半分を塗り潰した。

 その体勢から、グリゴラシュが動く――彼は体勢を沈めてすぐ横にいるアルカードの体にもたれかかる様にして踏み込みながら、肩口からタックルを仕掛けてきた。

 同時に、アルカードが鈎突きを引き戻しながら浴びせた右肘が、グリゴラシュの後頭部を直撃した――タックルの勢いのまま肘に自分から突っ込む形になったグリゴラシュが、小さなうめきを漏らす。

 そのまま左足を軸にして、右周りの四分の一回転――胸甲冑の胸元を捕って、そのまま左足でグリゴラシュの足を刈る。バランスを崩したグリゴラシュの背中を左手で突き飛ばすと、彼は為す術も無く倒れ込んでヘリパッドに手を突いた。

 舌打ちを漏らしてこちらを振り返るグリゴラシュの顔面に、左の廻し蹴りが襲いかかる。眉間を直撃されて、グリゴラシュが横殴りに倒れ込んだ。

 必ず左の肩越しに振り返る癖――

「――変わってないな、グリゴラシュ!」 声をあげて、アルカードは倒れ込んだグリゴラシュの後頭部めがけて、サッカーボールを蹴飛ばす様な動きで蹴りを撃ち込んだ――ヘリパッドの上を転がって、グリゴラシュがその蹴りを躱す。グリゴラシュはそのままヘリパッドのへりから転がり落ち、屋上へと落ちていった――別に受け身をしくじったわけではなく、状況を変えるためにみずから落ちていったのだろうが。

 舌打ちして、アルカードは同じ様にヘリポートの構造物からビルの屋上へと飛び降りた。出来ればここで仕留めておくか、徹底的にバラバラにして向こう四半世紀はまともに動けない様にしておきたい。

 ヘリパッドは分厚い鋼板で作られた円盤を防錆塗装を施されたH字型鉄骨を交叉させて作られた支柱で支持する構造になっており、見通しはさほど良くない。コンクリートに打ち込まれたアンカーボルトに鉄骨の基部を固定する巨大なナットに、油性マジックで何重にも合いマークが書き込まれている。鉄骨のベースになっている部分以外はおそらく防水用のものだろう、床に灰色のプライマで塗装がされている。少し離れたところに燈火管制の電源室か、小さな小屋が見えた。

 どこへ行った? グリゴラシュは先程長剣をヘリポートに放棄したままだから、霊体武装や魔具をほかに持っていなければ、あとの装備は短剣だけのはずだが――問題は魔術か。

 およそ術式破壊技法クラッキングにおいては師であるグリーンウッドも上回る技能を誇るアルカードではあるが、本人が精霊魔術をまったく扱えないがゆえに欠点もあった――二次被害には対処出来ないということだ。

 例えば、アルカードは魔術で発生させた火を術式を分解して消滅させることは出来るが、その火によって引火し燃焼する松明の火まで消すことは出来ない。

 たとえばの話、もしアルカードが術式の発動を術式破壊クラッキングや攻撃などの手段で妨害出来ない位置からグリゴラシュがヘリポートを構成する鋼鉄を丸ごと熔融させたら、アルカードはそれを冷却して固めるなどの対処が出来ないのだ。防御障壁を構築出来るから別に自分が巻き添えを喰らうことは無いが、状況によっては無関係の一般人を巻き込む。

 ここ七十年程の間にまともにエレメンタル・フェノメノンを発生させることも出来なくなったため、冷気を発生させて融けた金属を瞬時に冷却させることも出来ない。

 儀典魔術でどうにかなるか……?

 胸中でつぶやいたとき、ひぅっという風斬り音とともに数本の投擲用の短剣が飛来した――飛んできた短剣を片手で掴み止めたその次の瞬間、鉄骨の間を縫う様にしてグリゴラシュが飛び出してくる。

 左手で掴み止めた投擲用の短剣をそのまま投げ返し――グリゴラシュが手にした白刃を閃かせて投げ返された短剣を叩き落としながら突っ込んできた。

 どうやら投げ返した短剣の一部は、叩き落とさずに掴み止めていたらしい――コートの下から三爪刀トライエッジを引き抜くよりも早く、グリゴラシュが再度短剣を投げつけてくる。足元を狙って投擲された短剣を後退して躱したが、それはつまり上体が残るということでもある。

 三爪刀トライエッジの抜刀動作よりも早く懐に入り込んできたグリゴラシュのショルダー・タックルをまともに喰らってヘリポートの構造物を円状に囲むコンクリート隔壁に背中から叩きつけられ、アルカードは喘鳴を漏らしながらも小さく舌打ちした。

 グリゴラシュが壁を背にしたアルカードの顔めがけて、右拳を撃ち込んでくる――それを躱して、アルカードはその場で反撃を仕掛けた。

 踏み込んだ前足の内股にストロークの短い蹴りを一発、顔をめがけて右拳の拳打。治ったばかりの左腕でブロックしたグリゴラシュの下顎を、続いて下から突き上げる様にして繰り出した左拳が襲う。

 その打撃を頭をのけぞらせる様にして躱したグリゴラシュに、さらに追撃――ほかの奴ならまだしも、俺を相手にこんな戦い方を仕掛けるか?

 右拳の拳撃を撃ち込むより早く、グリゴラシュがアルカードの左手を捕った――そのまま肩越しに折りたたむ様にして、アームロックを仕掛けてくる。

 二-六-九、両手で相手の腕を肩の上から背中側に折りたたむ様にして肩の関節を極める、いわゆるV1アームロックだ。

 逡巡したのは認めざるを得ない――そしてその逡巡が致命的な隙を作ったのもまた、認めざるを得ない。

 やろうと思えば、左腕全体をいったん水銀に戻して関節技を振りほどくことも出来た――そもそも単なる液体金属が腕に擬態しているだけの左腕には、関節構造そのものが存在しない。アルカードの左肘から先に関節技を仕掛けるなど、無意味以外の何物でもないのだ。どうせ極められたところで挫かれることは無い。

 問題は憤怒の火星Mars of Wrathの稼働の反動による痛みでそのあとの反応が遅れ、のちの戦闘に支障が出ることで、彼はあとあとに続くその問題を厭がって憤怒の火星Mars of Wrathを起動させるのを厭ったのだ。だがそれが原因で、アルカードはグリゴラシュの思惑に囚われることになった。

 引きずり回される様にして隔壁に背中から叩きつけられ、そのまま顔面に肘をまともに受ける――左目の眼窩にまともに受けたのが問題だった。眼窩の細かい骨の折れる音が頭の中に響く。同時に後頭部からコンクリート隔壁に叩きつけられ、視界に火花が散った。

 同時にグリゴラシュが顔を顰め、噛みしめた歯の奥から苦鳴を漏らす――刃渡り三十センチ程度の三爪刀トライエッジのぎざぎざの刃が、装甲の隙間から帷子を突き破って下腹部に突き立てられている。

 刃を握り込んだ拳が周囲の装甲に触れるまで深く突き込まれた三爪刀トライエッジはそのまま、アルカードは刃を手放した右手を伸ばして眉間を直撃したグリゴラシュの左肘を掴んで下に引き下げる様にして空間を作り、そのままグリゴラシュの胸甲冑の胸元を掴んで顔を引き寄せ、自分の額をグリゴラシュの顔面に叩きつけた――至近距離からの頭突きをまともに喰らい、鼻を潰されたグリゴラシュが関節技を解いて後ずさる。どうも額が口に当たったらしく、眉間が歯で切れている。小さく舌打ちして、アルカードはグリゴラシュの胸元を突き飛ばした。

 ようやく完治しかけて痛みの無くなってきた左眼が、これで再び台無しだ。

 半歩踏み込みながら、左足に腰の入った下段の廻し蹴り――それは躱したものの突き立てられた三爪刀トライエッジの激痛のせいかよろめいたグリゴラシュの顔面めがけて、右拳を撃ち込む。交叉させた両腕で跳ね上げる様にして、グリゴラシュがその一撃を受け止めた。

 右腕を引き戻しながら、その防御動作で頭の下がったグリゴラシュの側頭部を狙って右上段廻し蹴り――グリゴラシュの左眼も潰れているので回避に支障があるが、アルカードの左眼も機能を失っているので目測を誤った。

 空振りに終わった廻し蹴りの動作から、回転を止めずに転身――同時に軸足を入れ替えて、今度は左の後ろ廻し蹴り。目測に不安があるからだろう、必要以上に間合いを離したグリゴラシュが、空中で軌道を変化させて股間を襲った踵をギリギリのところで右手で掴み止めた。

 グリゴラシュが笑う――アルカードも笑みを返して、軸にしていた右足で床を蹴った。

 そのまま跳躍して――右足でグリゴラシュの顔に向かって廻し蹴りを放つ。グリゴラシュは両手でこちらの左足首を捕えている。もう少し余裕があれば足首の靭帯を捩じ切りにきていただろうが――

 足を挫くよりも早く届いた蹴り足が頬をかすめ、グリゴラシュが捕らえた足を放して後ずさる。

 ち……

 口元をゆがめ、アルカードは小さく舌打ちを漏らした。グリゴラシュが下腹部に突き刺さったままになっていた三爪刀トライエッジを引き抜いて、無造作に足元に投げ棄てる。鋸状の刃が抜ける瞬間に激痛に一瞬顔を顰め、彼は血の混じった唾を足元に吐き棄てた。

 額からの出血が、眉間を伝って口元に流れ落ちてくる――ヘリポートの構造物の陰になってじかに雨が吹き込んでこないので、血が洗い流されないのだ。

 目に入ってこないことにだけ感謝しておくべきか――胸中でつぶやいて、アルカードは床を蹴った。

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