Evil Must Die 31

 

   *

 

「――あーあ、やってらんね」 愛車のデリカのドアを乱暴に閉めながら、輿石は顔を顰めて舌打ちした。助手席から降りてきた大谷が、小さく溜め息をつく。

 カートン買いした煙草を詰め込んだコンビニの袋を持ち直し、数台駐車されたいかにもな感じにドレスアップされた車の間を通り抜けて、たまり場にしている廃倉庫の扉に足を向けながら、輿石は天を仰いで盛大に愚痴をこぼした。

「せっかく上モンの女かっさらってきたのに、俺たちゃお遣いかよ。今頃あの女、小沢さんに嵌められてるのかねえ。お下がりでいいからヤリてえなあ。あ、でも先に洗わねえと気持ち悪くて突っ込む気にもならねえか。おまえはケツが好きだからまだいいかな? なあ大た――」

 ドン、という音に言葉を切って、輿石は大谷のほうを振り返った。

 まだ閉めていない助手席側のドアの向こうで直立したまま、全身を痙攣させている――焦点の合わなくなった薄暗がりの中で紅く光る瞳が一瞬こちらを捉え、そのまま全身が弛緩して頭ががくんと傾いた。その口の端からつぅ、と赤い血が滴り落ち、手にしたコンビニの袋が指から滑り落ちて、冷えたスーパードライの缶が罅割れたアスファルトの上にこぼれ出る。缶が破損したのかブシュウという音が聞こえてきた。

「……おい?」

 ブチブチという破断音とともに、大谷の体が横に放り出される様にして崩れ落ちた。大ぶりの刃物で背中から三箇所ほどを刺された跡があり、刃を引き抜くときに鋸状の部分に引っかかったのか着ていたハーフコートの繊維が大きく裂けている。断末魔の痙攣を繰り返す大谷から視線をはずし、彼がそれまで立っていた場所に視線を向けると、大谷の背後になる位置に黒々とした人影がわだかまっているのが視界に入ってきた。

 ばずん、と音を立ててその人影が助手席のドアを閉めた。きぃ、という金属同士の擦れ合う摩擦音とともに、人影が前に出る。

 そこに立っていたのは黒い革のコートの下にまるで中世の映画の様な甲冑を身に纏った長身の男だった。

 獅子の鬣を思わせる艶やかな金髪。血の様に紅い瞳は弱々しい月明かりに照らされた薄暗がりの中でレーザーの様に輝いている。

 右手には鋸の刃を大きくした様なギザギザの刃を備えた鈎爪状の刃物を、指の股に挟み込む様にして持っている。数は三枚――カエリの役目をする刃に衣服の繊維が引っ掛かり、血と引きちぎられた皮膚や肉がべっとりとへばりついていた。あれが大谷を殺った凶器なのだろう。いったいどういう怪異なのか藁灰の様な塵になってさらさらと崩れ落ちてゆく大谷の亡骸を視界の端に捉え、蛇に睨まれた蛙の様に動くことも出来ないまま、輿石はそんなことを考えた。

 劫火のごとき苛烈な殺意と氷の様な冷酷さを備えた爬虫類を思わせる感情の読み取れない眼差しが、静かにこちらを睨み据えている――暗闇の中でおのずから輝く紅い瞳が、一瞬金色に変わった様に見えて、

「――三十三か」 低くかすれた声で、目の前の男がそんなつぶやきを漏らすのが聞こえた。三十三。目の前の建物の中にいる、仲間たちの数。

 右手で保持した鈎爪状の刃物を軽く翳し、男がこちらに視線を向ける。金縛りにあったかの様に動けなかった体が突然自由を取り戻し、輿石はコンビニの袋をその場に投げ棄てて倉庫のほうに走り出した。

 あれは人間ではない。自分たちと同じ様に人間ではなくなった――しかし、自分たちともまるで異なる生き物だ。

「た――」

 助けて、と声をあげるよりも早く、襟首を掴まれて強く引きつけられる。バランスを崩して後傾した瞬間に腕で首を抱え込まれ、その腕を振りほどこうと手を上げるよりも早く、ずぶりという音とともになにかが背中から体内にもぐりこんできた。

 強靭な皮膚を、筋肉を引き裂き、骨格の隙間を通って入り込んできた、大谷の体温が残った生温かい刃の感触。

 肋骨の隙間から滑らかに侵入してきた刃が、肺を貫き心臓に達する。三枚の刃はそのまま胸部を貫通し、胸骨を突き破りながら胸から飛び出した。

「――!」 激痛に声をあげることすら出来ない。叫び声をあげようと大きく開いた口から漏れたのは、ずたずたに引き裂かれた肺から気道を通じて逆流してきた血が泡立つ、ごぼごぼという含嗽音だけだった。自分の意思とは無関係にぼろぼろと流れ落ちる涙が頬を濡らし、気が狂いそうな苦痛で思考が千々に乱れ、もはや抵抗しようなどと考えることさえもままならないまま、輿石はただ悶絶した。

 突き立てられた刃が引き抜かれ、ギザギザの刃が引っかけた筋繊維や神経をブチブチと引きちぎり、さらなる激痛に輿石は絶叫をあげた――実際に漏れたのはただの含嗽音だったが。

 身体機能を致命的に破壊された体が、アスファルトの上に投げ出される。体から温かいものが流れ出し、手足の感覚が無くなってゆく。胸の激痛を感じなくなるころには、輿石はもはや自分が死んだということすらわからなくなっていた。

 

   †

 

 鈎爪状の刃物トライエッジを保持した右手を横に振って、アルカードは串刺しにした男の体をアスファルトの上に投げ出した。亀裂から雑草の生えた罅割れたアスファルトの上に放り出された男の体が、細かな断末魔の痙攣を繰り返している。

 もはや助かるまい――霊体も完全に破壊されている。数分も持たずに塵に還るだろう。とどめを刺してやる情けも苦痛を和らげてやる義理も無い――あと数分間、地獄の苦しみの中で逝くのがこの男にふさわしい断罪だ。侮蔑の視線を向ける手間も惜しんで、アルカードはそれ以上男にかまわずに歩き出した。

 

   †

 

 言葉も出ないまま、香澄は目の前で陽輔が暴行を受けるのを凝視していた――数人の男女が結束バンドで手首を後ろ手に拘束されて抵抗も出来ない陽輔の顔や背中、腹を面白半分に蹴り飛ばしている。

 それを少し離れたところで、ジーンズを足元まで下ろした男が安っぽいパイプ椅子にふんぞり返ってにやにや笑いながら見守っていた。男の足元にふたりの女が膝を突いて、剥き出しになった男の股間に顔を埋めていた。

 その向こうでは朽ちたフォークリフトの後部に錘に両手を突かせた女の腰を掴んで痩せた男が懸命に腰を動かしており、女が気の乗らない喘ぎ声をあげている。別な場所では男の体にまたがった女に、もうひとりの男が背後からのしかかっている。

 向こうの角にはドラム缶が置かれており、その中で燃やされている廃材が周囲にオレンジ色の光を投げかけていた。クーラーボックスが置いてあるのは、酒か食糧でも持ち込んでいるのだろうか。

 そしてそのいずれもが――暗がりの中で目が紅く光っているのはなぜなのだろう?

 香澄の体を抱き起こしていた裸の男が、臭い息を吐きかけながら耳元で囁いてきた。

「よぉ、大事な彼氏があんな目に遭ってる気分はどうよ? しょうがねえよな、あんなところでべたべた手ぇつないでちゃよくねえぜ――ガキの教育によくねえし、リンチにあっても文句言えねえよな。姉ちゃんのほうはツラも悪くねえし乳もありそうだし、なにより俺たちゃ紳士だから女は殴らねえんだ。仕方無ぇから、おまえが股開いたら許してやるよ」

 そう言って、男が蛞蝓の様な舌を香澄の頬に這わせる。おぞましい感触と生理的な嫌悪感に背筋が粟立った。

 振り払おうと肩を振り回すと、男は癇癪を起こしたのか怒声をあげて香澄の頬を思いきり張り倒した。横殴りに倒れ込んだ拍子に床で頭を撃ち、口の中が切れて血の味が広がる。男はそのまま香澄の頭を埃だらけの床に押さえつけ、

「優しくしてやってりゃ、つけあがりやがって――彼氏がどうなってもいいってか、あ?」 男が床の上で転がす様にして強引に香澄の頭の向きを変え、床の上に倒れた陽輔の姿が視界に入ってきた。

 こちらが陽輔の姿を認識するのを待っていたのだろう、暴行を加える手を止めていた男たちのひとりが頑丈そうな安全靴の爪先を陽輔の鳩尾に突き込んだ。体をくの字に折って咳き込む陽輔の後頭部を、今度は別な女が蹴り飛ばす。

「どうする? 姉ちゃんがおとなしく言うこと聞けば、あいつはこれで許してやるよ」 そういった男の向こうで、安全靴の男が再び陽輔に蹴りを叩き込んだ。

「……わ……」

 震える唇をかろうじて動かして、香澄は首肯の返事をした。

「わかった、言うこと聞くから、もうやめてあげて」

「そうそう、それでいいんだよ」 暴れてずり上がったジーンズのミニスカートの裾から剥き出しになった太腿に男が無遠慮に手を這わせ、次いでベルトに手を伸ばしてくる。

「心配すんな、優しくしてやるからよ」 下卑た笑みとともにベルトのバックルに手をかける男の声を意識から締め出そうと無駄な努力を続けながら、覚悟を決めて歯を食いしばり、きつく目を閉じた瞬間、ベルトのバックルに触れていた男の手の感触が唐突に無くなった。

 おそるおそる目を開けたその眼前から、男の姿が無くなっている――代わりに視界に入ってきたのは、男の右眼に親指を捻じ込み、その体を宙吊りにする左腕だった。

「――っぎゃぁぁぁぁぁ!」 眼窩に引っ掛けた親指一本で宙吊りにされた男が、口から悲鳴をほとばしらせる――自分の体を宙吊りにした腕を振りほどこうと暴れるが、男の体を宙吊りにした腕は小揺るぎもしなかった。

「うるさい、黙れ」 聞き覚えのある――ただし口調は似ても似つかない――冷徹な声で発せられた言葉とともに、男の悲鳴が途絶えた。悲鳴の代わりに漏らした嗽にも似たごぼごぼという音とともに男の口の端から赤黒い血をあふれ出し、無事な左の眼球を裏返らせた男が手足をだらんと弛緩させて痙攣し始める。

 香澄のそばに立っているその黒いコートの人影は、宙吊りにしていた男の体をまるでゴミ袋かなにかの様に壁際に投げ棄てた。口から大量にあふれ出したまだら色の血が、床に堆積した分厚い埃に紅い染みを作っていく。

「な――」 誰何の声をあげたのは誰だったのだろう。

「なんだ、てめえ――」

「ほう――日本じゃ蚊や蠅を相手に名乗りをあげる習慣でもあるのか?」 侮蔑もあらわなそんな返答。炎に照らし出されてオレンジ色に染まった、獣の尾の様な金色の髪。

 血まみれになった男の右手に、三枚の刃物が握られているのが見えた――どんなふうに保持しているのか知らないが、四指の隙間から一枚ずつ、ぎざぎざの形状をした大ぶりの刃が飛び出している。

 黒いコートを羽織ったその男は、彼らの反応を待たずに床を蹴った。

 陽輔のそばにいた女に向かって殺到し、そのまま反応のいとまも与える事無く腕を一閃――顔面に深々と三条の切り込みを入れられた女が悲鳴をあげることも出来ないまま、背中をのけぞらせてその場に倒れ込む。

 男がそのままその場で転身――まるで黒い竜巻の様にその場で一回転した男の繰り出した後ろ廻し蹴りが頭部に直撃し、頭蓋を一撃で粉砕された男の体がまるでやんちゃな子供が投げつけた人形の様に跳ね飛ばされてやかましい音とともに倉庫の鉄扉に激突し、そのまま力無く床に崩れ落ちた。

 いったいどれほどのパワーで攻撃を繰り出せばそうなるのか、コンクリートの地肌が剥き出しになった床を軸足がドリルかなにかの様にえぐっている。

 それまで茫然としていた安全靴の男が、金髪の男に背後から襲いかかる――金髪の男はそちらに視線も向けずに左にステップして突進を躱しながら男の腕を捕り、同時に右足で男の足を払った。その場でつんのめる様にして床の上に倒れ込んだ男の背中に、金髪の男が右拳を叩きつける。

 当然ながら、あの長大な鈎爪状の刃物を三枚握った右拳を、だ――身の毛の彌立つ絶叫とともに、男が口蓋から血を吐き散らしながらじたばたと暴れもがく。ともすれば憐れみを誘うその絶叫を耳障りに感じたのか、金髪の男は左手を伸ばして男の髪の毛を掴み、そのまま強く振り回した。首をへし折られた男の体がその場でぐったりと弛緩し、動かなくなる。

 それ以上安全靴の男の屍には一瞥も呉れる事無く、金髪の男が立ち上がった――陽輔に暴行を加えるのに参加していた四人のうち最後の女が、両手で金髪の男に掴みかかる。

 立ち上がりかけていた男は姿勢を低くしたまま踏み出して、女の下腹部に下から突き上げる様な挙動で右拳を埋め込んだ。

 女の口から絶叫がほとばしる――その背中を突き破って、まるで獣の爪の様な鋭い刃先が三枚、飛び出している。

 鳩尾を拳で突き上げたまま、男が女の体を持ち上げる――口から大量の血を吐き散らして暴れている女の体を、金髪の男は無造作に床に投げ棄てた。そしてそのまま、仰向けになった女の顔面を踵で踏み砕く。

 のたうちまわるのをやめて細かな痙攣を繰り返すのみになった女をそれ以上一顧だにせず、金髪の男は手にした刃物で陽輔の背中を引っ掻く様な動きを見せてから、爪先で陽輔の体を軽く小突いた――揺すったりしなかったのは状態がわからないのと、大勢残っている彼らを相手に隙を見せないためだろう。

「おい、しっかりしろ」

 一応意識は保っていたのか、それまで横向きに倒れていた陽輔が寝返りを打つ様にして仰向けになった。先ほどの動きで陽輔の手首を拘束していた結束バンドを切断したのか、両手が自由になっている。

「ア……ルカード、さん?」

「ああ」 陽輔の言葉に、金髪の男――アルカード・ドラゴスは小さくうなずいた。

「こっぴどくやられたな――動けるか?」

「……なんとか……」 つらそうな声を出しながらも身を起こす陽輔に、アルカードはどこからか取り出した折りたたみナイフを差し出した。

「香澄ちゃんのほうを見てやってくれ」

 陽輔が差し出されたナイフを受け取ると、アルカードは彼から離れる様に数歩進み出た。

「なんだ、てめえは!」 虚勢と怒声で困惑と恐怖を繕っているのがはっきりわかる口調で、先ほどまで女ふたりにかしづかれていた男が声をあげる。

 それを無視して、アルカードが右手で保持した刃物を軽く翳す。それまで壁に手をつかせた女を後ろから突くのに夢中になっていた金髪の男が、金切り声をあげながらアルカードに襲いかかった。

 アルカードが左拳を振り翳して殴りかかってきた男の腕を捕り、片手だけで背中に捩じ上げる――勢いのまま肩が脱臼するめりっという音とともに男が悲鳴をあげようと口を開け、同時に背中から突き込まれた刃物の尖端が胸から飛び出す。あげようとしていた絶叫は、破壊された肺から気道を上ってきた血が泡立つごぼごぼという音に変わった。

「バンリっ!」 それが男の名前なのか、叫び声とともに彼に後ろから突かれていた女がアルカードに襲いかかる――アルカードが一歩踏み出し、女の踏み込みに合わせてその前足の脛のあたりを足刀で蹴り砕いた。ゴキリという鈍い音とともに脛骨が折れて膝から下がくの字に曲がり、皮膚が破れて白いものが覗く。

 その場に倒れ込んで絶叫をあげる女の無事な脚を、アルカードは無造作に踏み折った。女の悲鳴が一オクターヴ跳ね上がるのを無視して、アルカードが女の髪を鷲掴みにして乱暴に持ち上げる。

 女が悲鳴をあげながら、その手から逃れようとアルカードの手を掻き毟る――無論、両手を趣向で鎧ったアルカードにとってはなんの痛痒も無い。アルカードは女を無視して自分を取り囲む残りの連中を見回し、彼は右手で保持した刃物を誇示する様に無造作に持ち上げた。

 

   *

 

「――アルカード、結局ご飯食べにこなかったね」 テレビに視線を向けたまま、凛がちょっとさびしげに口を開く。

 隣で食後のお茶に口をつけ、フィオレンティーナは小さくうなずいた。

「そうですね――でも、ご飯ならまたいつでも一緒に食べられますよ」

「うん」

 テレビのニュース番組は、ちょうど新宿駅前の様子を中継していた――雨合羽を羽織ったリポーターの女性が、横風に乗って吹きつけてくる雨に濡れながら話をしている。リポーターの向こうに見える道路は完全に冠水し、時折車が通りすぎるたびに水を跳ね散らかしている――なにもわざわざ屋外から中継しなくてもいいと思うのだが。

 アンは約束があるからということで陽輔が戻ってくる前にチャウシェスク邸を辞したので、夕食に招待されたバイトの従業員はフィオレンティーナたち三人だけだ――パオラとリディアはイレアナとデルチャと一緒にキッチンでなにやら作業にいそしんでおり、蘭は夏休みの宿題でわからないことが出てきたのか陽輔と差し向かいで算数のドリルを覗き込んで難しい顔をしている。恭輔と忠信は完全に潰れて、アレクサンドル老と三人で床の上でぐったりしていた。

「陽輔さんは大学生なんでしたっけ」

「陽輔兄ちゃん? うん、家庭教師の先生してるよ」 ときどき凛たちも教えてもらうの、と続けて凛が笑う。

「ここにもときどき来てるよ」

「そうなんですか?」

「うん。でもお店のほうに入ってないから、気づかないかもね」

 その返答に、フィオレンティーナはちょっと考え込んだ――昨夜の話からすると、陽輔は普段兄夫婦と同居で実家に住んでいて、恭輔とデルチャがそろって家を空け、蘭と凛がチャウシェスク家に預けられているときでもひとりで家にいるということになる。

 ……ペットの世話でもあるのかしら? でも動物アレルギーだから飼えないって言ってたよね――首をかしげつつ、フィオレンティーナは陽輔のほうに視線を向けた――陽輔は算数のドリルを前に眉根を寄せている蘭に、新聞広告の裏に計算式を書き込んで順を追って説明している。どうやら内容から察するに、仮分数と帯分数の割り算らしい。

「……どうかしたの?」

 陽輔の横顔を凝視しながら黙り込んでいるのをいぶかしんでか、凛がこちらを見上げて声をかけてくる。

「え? あ――いいえ、なんでもないですよ。ごめんなさい」 慌てて笑顔を取り繕って、フィオレンティーナはソファに座り直した。しばらく口ごもってから、

「ねえ、凛ちゃん」

「なぁに?」 聞き返してくる凛に手を伸ばして、フィオレンティーナは彼女の体を抱き寄せた。

「凛ちゃんは、アルカードが怖いと思ったことはありますか?」 膝の上に倒れ込む様にして俯き気味のフィオレンティーナの顔を見上げた凛が、

「無いよ」 どうしてそんなこと聞くの?と言いたげに、不思議そうな顔でこちらを見上げている。

「お姉ちゃんは怖いの?」 ちょっと不安そうに、凛はそう問うてきた――そうだ、凛がアルカードを恐れるわけがない。

 陽輔が言ったとおりだ――まして、凛にとってはアルカードは生まれたときから身近にいる相手だ。あのアルマがアルカードを恐れないのと同じ理由で、彼女も吸血鬼だからという理由で彼を恐れない。相手が人間であろうとなかろうと、その相手が自分を傷つけたりしないということが確信出来れば、恐れる理由は無い。

「どうなんでしょうか」 曖昧に微笑んで、フィオレンティーナは凛の前髪をそっと掻き上げた。

「なんだかわからなくなっちゃって」 意味がわからなかったのだろう。不思議そうに首をかしげる凛に、

「昨日お風呂に入ってるときに話したこと、覚えてますか?」

「お姉ちゃんのお父さんとお母さんのこと?」

 凛の反問に、フィオレンティーナは小さくうなずいた――はたしてこの子に、自分の抱えている葛藤が理解出来るのかどうか。

「わたしの両親、それに妹はね、吸血鬼に殺されたんです――昨日の昼間、アルカードは自分がわたしの父親を殺したと言ってました」 その告白を聞いて、凛が表情を固くする。

「そのこと自体を、恨んでるわけじゃないんです――わたしの父はほかの吸血鬼に血を吸われて、吸血鬼になりかけてましたから。放っておいたら全然関係の無い人たちを襲って、大変な事態になってたと思います――父を襲ったのはアルカードにとってもかなり手強い吸血鬼でしたから、たぶん助からなかったでしょう」

 父を殺したことについて、フィオレンティーナは別段アルカードを恨んでいなかった――状況はアルカードの記憶を夢で見て正確に知っているし、グリゴラシュがアルカードと戦う前に逃亡する可能性があった以上、グリゴラシュを斃すことで父を人間に戻せた可能性は低い。

 客観的に見て、あの状況では殺害が最善の判断だ。それはわかる――フィオレンティーナだって同じ判断を下すだろう。まして、父の死はアルカードに襲いかかって反撃によって殺されるという、自殺同然の行動だった。感情を別にして考えれば恨む道理も無い。

「凛ちゃんが知ってるかどうかわかりませんけど、わたしは吸血鬼に殺されかけたところをアルカードに助けられてここに来たんです――そのときはまだ、なんにも知らなかったんですけど」 凛は返事をしなかった――ただ膝枕のままじっとこちらの顔を見上げて、言葉の続きを待っている。

「昨日の昼間、ちょっと話をしたんです。アルカードは自分が追ってる吸血鬼を斃したあとでなら、わたしと戦ってもいいと言ってました。アルカードは自分が、わたしにとって仇だと思ってるんですよ――事情はどうあれ彼はわたしの父を殺したわけですし、だから仇と言えば仇なんですけど」

 小さく息を吐いてから、

「わたしが聖堂騎士になったのは、家族の仇をとりたかったからです――それに、わたしと同じ境遇になる人を減らしたかった。だからアルカードも討ち取る相手なんですけど――アルカードはわたしが戦うと決めたら、逃げずに相手をするでしょう。戦うとなれば手加減はしないでしょうから、まず確実にわたしが負けるでしょうけど」

 不安そうに眉をひそめる凛に、フィオレンティーナはどうやってこの胸中を語ったものかと悩みながら、

「戦わないことに決めたら、アルカードはその判断を尊重すると思います――ただ、アルカードがいなかったらわたしは確実に吸血鬼に殺されてましたから、助けてもらった恩もあるんですよ。家族が殺されたときと、ここに連れてこられる少し前。そういうことを考えてたら――どうしていいかわからなくなっちゃって」

 じっとこちらを見上げている凛に、フィオレンティーナは小さく笑いかけた。

「ごめんなさい、よくわからないですよね」

 凛は無言のままじっとフィオレンティーナを見上げていたが、やがて、

「ごめんね、言ってることはわかるけど、どうすればいいのか凛もよくわかんない」

 その返答に、フィオレンティーナは小さく笑ってうなずいた。いずれ自分で決めなければならないことだし、そもそもこの子に言う様なことでもなかっただろう。

「でも、出来ればお姉ちゃんもアルカードもいなくならないでほしいな」 ソファの上でうつぶせになって膝に顔を埋める様な姿勢で、凛はそう言ってきた。

 

 ちなみに。

 翌日の朝刊の社会面の隅っこに、異様なほどの量の香辛料がぶち込まれた真っ赤なクッキーを食べた一家がそろって病院に担ぎ込まれたという記事が小さく載るのだが、それはまた別の話。

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