25話  対面

「ほんとに狭いですからね」

「気にしないって言ってるじゃない」

「いや、ほんと、後藤さんが想像してる以上に狭い部屋だと思うので」

「いいから、いいから」


 食事を終え、電車で自宅の最寄り駅までやってきた。

 改札を出たあたりで、急に緊張が高まってくるのを感じた。胃のあたりがひんやりとするような感覚。それと、心拍も早まっているのが自分で分かった。


「あ、すごい、映画館がある!」

「ああ……随分前からありますよ」

「よく行くの?」

「いや、あんまり」

「ふうん……近くにあっても行かないものなのね」

「後藤さんは映画好きなんですか?」

「いや、別に」

「あ、そうですか……」


 じゃあ、今の一連の話の流れはなんだったのだろうか。映画館に過剰反応するものだから、てっきり三島のように映画が好きなのかと思った。

 後藤さんはきょろきょろと駅の周辺を見回しながら俺についてきていた。そして、すぐに少し離れたところにあるコンビニに視線を留めた。


「あ、そういえば、その吉田くんの家にいる子って、今日の夜ごはんどうしてたの? お腹すかせてるんじゃない?」

「ああ、いや……」


 俺は首を横に振って、左手を猫の手の形、そして右手を包丁を握る形にした。


「あいつ料理するんで。多分今日も何か適当に作ってると思いますよ」


 そう言うと、後藤さんは含みのある表情で頷いて、俺を横目で見た。


「……嫁自慢?」

「ち、違いますって!」

「あはは、冗談」


 後藤さんは可笑しそうに笑って、コンビニに向けて足を進めた。


「何か買うんですか?」

「お土産くらい買って行かないとね」

「いや、いらないでしょ……」

「それを決めるのは吉田君じゃないよねぇ」


 後藤さんはくすくすと肩を揺らしながらコンビニに入っていく。後藤さんから土産をもらって喜ぶ沙優の姿が全く想像できない。逆に、困ったような笑顔を浮かべて俺にちらちらと視線を送ってくる様子の方が安易に想像できた。

 遅れてコンビニに入っていくと、後藤さんはスイーツ売り場の前で、棚を眺めていた。俺の方を見ずに、後藤さんが訊ねてくる。


「その子、甘いものは好き?」

「……どうだろう、嫌いではないと思いますけど」


 俺が買って帰ったプリンを食べていた記憶はある。甘いものが嫌いならプリンはさすがに食べないだろう。


「じゃあ、クリーム系とか買って行ったら喜ぶかなぁ」

「さぁ……」

「それともアイスの方が良かったり?」

「どうでしょうね」


 後藤さんは急に俺の方にちらりと視線をやった。急に目が合って、少しどきりとする。


「その子のこと、なんにも知らないのね」


 後藤さんはにこりと笑って、なんでもないことのように、そう言った。


「じゃあ、エクレアとか、アイスとか、スナック菓子とか! いろいろ買ってっちゃおうかな~。どれか当たれば私の勝ちでしょ」

「そんなに買って行かなくても……」

「いやいや、お邪魔するんだから、嬉しいお土産くらい持って行かないとダメでしょう」


 後藤さんは楽しそうにそう言って、手に持ったかごの中に次々とスイーツやらお菓子やらを入れていった。

 最初から俺の意見など聞いていなかったようだ。いや、もしくは。

 先刻の後藤さんの言葉が胸に浮かんだ。


『なんにも知らないのね』


 まったく参考にならない、と判断されたのかもしれない。

 思えば、沙優がどんなものを好んで、逆にどんなものを嫌うのか。そういうことを、俺はあまり知らないような気がする。


「吉田君は何か買わないの?」


 後藤さんに声をかけられて、はっとする。気付くとすぐ隣に彼女が立っていた。かごにはたくさんの商品が入っている。


「あ、ああ……俺もコーヒー買おうかな」


 考え事をしていたのをごまかすように頷いて、俺は飲料売り場に足を向けた。適当に、牛乳と砂糖の入ったコーヒー飲料を手に取ると、後藤さんにそれを横からひったくられる。


「え、なんですか」

「奢ったげる」

「いや、いいですよ、そんな」


 俺の言葉を遮って、後藤さんはぐいと俺に顔を近づけた。急速な物理的な距離感の変化に、俺は二の句が継げなくなった。


「お邪魔するわけだし、そのお礼。分かった?」

「あ、はい……」


 こくこくと小刻みに首を縦に振ると、後藤さんはにこりと笑ってレジへ歩いて行った。

 その後ろ姿を見て、自然とため息が出た。

 本当に、こっちのペースを一切考えてくれない人だ。





 買い物を終えて、家への道をゆっくりと歩いた。

 一人だとさっさと歩いてしまうが、後藤さんはヒールを履いている。彼女の歩幅に合わせてやらないと、きっと疲れさせてしまう。

 普段一人で歩く道を誰かと二人で歩いているのも、夜の道に後藤さんのヒールのコツコツと鳴る音が大きく響くのも、妙に新鮮な気分だった。


「ねえ、名前は?」


 唐突に後藤さんが口を開いた。


「え?」

「その子の名前。なんて言うの?」

「ああ……」


 沙優のことだろう。

 勝手に名前を言ってよいものかと逡巡したが、どうせここで言わなくても後で本人に訊くだろう。


「沙優、っていいます」

「さゆちゃん。いい響きね」


 後藤さんは頷いて、口元を綻ばせた。そして、さらりと続けて俺に問うた。


「で、名字は?」

「名字は、どうだったかな……学生証見せてもらった時にちらっと見た気がするけど、あまり気にしてなかったので」


 俺が答えると、後藤さんが急に吹き出した。

 何かと思って彼女を見ると、おちょくるような顔でこちらを見ていた。


「昔からの近所付き合いがある子なのに、名字は知らないなんて。不思議なこともあるものね」


 そう言う後藤さんに、俺は口をぱくぱくさせて、何も返事ができなかった。

 完全に、カマをかけられてしまった。

 ファミレスでの一連の会話の時。俺は沙優との関係性についてのみ、後藤さんに嘘をついた。しかし、目が泳がないように細心の注意をはらいながらであったし、彼女も特に追究してこなかったため、ごまかせているものだと勝手に思い込んでいた。

 しかし、こういったカマかけをされたということは、しっかり疑われていたということなのだろう。

 横目で後藤さんを見るが、彼女は依然として少し上機嫌な様子でかつかつとヒールを鳴らしていた。

 訊いておいて、俺が沙優の名字をきちんと把握していないことについて追及するつもりはないようだった。

 いつも余裕のある笑みをたたえて、何を考えているか分からない。そのミステリアスさが彼女の魅力であったが、今はその様子がとても不気味に俺の目に映った。




「…………やっぱちょっと待ってもらってもいいですかね」

「ん? どうして?」


 部屋の前について、鍵を回したところで急に臆病風が吹いた。


「いや、部屋の掃除してなかったなと思って」

「え? 家事はさゆちゃんがやってくれてるんじゃなかったの?」

「いや、まあ、そうなんですけど、もしかしたらまだ掃除しそこねてるところがあるかもしれないし」

「往生際が悪いわよ、吉田君」


 にこりと笑みを浮かべて、後藤さんがドアノブに手をかけた。慌てて扉を抑えると、さらに後藤さんがわざとらしい笑みを顔に貼り付けた。それはもう、にっこりと。そして、両手でドアノブを掴んで思い切りこじ開ける。そこまでされるのは予想外で、片手でドアを抑えていた俺は力負けしてドアから手を離してしまった。すごい勢いで玄関が開いて、中を見ると、口をぽかんと開けた沙優が廊下に立っていた。沙優は俺と後藤さんを交互に見た後に、無言で首を傾げた。


「た、ただいま……」


 俺がそう言うと、沙優はようやく苦笑いを浮かべて、息を吐いた。


「おかえり……」


 横を見ると、後藤さんだけはにこにこと楽しそうに笑っていた。


「こんばんは、さゆちゃん。後藤です」


 後藤さんは沙優をじっと見ながらそう言って、片手に持ったビニール袋を持ち上げた。


「とりあえず、おやつ食べる?」


 沙優は曖昧に笑ってから、俺の方に視線をやった。

 ほら、だから、こうなると思ったんだって。

 沙優の浮かべた表情は、俺の想像していたものとほとんど違わないものだった。

 後藤さんは、沙優の視線を追うように俺を横目で見て、そしてにこりと笑った。


「私、いつまでここに立ってればいいのかな」

「ああ、すみません! どうぞどうぞ……」


 俺も沙優と同じように曖昧な表情で彼女を玄関に通して、家の扉を閉めた。

 背中を冷たい汗が伝っていくのを感じる。

 この後、後藤さんが沙優に何を言うのか、必死で想像してみたが、俺の頭ではまったくまともな想像をすることができなかった。


「甘い物好き?」

「あ、好きです……」


 相変わらず自分のペースでにこにことしている後藤さんと、たじたじと小声でうろたえている沙優を後ろから見比べて、自然と、ため息が漏れた。






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