14話 下着
ぼんやりと目を開けると、目の前に下着姿の女の子がいた。
日の光を淡く反射させる、すこし白い肌に、薄ピンク色の可愛らしい下着。胸はかなり大きめで、ブラジャーにぎゅっと詰まるような重量感が見て取れた。その重量感とは対照的に、きゅっと腰は引き締まり、その下のお尻は愛らしい丸みを帯びていた。
なぜ、俺の部屋に下着姿の女の子が。
そんなことを考えると同時に、これは夢なのだと理解した。
起きたら巨乳でスタイルもいい女の子が下着姿で家にいた、などという話は都合の良い展開の深夜アニメくらいでしか見たことがない。
夢ならば、別にじっくりと目の前の女の子を観察しても許されるだろう。それを咎める人は誰もいないのだから。
目の前の女の子はもぞもぞと動いて床にある『制服』らしきものを拾う。その際、太腿の肉と、胸部の肉がぷるりと震えた。その光景は、なかなかそそるものがあった。
ふと、俺の視線に気付いたように、女の子がこちらを振り返った。
やばい、と一瞬思ったが、すぐに思いなおす。
これは夢なのだ。堂々としていればいい。
女の子は、一瞬顔を赤くした後に、苦笑して口を開いた。
「吉田さん。起きてるなら黙ってないで言ってよ」
「……あ?」
聞いたことのある声だった。
「あ? じゃないよ。ガン見じゃん」
「んん……?」
徐々に、意識が覚醒してきた。
目の前の女の子を俺は知っている。
「ああ……なんだ、沙優か」
「え、なに、誰だと思ってたわけ」
「いや……夢かと思ってた」
俺はベッドの上で身体を起こして、目をこすった。
沙優は手に持った制服で上半身だけを隠しながら、すんと鼻を鳴らした。
「夢だったらあたしの身体ガン見しちゃうわけ」
「だからお前だとは知らなかったっつの」
欠伸をして、置き時計を見た。時刻は午前の10時を少し過ぎたくらいだった。まあ、休日の俺にしては早く起きたほうだ。
「でもさ、ガン見してたってことは結構好みの身体だったってことなんじゃないの」
「ぼんやりしてただけだ。いいから服着ろよ」
俺が投げやりに言うと、沙優はむっとしたように頬を膨らませて、制服をずぼっと頭からかぶるように着た。依然としてパンツは俺の前に晒されたままだ。
「女子高生の下着見られてラッキー! とか、普通それくらい思うでしょ」
「朝イチで見たくもねぇガキの下着見せられるこっちの気にもなれ」
俺の言葉についに、沙優のパンチが飛んできた。
「インポ!」
「おい! 言っていいことと悪いことがだな!」
「下着見といて『ごめん』も『ありがとう』もない方が最低だから!」
「ありがとうってなんだよ!」
起きて早々に始まる掴み合いにげんなりする。
しかし。
まあ、なんだ。
着やせするタイプなんだな、とは、ぼんやりと思った。
「ほんっとありえないわ吉田さん」
「寝ぼけてたんだって。というかあんなところで着替えてる方も悪いだろ」
「いつもあんな時間に起きないじゃん」
拗ねたようにツンとした態度をとる沙優だが、朝食はしっかりと二人分用意してくれた。
俺は卵焼きの黄身を割りながら苦笑する。
いや、確かに第一声で「ごめん」と言わなかったのは悪かったと思う。しかし、寝起きの鈍い頭でそのあたりの気回しをすぐにやれと言われても難しいとは思わないか。俺にそこまでの機転を期待されても困る。
「ほんとに年上のボインのお姉さんにしか興味ないんだね」
「だから何度もそう言ってるだろ。変な気起こさないから安心しろって」
「その辺は信用してるけど、なんかムカつくんだよなぁ」
沙優はむくれながら、かつかつと白米を頬張った。
何をムカつくことがあるのだ。同居人の男が自分に一切の性的関心を持っていないことは、普通に考えて『安全』で良いことのように思うのだが。
やはり女子高生の思考にはついてゆけない。
首を傾げつつ、味噌汁をずずと啜る。
「美味ぇ……」
小声で言うと、沙優がちらりとこちらに視線をやった。
「ほんと?」
「これくらいのしょっぱさ好きだわ」
ぱぁ、と沙優の表情が明るくなる。
分かりやすいやつ。
「じゃあ明日からもこれくらいで作る!」
「そうしてくれ」
沙優はふんふんと鼻歌を歌いつつ、自分も味噌汁をすすって、うんうんと頷いた。
気分の変化のスピードが山の上の天気並みだ。コロコロと表情が変わるのは可愛らしくもあるが、機嫌が急に良くなったり悪くなったりするのは少し疲れる。
まあ、寝起きの件に関しては、八割がた俺が悪かったと思う。
興味がないとはいえ、華の女子高生の下着姿をばっちりと見てしまったのだ。
と、そこまで考えて、俺はある疑問に行き当たった。
「そういや、お前下着って大丈夫なのか?」
「ぬ」
俺の問いに、沙優は眉根を寄せて、首を傾げた。
「大丈夫ってなにさ」
「いや、足りてんのかなって。服とか制服一着しか持ってなかっただろ。下着は何日も着まわすわけにはいかないし」
ここまで言うと、ようやく沙優も意味を理解したようで、くつくつと肩を揺らした。
「さすがに、下着は数日分は持ってきてるよ」
「そうか……なら良かった」
「それに、旅に出てから何着か増えたしね」
沙優のその言葉に、俺はぴくりと反応する。
「それって、どういう意味だ」
「んー……買ってくれる人とか、いたからさ」
沙優はあっけらかんとそう言ったが、対して俺の表情は曇った。
「……それ、今でも使ってるのか」
「うん、そりゃね。あっても困らないでしょ。……あ、でも」
沙優はそこで言葉を区切って、ぽりぽりと首の後ろ辺りを掻いた。
にへらと困ったように笑って、言葉を続ける。
「一着だけ、使ってないのはあるけど」
「なんでだよ」
「あー」
沙優は少し頬を染めて、ぽつりとつぶやいた。
「こう……普段使いの下着としてはね、あんまり機能的でないというか」
「……それは、最初から穴があいてるとかそういうやつか」
「……そういうやつです」
俺はおもむろに溜め息をつく。
別に、沙優は俺の恋人でもなんでもないし、彼女の持ち物にあれこれと口を出す権利がないのは分かっているのだが。
沙優のことを安易に、便利に、そして性的に利用した男が彼女に持たせた持ち物というだけで強烈な嫌悪感を感じた。
「捨てろよ、そんなの」
「うん、でも……もらったものだし」
「捨てろ!! 捨てないと……」
追い出すぞ、と言いかけて、俺は慌ててぐっと言葉を飲み込んだ。
沙優を見ると、彼女は驚いたようにこちらをじっと見ていた。
「すまん……つい熱くなった。気にするな」
「捨てないと、嫌いになっちゃう?」
沙優が、小さく首を傾げて、俺を見た。
俺は、首を横に振る。
「嫌いにはならない。好きにしていい」
「でも」
沙優は目を細めて、小さな声で、俺に訊ねた。
「持ってたら、吉田さんは、嫌?」
その問いに、俺は下唇を噛んだ。胸の中にドロドロと渦巻く悪感情が、出口を求めている。言わなくて良い、という気持ちと、言ってしまいたいという気持ちが、葛藤していた。
別に、構わないのだ。本人の好きにすれば。
彼女の選択や行動に、俺の意思が入り込む余地などない。俺は、彼女を自分の都合の良い存在に作り上げる気など毛頭ない。
いてくれるだけでいい。それ以上は望まない。そう決めたのだ。
だというのに。
「……ああ、嫌だよ。ものすごく」
俺は、情けなく、喉の奥にこもるような声で、そう言った。
「じゃあ、捨てるよ」
沙優はすぐにそう言って、にこりと笑った。
その笑顔に、俺の胸は締め付けられる。
「いいんだ。俺の意見を聞く必要はない。沙優の好きに……」
「吉田さんが嫌なら、捨てる」
沙優は俺の言葉を遮って、微笑んだ。
「今の生活のすべては、吉田さんがいてくれるから成り立ってるんだよ。だから」
「そんなことは、気にしなくていい。好きに生きればいい」
「あたし、吉田さんに気を遣ってるわけじゃないよ」
沙優があまりにもはっきりと言うものだから、俺は顔を上げて彼女の顔を見てしまう。視線の先にいたのは、いつもの緩んだ笑顔ではなく、柔らかな笑顔を浮かべた沙優だった。
「吉田さんが、つらそうな顔するから。だから、あたしもあれを捨てたくなったの」
「それって結局気を遣ってるってことじゃねえのか」
「全然違うよ。あたしがしたいから、するの」
そう言って沙優はおもむろに立ち上がり、自分の衣服の入ったバッグを漁った。そして、数着の上下の下着を取り出して、ゴミ箱に叩き込んだ。
「はー、すっきり」
沙優はにこりと笑って、俺を見た。
「吉田さんも、すっきり?」
その純粋な微笑みに、俺はなんとも言えない気分になる。ただ、彼女がなんの迷いもなく下着をゴミ箱に入れる姿は、少し痛快だった。
おそらく、これを沙優にプレゼントした男たちは、もうとっくに沙優のことなど忘れてしまっているのだろう。だが、沙優は違う。きっと、これを着けるたびに、その男たちのことを思い出すのだ。
俺は、ぐっと唇を噛んで。
そして、スッと鼻から息を吸って、沙優を見た。
精一杯の笑顔を作る。
「ああ、すっきりしたよ」
「そか、良かった良かった」
沙優は頷いて、テーブルの前に座りなおした。
やはり、気を遣わせてしまったのだと思う。
沙優は他人の顔色には非常に敏感だ。同居人とわだかまりを残したままでは今後がやりにくいのは当然のことだ。
彼女の行動の選択肢を狭めるようなことはしたくないと、思っていたのに。どうも、ここに来る前の彼女の宿泊先がちらつくたびに、俺の心はささくれ立った。
自分の狭量さに、嫌気がさす。
「味噌汁、冷めちゃうよ」
沙優に言われて、意識が一気に食事に戻ってくる。
「なんて顔してんの、吉田さん」
沙優はくすりと笑って、言った。
「気遣いすぎなのはさ、吉田さんの方なんじゃないの」
沙優はウィンナーを箸で掴んで、自分の口に放り込んだ。
そして、俺の方に視線をやった。
「下着を捨てさせたのがそんなに気になるんだったらさ」
沙優はそこで言葉を区切った。
こくり、と唾を飲む音が、聞こえる。
「吉田さんが、買ってくれればいいじゃん」
そして、沙優は、普段なら絶対に言わないようなことを言ったのだった。
溜め息をつく。
本当に、こいつは。
「ああ、そうだな。そうしよう」
俺は苦笑して、そう答えた。
本当に、情けないと思う。
どれだけ大人ぶっても、俺の弱さは沙優には筒抜けのようだった。
俺にとって、沙優から素直に「買ってくれ」と頼まれることがいかに心地よいか、彼女はとっくに知っていたのだ。
ただ、彼女の中の『遠慮』がそれを上回っていた。
だというのに、今回は、その『遠慮』という強い感情的抑制を、彼女は俺のために乗り越えてきたのだ。
完敗だ。
「今度、新しいの買って来いよ」
俺が投げやりにそう言って味噌汁を啜ると、沙優はにへらと笑った。
「吉田さんが選んでくれる?」
「だから、見た感じ援助交際にしか見えねえから嫌だっつの」
「あはは、いいじゃん実際は違うんだからさ」
「職質受けたら俺もお前もアウトだぞ」
軽口を言い合って、普段通りの食事に戻る。
もっと、しっかりしなくては。
白米を奥歯で噛みながら、一人、思った。
俺が沙優にしてやれることはおそらくあまり多くない。だからこそ、その一つ一つを、丁寧にやってやらなくてはならない。
『根性を叩きなおす』と、そういう“名目”で彼女をここに置いているのだ。
義務は、果たさなければならない。
それが、彼女と俺を繋ぎとめる、唯一の絆のようなものだと、思った。
「新しい下着かぁ、何色がいいと思う?」
「知らん」
「黒とかどうかな。大人っぽくない?」
「素材が大人っぽくないからな」
「なにそれひっどい」
沙優がけらけらと笑うのを聞きながら、俺はふとゴミ箱を見る。
乱雑に突っ込まれた下着が、端から少しはみ出していた。
赤色の、明らかに布面積の少ない、下着。
あんなものを、沙優に。
俺は奥歯をぎりりと噛み締めた。
もし目の前にその男が現れたなら迷いなく一発殴ってやりたいところだ。
本当に、気持ちが悪い。
しかし、そう思うのと同時に、少しだけ。
その下着を身に着ける沙優を想像して……。
「ん、どしたの、吉田さん」
「ああ、いや、なんでも」
首を傾げる沙優から目を逸らして、俺は咳払いをした。
ほんの少しだけ、ぞくりとしたのだ。
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