12話 後藤愛依梨 -2-
「冗談ですよね?」
俺は、喉から絞り出したような声でそう、訊ねた。
後藤さんは、静かに首を横に振った。
「本当だよ」
「いや、だって」
俺は食い気味に言う。
「彼氏がいるって! 5年前から付き合ってるって!」
「あれね」
後藤さんは口角をきゅっと持ち上げて、言った。
「嘘なの」
「……えぇ?」
俺は脱力して、椅子に背中をつける。
「どういうことっすか……」
当然の疑問だ。
俺のことを向こうも好いていたのに、俺の告白を断った?
なぜ。
本当に、意味が分からない。
「ごめんなさいね。私、結構“カン”が鋭いほうなの」
「勘?」
「そう」
後藤さんが頷くのと同時に、店員がやってきて、ビール二つと、肉を置いて行った。
後藤さんは肉ののった皿を俺の方についと押して寄越す。
ああ、俺が焼けってことね。
俺は無言で皿を受け取り、肉用トングで次々と肉を七輪においてゆく。
「あなたに告白された時、すごく嬉しかった。その場で飛び跳ねたいくらいにね。でも」
後藤さんはじゅうじゅうと音を立てる肉を眺めながら、ぽつりと言った。
「“今日じゃないな”って思ったの」
「今日じゃない」
「そう。今首を縦に振って、付き合っても、きっと上手く行かないんじゃないかって思ったのよ」
俺は視線を彼女に向けて、問う。
「それが、後藤さんの“勘”ってやつですか」
「そういうこと。だから、はずみで嘘ついちゃって」
「彼氏がいる、と」
「そう」
俺は溜め息をついて、トングを置いた。
つまり?
後藤さんは俺のことが好きで、俺の告白も嬉しかったが。
なんだかよく分からないけど“今日じゃない”と思ったので適当に嘘をついて断った、ということか。
頭を掻く。
さっぱり、分からん。
え、お互い好きなんでしょう?
付き合えばいいじゃん。
結婚式上げるわけでもないのに、なぜ“日取り”を気にするのか分からない。
「え、つまりそれは“
俺が思わず訊いてしまうと、後藤さんは吹き出した。
「あはは、違う違う! 宝くじじゃないんだから!」
「じゃあ、どういうことっすか……さっぱり分かんないんですけど」
つぶやくように言って、肉を裏返す。
後藤さんはくすくすと笑った。
「私はね、慎重な女なの」
そう言って、後藤さんは七輪をじっと見た。
「美味しい肉には、じっくりと火を通したいタイプ」
「でも、火を通しすぎると美味しくなくなりますよ」
「でも美味しいからって柔らかいうちに食べると、お腹を壊すかもしれないでしょ」
「何度も焼いてれば見極める目が育ちます」
俺の言葉に、後藤さんはくすっと肩を跳ねさせた。
「私、そんなに何度も交際経験があるように見える?」
「見えますよ……そんだけ色気出しといて」
呆れて言うと、後藤さんは自分の口に手を当てた。
「色気出てる?」
「出てます。出まくり」
俺が答えると、後藤さんはけらけらと笑った。
「もう食べられますよ」
「あ、ほんと? いただき」
嬉しそうに箸を持って、ハツを掴む後藤さん。
もぐもぐと肉を
「んー、おいし」
「そっすか……」
俺は彼女から目を逸らしつつ、苦笑した。
ほら、だから色気が出てんだって言ってんだろ。
ぶっとばすぞ。
だんだんと、腹が立ってきた。
「じゃあつまり、俺と今付き合っても、長続きしないと思うってことですかね。まとめると」
「んー……そういうことになるのかなぁ」
「じゃあ、いつならいいんすか」
ざっくりと訊く。
もうこの人にははっきりと言葉にして訊ねないと、話が一向に進む気がしない。
訊かせたがりなのだ。自分からは絶対に核心は口にしてこない。
俺の質問に、後藤さんは小首を傾げた。
「うーん……いつとは、言えないけど」
「はぁ……」
溜め息をついた。
俺は、この人が好きだ。
間違いなく、この人を異性として好いてしまっている。
しかし、先ほどから続くこの会話は不快きわまりなかった。
死ぬほどドキドキさせられて、そのくせ、実りが一切ない。
正直に言って、遊ばれているとしか思えないのだ。
その気がないならその気がないと言ってくれればいい。
「信じられないです」
「え?」
俺が言うと、後藤さんは視線を上げて、俺をじっと見た。
「後藤さんが、俺のこと好きだって話ですよ。そうは思えない」
「そんなことない。ずっと好きだったのに」
「本当は後輩をからかって遊んでるんでしょ」
俺のその一言で、はじめて、彼女の表情が曇った。
後藤さんは、箸をおいて、真剣な表情で俺を見た。
「じゃあ、どうしたら信じてくれる?」
どきりとした。
その表情、そして、その言葉。
先ほどまでこちらの言葉を軽くいなしていた態度とは打って変わるその様子に、俺は戸惑った。
しかし。
ここでひるんではいけない。
俺は、心臓をバクバクと言わせながら、しかし、最大限に冷静さを保って。
一番のカードを切った。
「俺と、ヤれますか」
後藤さんの目を見て、はっきりと言い放った。
後藤さんは一瞬眉をぴくりと動かして、すぐに俺から目を逸らした。
じわじわと、彼女の頬が赤くなるのが、見て取れる。
沈黙が、やけに長く感じる。
俺は、沈黙の気まずさをごまかすようにビールグラスを掴んで、口をつけた。
「しょ……」
後藤さんの口が開かれる。
何かを言いかけて、止めた。
そして、再び、小さな声で言った。
「処女だけど……いいの?」
「ぶっ」
ビールを吹いてしまった。
『処女』という単語が、生々しく脳内に響いた。
そしてそれと同時に、自分がいかに愚かしい発言をしたのかを思い知った。
あまりに直接的で、礼節に欠く質問だった。
「今の、ナシにしてください」
俺が言うと、後藤さんは愕然とした表情になった。
「やっぱり処女って嫌……?」
「アー! そうじゃなくて!」
大きい声を出してしまう。
誤解されては困る。
「あまりに失礼な質問をしたなと思ったので、取り下げさせてくださいってことです」
「ああ……でも、処女は嫌?」
妙に食い下がってくるな、この人。
そこはそんなに重要なことなのだろうか。
「いやいや、そもそも後藤さんがこう……そういう感じっていうのが信じられないです」
「なによ、そういう感じって」
「いや、その……処女って」
女性の前で『処女』などと口にするのは妙に恥ずかしかった。
それに、口にした通りだ。
これだけ色気のガンガン出ている女性が、28歳まで、一度も経験がないだなどと言われても、いまいちピンとこない。
「別にいいじゃない……機会がなかっただけ」
ぷいとそっぽを向いて唇を尖らせる後藤さん。
様子を見ている限りだと、言っていることは本当のように思えた。
そして、本人はかなりそれを気にしているらしい。
「いや、本当にすみませんでした。さっきのはナシで」
「一度言った言葉はナシにならないよ」
仰る通りです。
頭を下げるしかなかった。
下げていた頭をゆっくりと上げて、後藤さんを見ると、頬を染めて床に視線を落としていた。
「お、怒ってます?」
「怒ってない、けど……」
もじもじとした様子でみじろぎをして、後藤さんがちらりとこちらに視線を寄越した。
「私、本当に、吉田くんが好きなの」
「え、あ、はい……」
「だから、吉田くんがしたいなら、その」
「ああ! いや! 本当に!」
彼女の言葉の続きを察して、俺はそれを遮った。
「さっきのはナシですって!」
「でもしたいんでしょ」
「それは……」
めっちゃしたいっす。
心の声を飲み込む。
「待ちます」
心の中で大号泣しながら、俺はそう言った。
馬鹿野郎。ここで押せばいけただろ。
夢に見た後藤さんのおっぱいを……こう……馬鹿野郎!
散々と自分を脳内で罵りながら、俺は小さく息を吐いた。
これでいい。
沙優にも言ったはずだ。
最悪、右手でいいのだ。
ただ、これ以上後藤さんに振り回されるのもごめんだった。
心臓がもたない。
「ただ、もう俺は今後一切、後藤さんに告白しません」
「え?」
俺の言葉に、後藤さんは目を丸くした。
俺は構わず、続ける。
「俺のこと、好きなんですよね」
「うん……」
「でも、今じゃないんでしょ」
「うん」
「じゃあ、その時が来たらそっちから告白してください」
俺が言うと、彼女は息を飲んだ。
俺のこの言葉は、彼女の予想の範疇を越えていたようだ。
少し、気分が良くなる。
勢いづいて、俺は続けた。
「後藤さんはなんでもかんでも、相手から言わせようとしすぎなんですよ。もうその手には乗りません」
「いや、そんなつもりは」
「そんなつもりがないなら余計にタチが悪い!」
後藤さんは頬を膨らませた。
「お、怒らなくたっていいでしょ。吉田くんこそ、本当に私のこと好きなの?」
「好きですよ! だからムカつくんです!」
妙に色っぽいところとか。いちいち挑戦的な目線を投げつけてくるところとか。
こちらに選択権を投げつけてくるくせに、選べる選択肢は一つしか用意されていないところとか。
とにかく、彼女のそういう“こちらを煽ってくる何か”がものすごく苦手で、同時にものすごく魅力的だった。
「もう、後藤さんにドキドキさせられっぱなしなのはきついっす」
俺ははっきりと言った。
「俺のこと本当に好きなら、後藤さんももっと俺に振り回されてくれないとフェアじゃない」
そこまで言って、俺はビールグラスを雑に掴んで、ぐいと煽った。
口の端から、ビールが少し垂れた。
ドン、とビールグラスを置いて。
「あぁ……」
溜め息が漏れた。
「言ってやったぜ……」
思っていたことがそのまま口に出てしまう。
ようやく、言えた。
この人に対する好意からなにから、すべてひっくるめて俺のストレスだったのだ。
好意の裏に苦手意識がひっついていて、彼女に惹かれるのと同じくらい、彼女の様々な苦手な部分が俺を苦しめた。
表裏一体のそれは、俺を甘く締め付けて、ひたすらに緊張させていた。
本人にそれをはっきり言ってやることで、明らかに胸にのしかかる重みがフッと軽くなった気がした。
後藤さんはくすっと笑って、言った。
「ずっと言いたかったの? それ」
「ええ、とても」
「5年間も?」
「そうです」
答えると、今度はけらけらと笑った。
「吉田くんって、本当に私のこと好きなんだね」
「だからそう言ってるでしょ……」
5年間もあんたが焼いた肉だぞ。
さすがに鼻につく比喩だと思って、それは口にしなかった。
「わかった。じゃあ、次は私から告白する」
「そうしてください」
「いつかは分からないけど……待ってくれる?」
そう訊かれて、すぐに「はい」と答えそうになるのを堪えた。
相手のペースに乗ってはいけない。
好意が分かったとはいえ、この人とは“闘わなければ”絶対に勝てないのだから。
「いやぁわかんないっす。もっといい人が現れるかもしれないし」
言うと、後藤さんは唇を尖らせた。
「吉田くんの私への想いってそんな程度ってこと?」
「いやいや、違いますよ」
俺はビールを一口飲んで。
「肉も焼きすぎると焦げちゃうかもよ、ってことです」
結局、臭い例えを口にしてしまった。
後藤さんは、ふふ、と笑って首を縦に振った。
「焼きすぎには注意することにしました」
そう言って、彼女もビールをぐいと煽った。
「まだ質問権一回残ってるけど、何か訊く? それとももうやめる?」
グラスをテーブルに置いてそういう後藤さん。
言外に、「もう聞きたいことは聞けたでしょ」という意味が隠しもせずに置いてあった。それが、妙に腹立たしい。
「あ、じゃあ」
もう、酔った勢いである。
俺は思い切って訊いてみることにした。
「それ、何カップなんですか」
後藤さんは、声を出して笑った。
そして、掌を口の横に添えて、内緒話をするようなポーズをとる。
小さな声で、言った。
「Iカップだよ」
Iカップって、何カップだ?
俺は指折り、数える。
それを見て、後藤さんがまた、くすくすと笑った。
電車に揺られながら、ぼーっと窓の外を眺めている。
怒涛の焼肉だった。
あの後は後藤さんの質問タイムとなり、散々、三島について訊かれた。
付き合っているのか、好きになってしまったのではないのか、などなど。
どうも、三島と急に距離が近づいたのを感じて、焦って俺を食事に誘ったということらしかった。
その
俺は、三島はただの後輩だ、と何度も言った。数えきれないほど、言った。
酔いがほどほどに回っていたせいもあってか、後藤さんは妙に三島について食い下がってきた。
本当は若い子のほうがいいんじゃないの、だとか。
三島ちゃんもスタイルいいよね、ああいうのが好きなんじゃないの、だとか。
とにかく、うるさかった。
三島については「真面目に働いてくれ」という感想しか持っていない。
そんな勘違いをされるとは微塵も思っていなかった。
しかし。
俺はふうと息を吐く。
後藤さんが、俺を好きと言った。
どうやら、本気らしい。
ここにきて、その事実を噛み締めた。
いや、ものすごく嬉しい。
信じられないほどに舞い上がっているのを感じた。
しかし、それと同時に、やはり彼女を信じきれない自分がいることにも気づいていた。
そもそも、考え方が違いすぎるのだ。
俺であれば、本当に好きな人から告白されたら喜んで首を縦に振る。
“今日じゃない”などということを言いだす人も初めて見たし、その心情は想像もつかなかった。
やはり、遊ばれているのではないか、と漠然と不安になる。
嬉しいはずなのに、なぜか気分は沈んでいった。
家に帰るころには、舞い上がっていた気分はすっかり消え失せて、後藤さんのことをぐるぐると考えながらももう彼女のことは考えたくないような気分になっていた。
「ただいま」
「お!」
鍵を開けて、家に入ると、居室にいた沙優がぴょこんと飛び跳ねるように立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
「おかえり……どしたのその顔」
「え」
「楽しくなかったの」
沙優が俺の顔を覗き込んだ。
「いや、楽しかったけど」
「えー、そういう顔してない。なんか嫌なこと言われた?」
「別に」
俺はスーツのジャケットを脱ぎながら、沙優の横を通って、居室にずんずんと入って行った。
なぜ、こう、こいつは。
人の顔色に敏感なのだろうか。
「ねえ、吉田さん」
「なんだよ」
振り返ると、沙優が両腕をこちらにぐいと伸ばして立っていた。
「ハグしてあげよっか」
「は?」
俺が顔をしかめると、沙優がポーズを変えずにずいと身体を近づけてくる。
「なんかよく分かんないけど、JKをハグすればいい気分になるんじゃないかな」
「ならねえよ、馬鹿か」
「えい」
俺の反論もよそに、沙優はひしと俺に抱きついてきた。
ぐいぐいと、頭を押し付けてくる。
何がしたいんだ、こいつは。
と、苦笑しながらも。
なんとなく、励まそうとしてくれているのは分かった。
「もういいから」
沙優の肩をぽんぽんと叩くと、沙優が顔を上げた。
「元気出た?」
「出た出た」
「まじか! 単純だなー、吉田さん」
「うるせぇな」
沙優を引きはがして、寝間着を取り出す。
「ちょいちょい!」
シャツのボタンをはずそうとしたところで、沙優が声をかけてくる。
「タバコ臭すぎてやばいから、そのままお風呂!」
「え、汲んであんのか」
「なんとなくそろそろ帰ってくる気がしてたから汲んどいた!」
「なんだお前、すげえな」
沙優はしたり顔でブイサインを作ってから、風呂場の方を指さした。
「身体洗って、浴槽浸かってさ。つまんないことは忘れちゃいなよ」
その言葉に、俺は少し胸が温かくなった。
押し付けてこない、投げっぱなしの優しさ。
そういったものが、その言葉には含まれていた。
「おう、そうするわ」
俺が頷くと、沙優は満足したように居室に戻って来て、ぺたりと床に座った。
そして、早く行けと言わんばかりに顎をくいと居室の外に向ける。
「へいへい」
替えの下着と寝間着を持って、脱衣所へ向かう。
服を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
今日ばかりは、沙優がいて良かったと思う。
一人で帰宅したなら、寝るまでひたすらに後藤さんのことがぐるぐると脳内を回って、苦しかったかもしれない。
「はぁ……なっさけねぇ」
呟いて、苦笑した。
俺はたびたび、沙優に精神を補助されているのだと。
再び思い知ってしまった。
「大の大人がよぉ……」
シャワーで身体の汗を流してから、浴槽に浸かった。
そういえば、あいつは先に風呂に入ったのだろうか。
なんとなく、そんなことを考えて、浴槽のお湯を見る。
「いや、どうでもいいだろそんなの」
一人つぶやいて、肩まで湯に入る。
気付けば、さっきまでの後藤さんについてぐるぐる回る思考は、止まっていた。
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