Nothing Helps 1
ほう、ほう――どこかで梟の鳴き声が聞こえる。
木材を運び出すために使われていたらしい乗用車二台がやっとのことですれ違える程度の幅しかない古ぼけた道路はすっかり寂れて、張り出した木々の枝葉に遮られて月光すらも届かない。
それでも昔は車が通るために枝払いくらいはされていたのだろうが、とうの昔に使われなくなった今となっては低い位置の枝も伸び放題になっている。
路面を舗装するアスファルトは一応残ってはいるもののそこらじゅうに亀裂が走り、その亀裂の隙間から雑草が伸びている。雑草がぼうぼうに繁茂した荒れ果てた路面を、白色度の高い
バルブの動きを完全に機械式で制御するデスモドローミック機構をエンジンヘッドに組み込まれた高回転型の空冷エンジンの甲高い回転音が森の静寂を引き裂いて、闇の中へと消えていく。
ところどころ段差が出来た暗く狭い道路を、一台のオートバイが疾走していた。
Ducati Monster S2R1000――オートバイのフェラーリとも称される、イタリアンバイクの最高峰メーカーが手懸けた空冷ネイキッドだ。
交換出来るパーツはすべて樹脂パーツよりずっと軽いカーボンファイバー製に交換され、フロントフォークはラジアルマウントタイプのブレーキキャリパーに対応したオーリンズ製のものに換装されている。本来は片押し2ポッドのキャリパーを換装したことによるバネ下重量の増加を相殺するためか、ホイールもカーボンファイバー製のものに換装されていた。
カーボン製のフルフェイスヘルメットをかぶっているためにライダーの容貌は窺えないが、背中まで長く伸ばされ紐で束ねられた暗めの金髪は人の毛髪というよりもむしろ獅子の鬣を思わせる。
男は明らかに人間離れした運転技術を駆使して、ところどころに亀裂が走り凹凸が生じた舗装路をものともせずに時速百六十キロの速度で突っ走っていた。
白色度の高いヘッドライトの閃光に照らし出された木々が、凄まじいスピードで後方へと流れて消えてゆく。ばっ、ばっという断続的な音は、周囲の木々のために走行風が変化して起こるものだ。
次々と迫ってくる視界の利かない浅いコーナーを易々と抜け、彼は更にスロットルを開いてS2Rを加速させた。
やがて曲がりくねった道路の先で、頭上を覆う木々の枝葉がふたつに分かれていく――目的の開豁地に達したのだ。
それに気づいて、S2Rを駆るライダーはスロットルを緩めた。同時にギアを一段落としてエンジンブレーキで減速し――駐車場と思しき広い開豁地に入る前でブレーキを操作したのだろう。ブレーキランプが二度点燈する。
駐車場と思しい開豁地の奥には簡素な造りの倉庫が建てられている――否、正確に言うならばその残骸だが。
ところどころ剥がれ落ちた外壁はトタンの波板で作られ、波板同士を留めているリベットはとうの昔に錆びついている。何年前に遺棄されたのかも見当のつかないその廃倉庫の前に、数台の車が止まっている。
本来はここで仕上げられた製品を――それが家具類なのか、それとも材木なのかまでは判断がつかなかったが――運び出すためのトラックの駐車スペースだったのだろう、今や見る影もなくいくつもの亀裂が走ったアスファルトの駐車場に止められているのはトラックではなく、およそこんな廃工場には似つかわしくない派手に飾り立てられたワンボックスカーだった。
ボディには様々な衣装のカッティングシートがべたべた貼りつけられ、おそらく車内にもネオン管かなにかがあるのだろう――今はエンジンが止まって電源が落ちているために、実際に動いている様子は確認出来ないが。
S2Rのライダーは駐車場の入口の脇にオートバイを止めると、クラッチを切ったままギアを一足まで落してからスタンドを下ろし、クラッチスイッチの安全装置を使ってエンジンを切った。
S2Rの空冷エンジンブロックが、特有のきんきんという音を奏で始める。それを無視して、彼は周囲に視線を向けた。
フルフェイスのヘルメットを脱いでミラーに引っ掛け、メインスイッチからキーを引き抜く――どうせ盗む者もここにはいまいということか、ハンドルロックはかけていない様だ。
月明かりに目を細めながら、彼は周りを見回した。
ヘルメットを脱いであらわになった素顔は、外国人の若者だった。年齢は二十になるかならずか、だが妙に老獪な雰囲気も感じさせる。
今は酷薄さを感じさせる虎の様な眼は、油断無く周囲に視線を這わせている――両足に均等に体重をかけてあらゆる方向への跳躍を可能にする立ち方も、明らかに訓練された名残を残していた。
足を踏み替えた拍子に、両足を鎧う脚甲の装甲板がこすれて音を立てた――男は黒いコートの下に、前時代的と言ってもいい金属製の重装甲冑を身に着けている。特異なのはコートの袖の上から手甲を身につけていることで、手甲の装甲板から直角に
関節の可動域を確保するためなのか比較的遊びが多く、上半身はその上から現代戦で使う様なポリエステルメッシュにポケットがいくつもついたベストを着て、さらにその上から二本の幅の広いベルトを交叉させる様にして襷掛けにしている。ベルトには筒状のケースがついていて、無数の弾薬が差し込まれていた。
歩くたびに装甲板同士がこすれあって、きいきいと軋む様な音を立てる――彼はそれをさして気にせずに、朽ちるに任せた廃倉庫の入り口まで歩みを進めた。
もとはその倉庫の入り口脇にかかっていたであろう看板は金具が腐り落ちて、伸び放題の草の上に半ば埋もれる様にして転がっている。
株式会社篠原工業製作所――長年風雨に晒されてぼろぼろに色褪せた看板を一瞥し、彼はその倉庫の入り口の横に止まっているシボレー・アストロに視線を向けた。
そこらじゅうにファイヤーパターンのステッカーをべたべたに貼りつけた、フルエアロ――ところでフルエアロって、なにがフルなのだろう――のアストロだ。
フロントシールドから中を覗き込むと、後部座席は取りはずされてムートンが敷かれ、ネオン管や巨大なスピーカーでなかなか素敵に悪趣味なカスタムがなされている。
フロントシールドから覗いた限り、アストロの後部に敷かれたムートンはくしゃくしゃになっていた――まるでその上で誰かが散々暴れたとでもいう様に。
さもくだらないものを見たと言いたげに盛大に鼻で笑い、彼は車から視線をはずして倉庫を見遣った――雲の切れ目から漏れてくる弱々しい月明かりが水垢で曇りに曇った天窓から差し込んで、もとは製材所の倉庫だったその廃倉庫の中を薄暗く照らし出している。
そこらじゅうに錆びて朽ちたひっくり返った棚や遺棄された工作機械、ぼろぼろに錆ついたフォークリフト――の残骸――や青い三菱の中型トラック――これも残骸――が放置されているせいで、たとえその明かりがあってもろくに見通しも立たなかったが。
彼は腰回りにつけたポーチのひとつから小型のフォールディングナイフを取り出すと、手首ごと回転させる様にして刃を起こした。逆手に握ったナイフの鋒を、アストロの運転席側のフロントタイヤのサイドウォールに突き立てる。
ブシューと音を立てて内部に充填されていた空気が噴き出し、伸び放題の雑草が煽られてゆらゆらと揺れた。
ナイフの刃は起こしたまま、彼はそのまま車体側面に沿って歩き、リアタイヤのサイドウォールにも同じ様にナイフを突き刺そうとしかけて――止める。
「……ふむ」 落ち着き払った声でそんなつぶやきを漏らし、男は顎に手を遣った。
「タイヤを二本やると、あとの撤去が面倒になるか」 まあ、あいつは俺に文句を言ったりはしないだろうが――と独りごちて、それでリアタイヤを破るのはやめにしたらしい。
フロントタイヤの一方を破られて支えを失い急速に傾いていくアストロを見遣って、彼はそれで興味を失ったのかアストロと反対側に止まった三菱デリカに視線を向けた。
まあ、奴らは逃げるとなったら、車になんぞ乗るより走って逃げるだろうがな――意味不明のことをつぶやいて、彼はデリカのフロントタイヤのサイドウォールにも同様にフォールディングナイフの鋒を突き立てた。韓国製の安物のタイヤが呆気無く破れ、デリカの車体が傾いていく。
アストロの向こう側に止められたハイエースのフロントタイヤも同様に一本破ってから、彼はナイフのグリップに設けられたサイドボタンを押し込んだ。その状態で今度は手首を逆に振ってナイフの刃をグリップに戻し、フォールディングナイフをポーチに納めてから、彼は廃工場の中に足を踏み入れようと――しかけたところで足を止めた。
彼は甲冑の上から身につけたポリエステルメッシュの
「俺だ。始める」
手短な
カツン。
頑強なブーツの踵に仕込まれた金属が、小さな音を立てた。
†
「――、――ッ」 くぐもったうめき声が、寂れた倉庫の中で弱々しく響いている。ばたばたと――まるで抵抗し暴れる様な騒音。
見遣れば、そこには歳も背格好もばらばらの若い女性が八人。埃だらけの汚らしい床の上に膝を突かされ、両腕と肩を押さえつけられている。
金髪に青い髪、メッシュ――様々に髪を染めた風体の悪い若い男たちが十数人、それぞれひとりに対してふたりがかりで彼女たちを抑えつけている。
ベージュ色のスーツを着たOL風の二十代半ばの若い女性、都内の某有名女子校の制服を着た少女、明るい色に髪を染めたセーラー服姿の中学生、ランドセルを背負ったままの小学生まで、その面子は様々だ。
なぜ皆が皆くぐもった声しかあげられないのかというと、彼女たちの口に噛まされた猿轡のせいだった。
彼女たちに共通していることはひとつだけ、彼女たち全員が恐怖に染まった眼差しで眼前の何者かを――否なにかを見つめている、ということ。
彼女たちの視線の先にいるのは、ひとりの男だった。
歳の頃は二十代後半か。不摂生が祟って青白い不健康な肌の色、不精髭は伸び放題で、病的なまでに痩せている。だがその瞳は暗闇の中でもわかるほどに、爛々と紅く輝いていた。
にやにやと――女性たちの恐怖を楽しむかの様に薄ら笑いを浮かべながら、その男は彼女たちを見下ろしている。だが真に彼女たちを心胆寒からしめたのは、男が腰を下ろしている山のごとき屍であった。
大人もいれば子供もいる――総じて年代は十代前半から二十代半ばほどか。性別が女性であること、それ以外にはなんの共通点も無い無数の屍が山の様にうず高く積み上げられ、その頂に男は腰を下ろしているのである。
異常なのはその屍。山のごとく積み上げられたその屍の、仲間たちの下敷きになっている者たちの亡骸にはいったいいかほど長く放置されたものか、うっすらと埃が積もっている。
だというのに、その屍。
明らかに死後数日、下手をすれば数十日が経過しているというのに、彼らの――あるいは彼女らの屍には、些かも腐り朽ちる様子が無い。
たとえばその屍の山の中ほど、二十代半ばの若い女。もとは艶やかであっただろう黒髪は、今や埃で真っ白になっている。
別の死体の上に積まれている者の頭がはみ出しているために仰向けになった頭ががくりと仰け反って、顔が女性たちのほうを向いている。その肌にもうっすらと埃が積もっているというのに、女性の亡骸はまるで傷んだ様子が見えない。否、屍の山の下から突き出した左足でさえもが、紫斑も無ければ干からびている様にも見えない。
積み上げられた亡骸の内の何体かは、彼女たちのほうに顔が向いていて――断末魔の恐怖からかかっと見開かれた眼が、彼女たちに虚ろな視線を注いでいた。その表情はまるで、『早く仲間に入りなさい』と彼女たちに呼び掛けているかの様で――
さらに言うならば、彼女たちを戦慄させているのは屍ともども彼女たちに注がれている虚ろな視線であろう。
普通ならば、見知らぬ男たちに連れ去られた女性が最初に感じる脅威は、おそらく女性としての身の危険であろう。
だが、なんとか拘束から逃れようともがく彼女たちを抑えつけている若い男たち。
彼らの風体もまた、異常だった。外見でどうこうというものではないのだが――雰囲気がおかしい。
彼女たちをこの廃倉庫の外に駐車された車を使ってここまで拉致してきたのは、この男たちだった――目的はわからない。だが、集団で男が女を拉致するのなら、その目的はひとつだろう。
だが、彼らはここに彼女たちを連れてきただけだった。帰宅の途についていた彼女が横断歩道で足を止めたそのとき、彼らは赤信号で停車していた車の中からいきなり飛び出してくるなり、物も言わずに彼女を車の中へと引きずり込んだのである。
彼らは抵抗して暴れる彼女を万力の様な力で無理矢理に抑えつけ、あとは赤信号を無視して車を発進させると、そのまま脇目も振らずにここへと連れてきた。
ずっと口を塞がれていたために酸素不足で体力の落ちた彼女の手足を縛り上げ、口に猿轡を噛ますその間、彼らは抵抗出来ない彼女に触ろうともしなかった――そして、それこそが彼女が彼らを異常だと感じた理由でもあった。
彼らは、彼女を暴行したがっていたのである――彼らは拘束された彼女の姿態を見て明らかに獣欲を滾らせていた。しかしまるで檻の中に拘束された獣が獲物を目の前にしながらも檻に阻まれて手を出せずに苛立つ様に、彼らは必要以上に彼女たちに手出しをしようともしないまま、ただ野獣の様な眼差しで彼女の体を視線で舐め回していたのだ。
まるで最初から、縛り上げて動きを封じる以外の目的では彼女に一切触れるなと、そう命令されてでもいたかの様に――
姿もまた異様だった――瞳がまるで血の様に紅い。紅い――そして目の前に立っている男と同様に、薄暗がりの中で紅く輝いている。
そして男たちの向こう側にいる、十数人の人影。彼女たちを拘束する男たち、その周りを囲む様にして幽鬼の様に立っている、年も背格好も服装もばらばらの数十人の男女。
彼らの様子は、いま彼女たちを押さえつけている男たちに輪をかけて異常だった。
その視線には、性欲やそれに類するたぐいのものがまるで感じ取れない。
より間近で見れば、彼らの姿が見るからに異様であることもわかるだろう――いずれも肌は黒ずんでところどころに紫斑が浮かび、皮膚が腐り落ちたかの様に剥がれて筋肉が剥き出しになっている。
皆一様にいかなる感情もこもっていない硝子玉の様なうつろな瞳で、彼女たちに視線を注いでいる。否、違うか――彼らもまた、欲望にギラギラと輝く視線を彼女たちに注いでいる。
最初それをうつろだと感じたのは、きっとそれがおよそ彼女の思考ではありえない欲望だったからだろう――全身を細かく痙攣させ、膨れ上がった欲求を手出しすることかなわぬ相手に向けている彼らの欲情の正体は、食欲だった。飢えた獣の様なうなり声をあげ、口の端から涎を垂らしながら、彼らは彼女たちを見据えている。
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