Vampire and Exorcist 1

 

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「アルちゃーん、鮭のグリル焼き、出来たわよー」

 店の奥の方から、おばあさんの声が聞こえてきた――トレーに食事を終えたあとの食器を満載した金髪の青年が、元気よく返事をして厨房へと引き返していく。

 今しがた彼が食器を下げたテーブルに着いた男女ふたり連れの客は、今のところ席を立つ気配は無い――そちらはまだしばらくは食後のお茶を飲んでいそうだと判断して、彼女は店内を見回した。早めのランチタイムの修羅場がようやく過ぎ去り、今は食事を終えたふたり連れと、料理を待っている女子大生四人しか客はいない。

 男女ふたり連れのほうは、この店を手伝う様になってから何度か見かける顔だ――同じ会社に勤める会社員らしい。

 彼女の乏しい日本語能力で、会話の内容から読み取れたのはその程度だった――会話の内容やお互いに名前を呼び合う親しげな雰囲気からすると、ふたりが特別な仲なのが読み取れる。ただ、出来れば店の中で手を繋いだりするのはやめてほしかった――彼氏イナイ暦=年齢の身には目の毒だ。

 それは意識の中から閉め出して、彼女はデザートの揚げドーナツとフルーツティーを用意した。頼まれたわけではないのだが、この店では客が断らない限りデザートは無料で提供しているらしい――要は代金のうちということなのだろうが。日替わりで変わるらしいデザートは、今日はパパナシというルーマニアのデザートだった。

 揚げドーナツにサクランボのジャムと、ウルダというルーマニア原産のチーズをかけたものらしい――銀製のトレーにお皿とアイスティーを並べて、彼女はカップルのほうへと歩き出した。

 金髪の青年が食べ終わったお皿を片づけていったテーブルに、クレープとティーカップを並べていく。ありがとう、と女性のほうがお礼を言ってきた――綺麗なわけではないのだが子犬の様な愛嬌のある、笑顔の可愛い優しそうな女性だ。

 ごゆっくりどうぞ、と告げてから、彼女はもといた場所に引き返して取り替えるテーブルクロスの用意を始めた。

 厨房の出入口から、何皿か料理を載せたトレーを手にした金髪の若者が姿を現す――彼は見事なバランス感覚でスープも載ったトレーを保持しながら女子大生四人の座った席のほうへと近づいていった。

 女の子ふたりがそれに気づいて、彼に向かって手を振ってみせる――こちらから顔の見えるふたりは、この店で何度か見かけている。こちらからでは背中しか見えない女の子ふたりはここ数日の間でははじめて見る。彼が近づいていくのに気づいて、新顔のふたりが歓声をあげた。

「お待ち遠様」 流暢な日本語で声をかけてから、青年が料理の載ったお皿をテーブルに並べ始める。

はい、どうぞPofta buna」 青年がそう告げるのが聞こえる――ルーマニア語で『よい食欲』という意味らしい。食事前の決まり文句なのだそうだ――もうちょっとわかりやすく翻訳するなら、『さあ召し上がれ』くらいの意味になるのだろう。実際に彼が家族と食卓を囲んでいた時代から、そういう習慣があるのかは知らないが。

ありがとうMultumesc」 ルーマニア語を学んでいるという女の子が、ややたどたどしいルーマニア語でそう言うと、彼は穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。

「はい。だいぶ発音が上達したね」

 その言葉に、女の子がうれしそうににっこりとわらう。

「そうですか?」

「うん、だいぶ上手になったよ」

 金髪の青年がそう言ってうなずいてみせると、別の女の子が質問を発した――今日はじめて見る、茶色がかったショートカットの小柄な女の子だ。

「あの、店員さんは、その、ルーマニアの人なんですか?」

 その言葉に、金髪の青年がそちらに視線を向ける。

「俺かい? そうだよ――ルーマニアのワラキアって知ってるかな。ルーマニアの南側の地方なんだけど」

「ワラキアですか……なにかで聞いたことあるんですけど、なんだったかなあ?」

 女の子たちのひとりが、そうつぶやいて首を傾げる。

 金髪の青年が断りを入れてからテーブルの上のお皿をずらし、テーブルクロスの一点を指差した。ルーマニアの地図が刺繍されたテーブルクロスの一ヶ所を指で示して、

「ここから――」 彼はそのままぐるっと楕円を描く様に指を動かして、

「――ここらへんの範囲かな。だいたいだけどね」

 彼はそれからテーブルクロスの上で指を滑らせて地図の一点を指差し、

「ここらへんがブカレストだね。俺はここの生まれ」

「あ、ブカレストは行ったことがあります」 常連組の女の子のひとりが、そう口を挟み、それを聞いて金髪の男は穏やかにうなずいた。

「ああ、そういえば前にそう言ってたね」 

「いいなあ、中欧……行ってみたいな」

 もうひとりの常連組の女の子の言葉に、彼はくすりと小さく笑った。

「そうだね、機会があったら行ってみるといいよ――まあ、俺ももうだいぶ長いこと帰ってないけど」

「はい、ぜひ。あ、ところで店員さん、お名前はなんていうんですか? わたしは三渡梨葉っていうんですけど。梨の葉っぱって書いて梨葉です」

 そう言ったのは、それまで会話に参加していなかったおとなしそうな女の子だった。

 彼は梨葉に視線を向けてかすかに笑うと、

「リハちゃんか――いい響きだね。俺はアルカードだよ――アルカード・ドラゴスだ」 空中に指先で自分の名前を綴ってみせてから、彼は他の女の子たちに視線を向けた。

「桜庭咲子です」 そう言ったのは先ほどアルカードに故郷を尋ねた茶髪の女の子だ。

 最初にルーマニア語でお礼を言った女の子が、

「あ、月本小梅です」

 最後に名乗ったのはルーマニアに行ってみたいとこぼした女の子だった。

「雪村月乃です」

「リハちゃんにサキコちゃん、コウメちゃんにツキノちゃんか。ふたりは見知った顔だけど、あらためてよろしくね」

 アルカードがそう言ったところで、唐突に小梅がぽんと手を打った。この店に来てから、一番よく見かける女の子だ。

「思い出しました。ワラキアって、確かドラキュラ伯爵の生まれた土地ですよね? あの吸血鬼の」

 アルカードがその言葉にちょっと笑ってみせる。

「コウメちゃん惜しい。ドラキュラ伯爵は小説の登場人物だ。実在の人物はドラキュラ『伯爵』じゃなくドラキュラ『公爵』だよ」

「実在の人物は――って、ドラキュラ伯爵、じゃなくて公爵って実在するんですか?」

 梨葉の言葉に、アルカードは頷いてみせた。

「そう――吸血鬼ドラキュラのモデルになったと謂われてるのは、十五世紀のワラキア公ヴラド三世、ドラキュラ公爵だ。ドラキュラというのは本来、彼に冠された綽名のひとつだよ――もっとも、串刺し公と言ったほうが通りはいいかもしれないけどね」

 彼はそう言ってから、軽く舌で唇を湿らせて続けた。

「ドラキュラっていう名前自体、本来は『竜の子』とか『悪魔の子』という意味なんだよ――否応無しに吸血鬼を連想しちゃうのは、ドラキュラ伯爵のイメージが強すぎるんだろうけどね。彼がドラキュラと呼ばれるのは、彼の父親がドラクル――竜公とか悪魔公と呼ばれてたからなんだ。その息子だから竜の子ってね」

 へぇ、と感心した様な声をあげる女の子たちに、彼は苦笑して続けた。

「ただ、モデルになったと言えるほど小説の作者がヴラドについて知ってたかは正直微妙だね――人種も違えば爵位も違う、ドラキュラの科白の中にもヴラド公を連想させる様なものは無いしね。たぶん小説の作者――ブラム・ストーカーは、公爵の名前とちょっとした逸話くらいしか知らなかったんじゃないかな?」

「そうなんですか?」 月乃が意外そうに目を丸くする。

「うん。ヴラド・ドラキュラと吸血鬼ドラキュラの共通点はニックネームと、あとは現在のルーマニアが出身地だったってことくらいじゃないかな」

 アルカードはちょっと考えてから、

「ヴラド三世がドラキュラと呼ばれてたのは確かだけど、それは父親だったヴラド二世が神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士としての騎士叙勲を受けたからだ――これで竜公、ドラクルというふたつ名がついたんだけど、この父親のヴラド・ドラクルという呼び名に、ルーマニア語で息子を意味する『a』を付け加えたのが『ドラキュラ』なんだよ」

「ドラクルの息子だからドラキュラってことですか」 小梅の言葉にアルカードがうなずいて、

「そうそう。シェイクスピアの『マクベス』とかと一緒だね、あれもベスさんの息子って意味だし」 虚空にMacbethと指先で字を書きながら、アルカードはそんなことを口にした。

 それを聞いて、それまでメニューと一緒に立てて置いてあったラミネートされた紙――日本語なので彼女には読めなかったが、ルーマニアに関して紹介しているらしい――に視線を落としていた咲子がその一点を指差して、

「あの、これだとヴラド公の名前がドラキュラじゃなくてツェペシュになってますけど」

「ああ、それ?」 アルカードはうなずいて、

「間違ってるわけじゃないんだよ――ドラキュラ公爵は当時、オスマン帝国と戦争をやっててね。当時のルーマニアはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアのみっつに分かれていて、ドラキュラはワラキア公だった。彼はワラキア公国軍を率いてオスマン帝国と戦争をしてたんだけど、物量で押されて一度は当時のワラキア公の宮殿があったトゥルゴヴィシュテ――あ、ここらへんね。このトゥルゴヴィシュテまで侵攻された。ドラキュラは状況を打開するためにトゥルゴヴィシュテ近郊で野営をしていたオスマン帝国軍に夜襲を仕掛けたけれど、結局敗退してる」

 テーブルの上に覆いかぶさる様に背をかがめて地図の一点を指で指し示し、アルカードは続けた。

「現代にも語り継がれる、『トゥルゴヴィシュテの夜戦』だよ。で、その夜襲――トゥルゴヴィシュテの夜戦が決着したあと、オスマン帝国の皇帝だったメフメト二世はトゥルゴヴィシュテに入った。でもそこには、捕虜にされたオスマン帝国兵が串刺しにされて処刑された死体が大量にあって――それを見て、メフメト二世はオスマン帝国に撤退してる。で、それを見たオスマン帝国の兵士たちは、ドラキュラ公にカズィクル・ベイ――串刺し君主という綽名をつけた。ツェペシュというのはルーマニア語で、同じく串刺しという意味だ」

「あ、じゃあこのツェペシュってヴラド公の名字――ファミリーネームじゃないんですね」 梨葉の言葉に、アルカードはうなずいてみせた。

「そうだね。一応別に家名はあるんだけど」

「アルカードさんって歴史に詳しいんですね」

 感心した様な小梅の言葉に、アルカードは照れくさそうに笑った。

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