The Otherside of the Borderline 24

 そこに映っているのは、颯爽とした、どこか涼しげな青年の顔。

 変貌する前の自分の顔だ。

 秘薬の効果を抑制する鈴によって、彼の姿は生来のものへと一時的に戻る。彼は小さくかぶりを振ると、壁面に移ったかつての自分の相貌から視線をはずした。

「ネメアよりベガ――これよりイエロー10地点イエロー・テンに侵入する」

 それは発声を伴ったものではない――本来、魔術通信網は肉声を必要としない。それに対する返答もまた、肉声を伴わないものだった。

「ベガ了解。単独偵察任務が終了し次第、増援を転送する」

「ネメア了解」 幸運を祈っておいてくれ、と回線には載せずに独り語ちて、彼は鈴から指を離し、手をポケットから引き抜いた。

 それに伴って一時的に失効していた秘薬の効果が復活し、皮膚の色が忌まわしきものへと変化してゆく。だが彼はもう気に留めなかった。もはや自分の生理的嫌悪感など気にする必要は無い――有用な能力であることは認めるべきだろう。

 環嬢ベガの情報によれば、このへんのはずだがな――

 境界線を越え、ひとつ隣の区画に移動したことで、敵はより近づいた。慎重に、だが淀み無く、歩を進めていく――多層視覚の視界の端に表示された『地図』の中で、赤い光点と橙の光点がちらつき始めた。

 より慎重に、かつ素早く歩を進めていく。この先には複数の噛まれ者ダンパイアや、喰屍鬼グールの存在が確認されている――光点の出現がそれを示している。

 一対一の状況であれば、相手が何者であろうと簡単には負けない自信があった――少なくとも防御に関して言えば、ネメアの皮膚はライフル弾も徹さない。だがいかに防御が強固でも、包囲されてしまえば圧倒的に不利になるのはわかりきっていることだ。

 視界の端に表示された地図――環がごく小さなサイズのリアルタイムで更新される画像を、魔術通信網を介して彼の意識の内側に投影しているのだが――を広域表示から詳細表示に切り替えながら、彼は手近にあったビルとビルの隙間へと身を滑り込ませた。

 狭い路地の奥に進めば、建設中のビルの工事現場の裏手に出る――近い将来はどこかの会社の本社が入るであろうその建設途中のビルの敷地内で、いくつもの光点が瞬いていた。

 赤は喰屍鬼グール、橙は噛まれ者ダンパイア――青は味方、正確には一般騎士を表す光点で、緑色は民間人を示す。

 黄色い光点は彼も含めた遊撃騎士を示しており、さっき捜索対象に加わった『正体不明アンノウン』は表示されていないが、検索範囲内に入ると白い光点で表示されることが環からの通信によって通知されていた。

 赤い光点は十を超えている――噛まれ者ダンパイアを示す橙の光点はみっつ。喰屍鬼グールを示す赤い光点はかなり密集しているから、ふたつ以上の光点が重なって表示されている可能性もある――少なくとも喰屍鬼グールは十体以上いる。

 魔力の質から判断される限り月之瀬本人、もしくは綺堂が差し向けた『一族』の討手が変化した噛まれ者ダンパイアはいない――環はそう連絡してきていたが、それでも三体の噛まれ者ダンパイアと十を超える喰屍鬼グールはネメアひとりでは荷が重い。

 それに各個の実力はこの際置いておいても、ネメアひとりでは逃がしてしまう可能性もある――味方の生存確率を可能な限り上げるため、騎士団の基本方針は『確実に相手より多い人数で攻撃を仕掛ける』ことだった。これは相手を逃がさず、確実に仕留める目的も兼ねている。

 したがって、彼の目下の任務は一般騎士の分遣隊が転送されてくるまでの間に掃討目標である噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールの群れの詳細位置を特定、監視することだった。

 まるで物陰を這い進む蛇の様に、じりじりと路地を進んでいく――呼吸は浅く、静かに。足音は殺して。

 ネメアの名の由来、すなわち狩りをする獅子のごとく気配を殺して――

 だが嗚咽とも喘ぎ声ともつかぬ悲痛な声を耳にした瞬間、ネメアの心臓は一瞬跳ねた。

 工事現場は背面も表側と同様に高さ三メートル半ほどのパーティションで覆われており、内部の様子は窺えない――人間の吸血鬼化個体である噛まれ者ダンパイアたちは基本的に人間と同じ思考をするから、後ろめたいことをしているときは隠れようとする傾向がある。度胸が据わっていればそれも無いが、どうやら彼らは小心者の様だ――考えるまでもないことか。

 間違い無い。押し殺したすすり泣き、嫌悪感しか感じられない悲痛な喘ぎ声、助けを求める蚊の鳴く様なささやき。それも複数。

 パーティションの継ぎ目の目張りを剣の鋒で壊し、その隙間から中を覗き込んで――彼は背筋が粟立つのを感じて小さくうめいた。

 まだ基盤が剥き出しになったコンクリートの上に、鉄骨の骨組みが途中まで組み上がっただけの中途半端な建造物。薄暗がりの中に、レーザーポインターの様な赤い光点が三対六個。

 人間ではなくなったことを示す、暗闇の中で光る魔人のだ。

 そしてほかに――女性が三人。

 みなOLの様だ――さぞかし綺麗な女の子だっただろう。

 これまた過去形にしていたのは、最初に視界に入ってきた二十歳すぎの女の子の、殴られて腫れた頬を伝う鼻血のせいだった。

 スーツのボタンは弾け飛び、ブラウスは引き裂かれて薄いピンク色の下着は力任せに引きちぎられ、胸のふくらみの頂点に位置する突起の周囲に穿たれた歯型から血がにじんでいる。スカートはナイフの様な刃物で切り裂かれた跡があり、下着は片方の紐だけが切られて左足の太腿に引っ掛かっていた。

 おそらく隔離結界が作動する前に捕まったのだろう――どれだけの長い時間凌辱を受けて過ごしたのか、彼女の胎内で男が乱暴なピストン運動を繰り返すたびに、あおむけに組み敷かれた彼女の体は力無く揺れていた。

 彼女の下腹部から、ぐちゃぐちゃと水音が聞こえてきている――男たちの侮辱的な暴力行為に対して体内の繊細な器官を傷つけないための自己防衛として分泌された液体と、彼らの放ったおぞましい劣情のほとばしりが混じったものが、男の汚らわしいものによって撹拌される音だろう。

 ひとりはこちらに背を向けた男に四つん這いにされたまま獣の様に後ろから責め立てられ、両腕に力が入らないのだろう、うつぶせにコンクリートの上に突っ伏している。悲痛な啜り泣きを漏らしているのは、彼女だった。

 最後のひとりは少し離れたところにいた。絶えることの無い食欲に苛まれたふたりの喰屍鬼グールに両肩を押さえつけられ、横になった男の下腹部に跨る様にして、男の律動のたびに嗚咽の混じった喘ぎ声をあげている。下着は穿いたままで――そのまま挿入するためにずらされた股布が、破瓜の血で赤く染まっている。

 もはや抵抗する気力も体力も残されてはいないのだろう、彼女たちは男たちの欲望のままにただ凌辱されるだけになっていた。喘ぎ声に混じる啜り泣きに興奮を掻き立てられるのか、時折男たちが一層激しく動き、あるいはナイフを突きつけて、快感を訴えさせていた。気持ちいい、もっと激しくして――無論、快楽など感じているはずもない。彼女たちの嗚咽の混じった『気持ちいい』という言葉は、さらなる暴行を恐れて心ならずも口にしたものでしかない。

 あまりにも残酷な光景に、ネメアは一瞬ならず我を忘れてその場に立ち尽くした――あんな目に遭わされるくらいなら、一気に殺されていたほうがまだましだろう。

 だが、彼女たちにはさらに惨たらしい地獄が待っていた。

 悲痛な金切り声に、ネメアはショックから立ち直って最初の女性に視線を戻した――染髪をしくじったのだろう、まだらな金髪の男が彼女を相も変わらず貫いたまま、彼女の首筋に顔をうずめている。

 彼女の悲鳴は単なる生理的嫌悪感ではなく、激痛によるものだった――それが吸血なのだと理解するまでには、一瞬の間があった。

 犬の様に背後から凌辱を加えていた男も、彼女の腕を掴んで乱暴に引き寄せ、そのまま首筋へとかぶりついている――もはや飽きたと言わんばかりに。

 喉の奥からこみあげてきた嘔吐感に、思わず口元を押さえる――ここまで残酷な光景を見たのははじめてだった。

 くそったれ……!

 今すぐにでも殴り込みたい衝動に駆られながら、ネメアは唇を噛んだ――歯が唇の端に喰い込んでいるが、強靭な皮膚に遮られて痛みは感じない。

 中途半端とはいえ魔術師として受けた精神修養と騎士団で積んだ訓練が無ければ、躊躇わず飛び込んでいたに違い無い――そのあとに続く結果を考えもせずに。

 そこで彼は、さらに奥のほうの暗がりに何体かの喰屍鬼グールが群がっているのに気づいた。

 彼女たちは合計六人いたのだろう、たぶん。不確定の言い方をしたのは、残りは人間の形をしていなかったからだ。

 喰屍鬼グールたちは今まさに、食事の真っ最中の様だった――マニキュアを塗った指が、警官の格好をした喰屍鬼グールの口からはみ出している。

 彼らの餌となっている者たちは、すでに原形を留めていなかった――おそらくバラバラになったパーツを全部集めたら、三人ぶんになるだろう。とりあえずわかるのは、脚が少なくとも六本あるということだけだ。

 ごっそりと喉笛の無くなった女性の顔は、涙でくしゃくしゃになっている――こちらに向けられた虚ろな視線は、最期まで助けを求めて周囲を見回していたことを示していた。

 結局その藁にもすがる思いで求めた救いの手は差し伸べられることは無く、彼女は男たちの野蛮な欲望によって完膚なきまでに踏みにじられたのだろう――衣服を破られ下着を剥ぎ取られ、人間としての尊厳も権利も奪い取られて、下劣な欲望のままに凌辱された揚句に殺されたのだ。

 なるほど、アレを見せられれば抵抗の気力も稀望も失われようというものだ。男たちに媚を売って、従って、どんな屈辱も受け入れて――せめて命だけは失わずに済む一縷の望みに賭けるしかない。

 今にも飛び込みたい衝動をなんとか抑制しようとしながら、剣の柄をすさまじい力で握り締める――白濁した粘着質の液体と赤いものが入り混じって、内腿にこびりついているのが見えた。

 それがなんなのかを理解して、ネメアは視界が憤激で赤く染まるのを感じた。

 彼女たちの身に降りかかった災難がどれほどおぞましいものだったのか――純潔も自分の人生への稀望も粉砕され、生きて帰ることさえもかなわないと理解したときの、その瞬間の絶望は想像すらかなうまい。

 一度は無理矢理下げた血圧がとうとう臨界点に達しつつあるのを感じながら、彼は剣の柄に手をかけた――もはや仲間たちを待ってはいられない。ふたりの女性は吸血を受け、すでに反応が無くなっている――男たちは思うさま欲望を発散しつくしたのか、事切れたふたりに向かって喰屍鬼をけしかけていた。

 だが、残るひとりはいまだ吸血を受けていない。声を立てているから、まだ生きている。

 彼女は今度はうつぶせにさせられ、お尻を高く突き出した体勢を取らされて、後ろから身勝手に責め立てられていた。薄汚れた濃紺のスーツはもはや体にまとわりついているだけで、衣服としての一切の機能を失っている。だが、その絶望の中でも彼女は手をパーティションの外に向けて必死で伸ばしていた――助けを求めているのに違い無い。

 ネメアはもはや沸騰寸前だった――あとわずかなきっかけさえあれば、彼はもはやなにも考えずにその災禍の直中へと飛び込んでいただろう。

 活火山の火口からあふれ出す直前の熔岩の様に煮え滾った思考を押し留めているのは、騎士団で叩き込まれた戦術的思考だった――教え込まれた戦闘者としての思考パターンは、それがあまりに非戦術的な行動であること、たとえ相手がろくな知能も持たないと女相手に暴虐を加えるしか芸の無い惰弱な弱い噛まれ者ダンパイアの群れであろうとも、今ここで飛び込めば真っ先に犠牲になるのはまだ生きているあの女の子であることを告げてきている。

 それは否定出来ない――彼女との間の距離が遠すぎる。彼女の安全確保のためには、真っ先に彼女を凌辱している噛まれ者ダンパイアを排除しなければならない。

 だが彼女を捕らえている噛まれ者ダンパイアを排除するためには、その前にふたりの噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールたちを始末する必要がある――でないと背後から攻撃される。

 心臓から濁流の様な血流とともに全身に広がりつつある怒りが、劫火のごとき殺意となって全身を激しく苛んでいた。

 彼女はまだ生きている――吹き飛びかけたネメアの理性を押し留めたのは、彼女を助け出さねばならないという思いだった。その至上目的が、後先考えずに飛びこもうとする彼の衝動を抑えつける。

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