10話  携帯


「おい」


 俺が冷ややかな目線を向ける先には、三島。


「あ、吉田センパイ。お昼一緒に食べます?」

「ちげぇよ馬鹿。お前は一日に一度何かやらかさないと気が済まねぇのか?」


 俺が訊くと、三島は首を傾げた。

 はて? という明らかにとぼけている態度が頭に来る。

 お前が技術はしっかりあるくせに手を抜いてるやつだというのはもう知っているんだぞ。


「今すぐ直せ」

「ど、どこをですか」

「言わなくても分かってんだろ? え?」


 俺が青筋を浮かべながら詰め寄ると、三島は慌てたようにあたりを見回した。

 そして、こそりと俺の耳に口を近づけて、小さな声で話す。


「昨日も言ったじゃないですか。わたしは適度に力を抜いてですね……」


 甘っちょろいことを言っているので、俺は三島の肩に腕を回して、ぐいと顔を近づけた。

 こうすれば、こちらの声も周りにはあまり聞こえなくなる。


「いいか。昨日は飲みの場だから何も口を出さなかっただけで、お前のそのやり方を俺が肯定したわけじゃねぇ。勘違いすんな」

「そんな! じゃあわたし、キリキリ働かされちゃうんですか」

「当たり前だろ、お前以外はみんなキリキリ働いてんだよ」

「げぇ……」


 三島は露骨にげんなりとした表情を見せる。

 ふと視線を上げると、遠くのデスクの後藤さんと目が合った。

 ばっちり、目が合った。

 俺は、慌てて三島と組んでいた肩をほどいて、咳払いをする。


「とにかく、昼休憩前に直せ」

「えっ、昼休憩まであと1時間もないじゃないですか」


 口応えする三島に、俺はにこりと微笑んでやる。


「やれ」

「うえぇ……」


 やれることは分かっているのだ。だとしたらやらせる。

 本人がつぶれてしまわない程度には働いてもらわないとこちらも困るのだ。

 渋々仕事にとりかかる三島を横目に、俺も自分の席に戻ろうとする。

 が。


「吉田君! ちょっといい?」


 遠くのデスクから声がかかった。

 ぎょっとして振り返ると、声の主は、後藤さんである。


「はい?」


 自分を指さして首を傾げると、後藤さんは首をこくこくと縦に振って、手招きをした。


 え、なんですか。

 俺、なんかやらかしたか?

 冷や汗がにじみ出てくる。


 後藤さんには最近フられたという精神的な気まずさもあるが、単純に彼女は俺の上司である。

 最近は人事も掛け持ちしている後藤さんはあまり俺の仕事に口出しはしてこなくなったが、上司に突然呼び出されるというのは冷や汗ものだった。


 嫌な汗をかきながら後藤さんの席まで行くと、後藤さんはにこりと微笑んで、自分のPCのキーボードをカタカタと鳴らした。

 そして、PC画面を指さして、再び微笑んだ。

 画面を見ろ、ということか?

 彼女のその仕草をそう解釈して、俺がおそるおそる画面をのぞき込むと。


『明日、退社した後、時間ある?』


 起動されたWord文書に、そう書いてあった。


「え、明日ですか」


 俺が口に出してそう訊くと、後藤さんは「シッ」と人差し指を口の前で立てて見せた。


「後で連絡ちょうだい」


 それだけ小さな声で言って、後藤さんは何事もなかったかのように自分のPCに向き直った。


 なんだ。どういう意味だ。

 ちょっと飲みにでも行くか! という空気ではない。

 デート? いや、フられた相手に突然デートに誘われるのは意味が分からない。

 俺が棒立ちで思考を巡らせていると、後藤さんがちらりと横目で俺を見た。


「もう、行って良いよ」

「あ、はい。失礼します!」


 さっさと戻れ、と言外で言われてしまった。

 俺は踵を返して自席を目指す。

 どうあれ、明日の仕事終わりには後藤さんとどこかに行かねばならないようだ。

 嬉しいような、そうでないような、微妙な気分になる。


 自席に戻る途中、ふと視線を感じてオフィスを見回すと、三島と目が合った。

 彼女は慌てて目を逸らして、わざとらしくキーボードをカタカタと鳴らした。

 お前は野次馬してないで働け。

 心中で毒づきながらも、すぐに後藤さんに思考が支配される。

 本当に、なんの呼び出しなのだろう。

 気が気ではなかった。








「へぇ、後藤さんにご飯誘われたんだ」


 自作の肉じゃがをつつきながら、沙優が目をぱちくりとさせた。

 仕事が終わった後、電車に揺られながら後藤さんに確認のメールを送ると。


『さっきはごめんね。明日、仕事終わりに夕飯でも一緒に食べませんか』


 と、返って来たのだ。



「良かったじゃん?」

「良くねぇよ……何だこれ、何メシだよ」

「普通に、ご飯いこ? って誘いじゃないの」

「違う違う! 絶対なんかあるに決まってる」


 俺が言うと、沙優は「えー」と半笑いで受け流してきた。

 子供には分からないかもしれないが、社会人の『夕飯』や『飲み』には様々な意味合いが込められているのだ。

 例えば、昇進内定をサラッと告げられたり、もしくはその逆とか。

 入社したばかりの時は、上司に飲み屋で「あれはまずかったねぇ」とやんわりたしなめられたりしたこともあった。

 上司に飯を誘われるというのは、相当気の置けない仲になった上司でない限りは、どうあっても緊張してしまうものだ。


「まあまあ、肉じゃが食べなよ。冷めちゃうし」

「おう……いただきます」


 沙優に言われるままに、まだ湯気の上がっているできたての肉じゃがに箸をつけた。

 ほくほくの小麦色に染まったジャガイモを箸でひとつつまみ、口に入れる。


「あ、美味い」

「ほんと? やった」


 沙優は満足げに頷いて、自分も一つジャガイモを口に放り込んだ。


「んー、おいひー」

「お前結構料理上手いよな」


 俺が言うと、沙優はふにゃりと照れたように笑った。


「もっと褒めてもいいよ」

「よっ、日本一」

「適当なやつだ!」


 沙優はけらけらと笑って、肉と一緒に白米を口に入れた。


 それにしても沙優の料理は本当に美味い。

 家にいたときも、料理をしていたのだろうということが窺える。

 ……料理は、親から教えてもらったのだろうか。

 そこまで考えて、俺は頭を横にぶんぶんと振った。

 考えても仕方ないことを考えるのはやめよう。


「どしたの」

「いや、なんでも」


 沙優が首を傾げるが、俺は何事もなかったように白米を口に詰め込む。

 彼女も大して気にせずに、ぱくぱくと食事を進めていった。


「それで? 行くの」

「ん?」

「後藤さんと、ごはん」


 沙優は箸を止めて俺をじっと見た。

 俺は首を縦に振る。


「そりゃ、断れねぇよこんなの」

「なんで? 好きだから?」

「上司だからだ」


 俺の言葉に、沙優は納得できないというように口をへの字に曲げた。


「ほんとは好きだからでしょ」

「違うっつの」

「じゃあ好きじゃないわけ」

「それは……それとこれは別だよ」


 ごまかすと、沙優は鼻をスンと鳴らした。


「なんだかんだ言ってまだ好きなんだねぇ」

「……そう簡単に吹っ切れるもんじゃねえだろ。5年間も恋してたんだぞ、俺は」


 少し胸が苦しくなりながらそう言うと、沙優は「しまった」という表情をして、俺から目を逸らした。


「ごめん」

「いや、気にすんな。惨めなオッサンだと思っといていい」

「んーん」


 沙優は首を横に振った。


「吉田さん、かっこいいよ。後藤さんに彼氏がいなかったらきっとOKされてたと思う」

「はは、慰めてくれちゃって、まあ」

「ほんとだってば」


 沙優がフォローしてくれればくれるほど、どんどんみじめになってきた。

 乾いた笑いが出る。


「まあ、とにかく明日は行くよ。上司の、ましてや後藤さんの誘いとなっちゃぁ俺には断れん」

「分かった。じゃあ夕飯はいらないよね」


 沙優が頷いて、俺に訊ねた。

 そうか、昨日は三島との飲みで夕飯を作らせ損させてしまったのだ。

 夕飯がいるかいらないか、という確認も兼ねて明日後藤さんの誘いを受けるのかどうかを訊いていたんだな。

 納得して、俺は頷く。


「ああ、いらない」

「分かった」


 そこまで話して、俺はふと思い立った。


「そういや、お前携帯って持ってないのか?」

「あ、携帯ね……」


 沙優は苦笑して、首を横に振った。


「持ってない」


 さすがに、驚いた。

 小学生でもスマートフォンを持っている時代である。

 まさか華のJKが持ち歩いていないとは思いもよらなった。


「実家に置いて来たのか?」


 俺が訊くと、またもや沙優は首を横に振った。


「千葉あたりにいたときに、友達……っていうか、北海道にいたときのクラスメイトからあんまりにもしつこく電話がかかってくるもんだから」


 沙優はごまかすようにへへ、と笑いを漏らす。


「海にぶち込んじゃった」

「おい、海にゴミを捨てんな」


 なんて奴だ。

 行動も思い切りすぎているし、海に捨てたというのは感心しない。


「それ以降ずっと携帯持たずにいたのか?」

「うん」

「まじか……」

「案外、困らないもんだよ」


 まあ、確かに。

 昔の人間関係を清算してしまうのであれば、彼女にとってはもう必要のないものなのかもしれないが。


「なんで?」


 なぜそんなことを訊くのか、と沙優が首をかしげた。


「いや、だって突発的に帰れないことが決まったときとかに、お前に連絡つかなかったらまた無駄にメシ作らせちゃうかもしれないだろ」

「あ、そっか……」


 沙優はハッとしたように頷いて、そしてすぐに、少し照れたように視線をうろうろとさせた。


「なんだよ」

「いや、その」


 沙優はもごもごと、小さな声で言った。


「なんか、会話が新婚さんみたいだなって」

「はぁ……?」

「じょ、冗談だから! そんな怖い顔しないでよ」


 俺が思い切りしかめ面をすると、沙優は慌てたように手を身体の前でぶんぶんと振った。


「まあでも、もし作っちゃっても朝とかに食べてくれればいいしさ」

「いや、でも携帯あった方が何かと便利なんじゃないのか」


 俺の言葉に、沙優は首を激しく横に振った。


「いらない、いらない! ほんとにいらない!」

「遠慮するなって」

「いや、いらないっていうのもあるし、そもそもあたし一人じゃ多分契約できないよ」


 言われてみれば、そうだった。

 高校生は親と一緒でなければ携帯の契約はできない、というような決まりがあったような気がする。

 もっとも、俺は高校生の時に携帯など持っていなかったのでそのあたりは詳しくないが。


「まあでも、何かしら連絡手段は欲しいよなぁ」


 俺は呟いたが、沙優はかたくなに、首を縦に振らない。


「大丈夫、大丈夫!」


 また遠慮癖が出ているな。

 沙優を横目に見て、苦笑する。


 困るのは沙優だけでなく、俺もなのだ。

 家に女子高生を置いているという状況で、外から一切連絡がつかないというのは正直不安だった。

 何かあったときに連絡できる手段は欲しいところだ。


 携帯電話か。

 どうにかして、手に入れられないものだろうか。

 ぼんやりと考えながら、その日は眠りについた。






「え、それなら普通に吉田が二つ目の携帯を契約して、沙優ちゃんに渡しとけばいいじゃん」

「あ、そうか」


 次の日の始業前、橋本に相談すると、あっさりと解答が得られた。

 そうか、俺の名前で契約すればいいのか。

 まったくの盲点だった。


「じゃあ、次の休日にでも、買いに行くかなぁ」


 呟いて、仕事用のPCをつける。


 まあ、携帯のことについてはおいおい考えるとして。


 まずは、今日の夜を乗り越えるのが先だ。


 まだ出勤していない後藤さんのデスクをじっと睨みつけて、俺は背中にじとりと汗をかいた。






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