第7話 ティターニア

 親娘がスクリーヴズビーの館に招き入れられて以来、チャールズは一度もクリスティーナを打ち負かしたことがない。


 否、チャールズだけではない。


 父ダイモーク卿すら、よいところまで追い詰めることはできても、それが精一杯だった。


(どこへ行く?)


 そういえば、彼ら父子がかかってもまるで歯が立たないあの娘クリスティーナは、彼らとの稽古以外の時間に一体何をしているのだろう?


(何か、特別な鍛錬を……?)


 今までは何か特別な指導を彼女の父親から受けているのではないか、と漠然と考えていたが、そういえばそうした場面に出くわしたことがない。


 気になる。

 居ても立っても居られない。いたずら心が頭をもたげる。


 これが常なら、家庭教師の授業やら何やらあって気に留めるくらいしかできないのだが、今日に限ってはそれもない。


 領主の総領あととり息子として、領地の森に無断で立ち入ろうとする者には咎め立てをせねばならん、などと勿体ぶった理由もこじつけた。

 屋内を通っては召使達に見られるし、何より追いつかない。


 チャールズは窓を開け、すぐ近くまで張っているイングリッシュ・オークの太い枝に飛び付いた。


 少年特有の無鉄砲な勇気と度胸、それを可能とする身の軽さ。

 もっと幼かったり、あるいはもっと歳を重ねて体が重くなっていたりしたら、こうはいかなかっただろう。


 滑るように枝から幹を伝って地面に降り立ったチャールズは、クリスティーナを追って森へと分け入った。


 先行する彼女の姿はもう見えなくなっていたが、一本道である。いずれ追いつけるものと、楽観していたチャールズは足を速めた。


 クリスティーナの歩く速度とチャールズのほとんど駆け足の速度、二人の間の時間的距離など兼ね合わせて考えると、そろそろその後ろ姿でも見えてきていいはずの頃、ようやくチャールズはあせりを覚え始めた。


(おかしい? そろそろ追いついてもいいはずなのに……道を外れたのかな?)


 見失った、しくじった、という思いがあせりを生んだ。


 実際は、別に何の害があるわけでもなく、知人を見かけて追いかけてみたけど見失った、という程度のことだ。


 そこであきらめて引き返せばよかったのだが、あせりは視野を狭め、判断の過ちを呼び寄せる。


 チャールズは路を外れて森の中へと当てずっぽうに分け入った。


 そして、迷った。


 空を雲が覆い、森は薄暗く見通しが悪化した。


 生まれた時からその傍に在った庭の様な森だから、というのは油断と過信でしかなく、若さゆえの盲目的な無鉄砲さでもあった。


 しょせん十代前半の子供なのだ。だが、剥き出しの自然にとっては、そのような人の子の未熟など無関係だ。


 ダイモークの惣領あととりとしての矜持を、自然の暴力への不安が上回り眦に涙がにじんだ。


 ガサッ!


 背後の葉擦れの音に振り返ると、そこには茂みから半身を覗かせた黒い狼の姿があった。


 チャールズの方が風上であったため、狼の発する獣臭さに気が付くことができなかった。逆に、匂いを捉えたうえであえて対峙して来たとなるとこの狼は……。


 以前、父や村人たちとともに狼狩りに参加したことがあった。

 といっても、ダイモークの嫡子として後学のためであり、ただ安全なところで大人たちに守られながら狩の様子を見物していただけであって、多分に娯楽気分で見ていたものだ。


 だが今、狩られるのは自分の方だ。 


 嫌な汗が泉の様に噴き出す。

 心臓がでたらめなドラムロールを奏で、指先が冷えた。


 野生の、人とは異なることわりを宿した双眸から目を離せない。少しでも視線を外せば、その途端に襲いかかってくる。その確信だけがあった。


 狼の発する低い唸り声が一瞬途切れた。


 来る! 


 


「ダイモークの跡取りは、ずいぶんと間抜けなんだな」

 彼女の声をまともに聞いたのはこれが初めてではないか?


 チャールズと対峙していた狼を、少し離れた樹上から印字打ち(投石)で怯ませたのはクリスティーナだった。

 彼女を見たチャールズは、ハッとして慌てて手近な樹を目指して駆け出した。

 追いかけようとする狼を、クリスティーナが投石で牽制する。

 チャールズは無事に樹上へと逃れられた。屋敷から抜け出す際もそうだったが、チャールズは木登りが得意であった。


 狼はしばらく低い唸り声で威嚇しながら幹の周囲を回っていたが、やがて諦めて振り返り振り返りしつつ茂みへと消えていった。


 狼が去った後も、しばらくは生きた心地のしなかったチャールズであったが、クリスティーナが地面へ降り立ったのを見て安全を確信し、やっと全身の緊張を解くことができた。


 彼女へ礼を告げようと、彼も急いで樹を降りて駆け寄ろうとしたとき、呆れたような声音で彼女が発したのが先ほどの言葉だった。


 ダイモークの跡取りは、ずいぶんと間抜けなんだな。


 言われたチャールズは、思考が停止した。


 続けざま追い打ちがかかる。

「丸腰で森に入って野生の獣と決闘しようとするなんてね。大した思い上がりだ」


 頭の働きが追いつくと、今度は怒りのあまり口が回らなくなる。

「な、なっ……」

 かろうじて、ここで逆上しても余計にみっともないだけだ、と思い至る。


 何も言わず立ち去るべきだ。

 やっとのことで自分を制し、なんとか体面を取り繕うために真情の籠らぬおざなりな感謝の会釈を一つ。


 そして、急ぎ足でその場を立ち去ろうとするチャールズに、ふたたびクリスティーナが声をかける。


「そっちは屋敷と反対方向だけど、まだ散歩をするつもり?」

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