6話  悪夢  -吉田side


「おい、寝るなら布団で寝ろよ」

「んー」


 沙優は聞いているのか聞いていないのか分からないような返事をした。

 彼女は机にぴたりと頬をくっつけて瞼を閉じたり開いたりしている。


「今日は随分疲れてるんだな」

「んー」


 俺が仕事から帰ってきた時にはすでに沙優はこの体勢だった。

 机の上に準備されていた夕飯を食べている間も、目を瞑ったかと思えばふと開けたり、「くあ」と欠伸をしてはまた机に突っ伏したりと必死に眠気に耐えているようだった。


「ほら、メシも食い終わったぞ。ごちそうさま。寝るなら布団敷けよ」

「布団敷いたらすぐ寝ちゃうもん」

「寝りゃいいじゃんよ」


 沙優がうっすらと目を開けて、俺を見た。


「吉田さんより先に寝ちゃうの、なんかやだ」

「なんだそれ」

「仕事で疲れてる人より、家でごろごろしてた人が先に寝るのなんか変じゃない」

「家事やってくれてたろ」


 つくづく、変なところを気にかける奴だ。

 それに、そこでうつらうつらしているのももはや寝ているようなものだろうに。


「俺も今日は早めに寝るから、お前もさっさと寝ろ」

「んー」


 沙優が身じろぎをして、そしてすぐに動きを停止した。


「布団敷く元気がない」

「どんだけ疲れてんだお前……」


 溜め息をついて、立ち上がる。

 布団くらいは敷いてやってもいい。

 部屋の隅に畳まれている布団を持ち上げて、テーブルの横まで持ってくる。


「おら、動け動け。テーブルどかせないだろ」

「んーぅ」


 沙優はテーブルから上半身を起き上がらせ、そのまま後ろにごろんと倒れ込んだ。


「……」


 イラつきを覚えはじめた。

 俺に申し訳ない、というような発言をしておきながらこのだらけっぷりである。

 まあ、家事はすべて済ませておいてくれたのだ。

 あまりガミガミ言ってやるものでもない。

 溜め息一つ、とりあえずテーブルは片付けられるので、ひょいとテーブルを持ち上げる。もともと一人用に買った小さいものだったので、大した力もいらずに移動させることができる。机の脚を折りたたんで、壁に立てかけた。


「どけ。そこにいたら布団敷けねぇっての」

「んー……」


 今度は横にごろごろと転がって、俺の立っている反対側の壁際まで沙優は移動した。


「お前な……」

「だってぇ……」


 口答えする声色も尻すぼみで、今にも寝てしまいそうな勢いだ。

 急いで敷布団を敷いてやる。


「ほら、敷いたからこっちで寝ろよ」

「吉田さん」


 ころりと身体をこちらに向けて、沙優がぼんやりとした視線を俺に送ってきた。


「なんだよ」

「一緒に寝たい」

「だからそういうのはナシって言って……」

「なんにもしないから」


 沙優はぼんやりしているながらに、妙にはっきりと言った。


「おねがい」

「……俺が仕事行ってる間になんかあったのか」


 訊くと、沙優はきゅっと唇を結んだ。


「……なかった、けど」

「けど?」

「……なんだか、一人で寝るの、こわい」


 そう言った沙優の表情は、どこか遠くを見るような、ここにはない何かに怯えるようなものだった。

 本当に、どうしてしまったのだ、急に。

 朝俺が出かける前はにこにことしていたじゃないか。


「……しょうがねえな」


 気付くと、俺は頷いていた。


「お前が寝るまでな。寝たら自分のベッド戻るからな」

「……ありがと」


 まるで親離れできない子供を諭すような言葉をかけて、俺は洗面所に向かう。

 今日は仕事を持ち帰ってきていないので、もうこのまま寝てしまっても良いだろう。

 いつもより急いで、歯を磨いた。


 正直に言って、少し困惑している。

 沙優が気分の浮き沈みの激しいタイプなのは最初から分かっていた。しかし、今日ほどに弱った様子の彼女を見たのは初めてだった。

 俺には言えない何かがあったのかもしれないし、彼女の言うように本当に何もなかったのだとすれば、あの気分の沈みようは一体なんなのだろう。


「分からん……」


 コップ一杯の水で、口内の歯磨き粉をゆすぐ。


 女子高生という生物は、本当に俺には理解不能なのだと痛感していた。


 歯を磨き終えて居室に戻る。


「……寝てんじゃねえか」


 敷いた布団の上では、沙優がすうすうと寝息を立てていた。

 相当眠かったのだろう。俺が戻るまで待つこともままならず、そのまま眠りに落ちたようだった。


「ま、一緒に寝る必要もなくなってよかったと言えばよかったか」


 俺は頷いて、掛け布団をかけないまま眠ってしまっている沙優にそっと近づいた。

 起こさないように気をつけながら、掛け布団をかけてやる。


「ん……」


 肩まで布団をかけてやったところで、沙優が身じろぎした。

 しまった、起こしてしまったか?

 ぎくりと沙優の顔を見るが、目は閉じたままで、一瞬止まって寝息もすうすうと規則正しく再会された。

 ほっと息を吐いて、俺も自分のベッドに入る。


 ノートパソコンを膝の上に置いて、起動する。

 そして、エクセル管理している仕事の『進捗状況』に目を通していく。

 またいつ三島がポカをやらかすか分かったものではない。その時のために、自分のスケジュールには常に余裕をもっておかなくてはならないので、毎日寝る前には必ず自分の抱えている業務と進捗は確認することにしていた。


「……ん……ふっ……うっ……」


 エクセルに目を通している途中に、沙優が少し苦しそうに呻き始めた。

 さっきまで静かに寝息を立てていたというのに、どうしてしまったのだろう。


「うっ……ん……」

「おい、どうした」


 あまりに苦しそうな声を上げるので、まさか体調が悪いのではと思って声をかけるが、沙優は返事をしない。

 苦しそうではあるが、眠っているようだ。

 しかし、沙優の様子はあきらかにおかしかった。


「はぁっ……んっ……ふっ……」

「……」


 何かいけないものを見ているような気分になり、俺は目を逸らした。

 沙優の表情は非常に苦しそうで、息も上がっている。

 様子がおかしいのは明らかなのだが、その息の上げ方は妙に艶めかしかった。

 まるで情事の最中の女のような、妙な熱のこもった吐息を、沙優は苦しそうな表情で吐き出していた。

 しかし、すぐに異変に気付く。


「うっ…………ぐすっ……」


 涙だ。

 沙優は、目を瞑ったまま涙を目尻に溜めていた。


「悪夢でも、見てるのか?」


 目を閉じたまま悲痛な表情を浮かべる沙優。

 俺は吸い寄せられるようにベッドから降りて、彼女の横に腰をかけた。

 うんうんと唸りながら、沙優は首の向きを何度も変えた。

 そして、目尻に溜まった涙が、つぅと彼女の頬を伝ったのが、見えた。

 俺はその光景に、激しく胸が締め付けられた。

 泣くほどの、悪夢を見る。

 俺はそんな経験を一度もしたことがない。

 今、彼女はどんな夢を見て、どんな苦しみを味わっているのだろうか。

 想像すらできない。

 それが、何故か。

 何故か、とても悔しかった。


 どうすることもできずに、沙優が苦しそうにうめいているのを見ていると、沙優のうごきがピタリと止まった。

 夢を見終えたのか?

 少し安堵しかけたその時。


「……て」


 沙優の唇がかすかに動いた。

 なんだ?

 なんと、言った?

 聴き取ることができずに、ただただ困惑していると、もう一度、沙優の口から、ぽろりと言葉が零れた。


「……たすけて」


 言葉の後に、沙優の目から一筋の涙が伝った。


 カッと胸の中の何かが一気に熱くなるのを感じた。

 いてもたってもいられなかった。

 何かしてやらないといけないと、思った。


 手を握ってやればいいか。いや、違う。

 頭をなでてやれば。いや、違う。


 高速で脳が回転している。

 すぐに俺はするべきことを取捨選択した。


 悪夢を見て、女が泣いている。

 やれることは、一つだけだ。


 気付けば、俺は沙優の頬をぺちぺちと叩いていた。


「おい」


 沙優はまだ眠りの中に閉じ込められるように、うん、と唸るだけで目を開かない。


「おい! 沙優!!」


 大声を上げて、今度はがしりと彼女の肩を掴んで、揺らした。


「ん……」


 鼻から抜けるような声を上げる沙優。

 起きたか?

 もう一度頬を優しくぺちりと叩く。


「……よしだ、さん?」


 ゆっくりと目を開いて、沙優がぼんやりと言った。


 ただ、寝ていた人間が起きただけだ。

 それだけなのに、俺はまるで死にかけていた重篤者を蘇生させたような安堵に飲み込まれた。

 大きなため息をついて。


「寝るのか、泣くのかどっちかにしろ」


 俺が言うと、沙優ははっと自分の頬を伝う涙に気付いたように、視線を動かした。

 のそりと身体を起こして、沙優は俺をぼんやりと見つめた。


「よしださん」

「なんだ」

「よし……よしださ……ん」

「どうした」


 みるみるうちに、沙優の目尻に、さきほどまでとは比べ物にならない量の大粒の涙が溜まってゆく。

 すぐにそれは決壊し、彼女の頬を勢いよく伝った。


「よ、よしだ……さん……うぇ……んぐ……」


 涙と共に、沙優の喉から嗚咽が漏れ始める。


「どうしたんだよ」

「ん……うえ……ッ」


 沙優は何か悪い物を自分から吐き出すように、嗚咽を漏らし続ける。

 彼女はじりと俺に寄って来て、抱き着いた。

 じわりと寝間着のシャツがあたたかくなった。


「怖い夢でも見たのか?」

「……ッ」


 俺が訊くや否や、沙優が俺をぐいと押し倒した。


「うおっ」


 俺は沙優に抱き着かれたまま、床に転がるような形になってしまう。

 沙優の体重を身体に感じて、息苦しい。


「なんだ、どうした」


 俺が困惑していると、俺の上で沙優が身体をむくりと起こす。

 俺の両肩にぐいと手をのせて、沙優が顔を覗き込んできた。

 ぼたぼたと、沙優の頬を伝った涙が顔に降ってくる。


「吉田さん……」


 沙優は、今にも泣き崩れそうな顔で。

 俺の目をじっと見た。

 そして、ぽつりと言った。


「えっち、しよ」


 思考がフリーズする。


 なぜだ。

 なぜこのタイミングでそんなことを言うのだ。

 最初に、はっきりと釘を刺したはずだ。俺を誘惑したならすぐに追い出すと。


「冗談言ってんじゃねぇ。本当に追い出……」

「いいよ」


 俺の言葉を、沙優が遮った。


「明日出ていくから。えっちしよ」

「なんでそんな」

「いいからッ!!!」


 沙優が声を荒げた。

 再び、ぼたぼたと大粒の涙が俺に降り注いだ。


「いいから……してよ……」


 ぐりぐりと、俺の肩に彼女の体重がかかってくる。

 俺はひたすらに困惑して、顔をくしゃくしゃにしながら俺を見つめる沙優を見つめ返すことしかできない。


「いいでしょ、困んないでしょ、吉田さんはさ。何も減らないじゃん」


 そう言って、沙優はひくひくと口角を上げて見せた。

 それで、笑っているつもりなのか。鏡の前に立たせて、今の彼女の表情を見せてやりたい。

 明らかに、今日の彼女の様子はおかしい。

 俺が、嗜めてやらないといけない。


「馬鹿言うな。もっと自分を大切に」

「無理だよッ!!!」


 使命感に駆られて口をついた言葉も、沙優の怒号にかき消された。


「自分のこと大切に思えないのに……大切になんてできるわけないじゃん……」


 涙をこぼしながら、沙優はそう言った。


「なんで吉田さんはさ、そんなに私のこと大事にするの……おかしいじゃん。あたしと吉田さん、他人じゃん」


 俺の肩をぐっと握りしめながら、沙優は何かにとりつかれるように、捲し立てる。


「もっと他人らしくしてよ……迷惑そうにしてよ。迷惑そうにするくせに、都合のいいところだけは利用したりしてよ! それが普通でしょ!!」


 彼女が、何を言っているのか、分からない。

 俺はただ、奥歯を噛み締めて、彼女の悲痛な表情を見つめ返していた。

 なんと、声をかけてやればいいのか、完全に言葉を見失ってしまった。


「私を利用してよ……そうじゃないと……」


 彼女の、俺の肩を掴む力が弱まっていく。

 身体が震えている。


「……どうしていいのか、分かんないよ…………」


 力なく言って、沙優は僕の胸に額を押し付けた。

 そして、嗚咽を漏らす。

 Tシャツが、びしょぬれになってゆく。


 俺は、茫然と、天井を眺めていた。


 分かったつもりになっていたのだ。

 沙優は義理堅い女の子で、受けた恩は返さなければ気が済まない、そんな子なのだと。

 ガキのくせによく気が利いて、自分の希望だけを他人に伝えることができない不器用な子なのだと。

 一週間強、一緒に暮らして、なんとなくわかった気でいた。


「ねえ、してよ……吉田さん……ッ!」


 俺の胸に頭を置いたまま、沙優が呻くように言った。


 分かっていなかった。

 はっきりと、思い知らされた。

 彼女が今何を感じて泣いているのか、俺に何を求めているのか。

 沙優がはっきりと性交渉をしよう、と言っているにもかかわらず、俺には理解ができない。

 いや、彼女が今激しく俺に性行為を求めていることは、分かる。

 ただ、『何故』彼女がそれを求めるのかが、まったく分からない。


 決定的に、価値観が異なっていた。

 価値観をすり合わせた気でいた。

 まったく、足りていなかったのだ。

 彼女の心に足りていないものを、俺はまったく補えていなかった。

 だから、こうやって、爆発した。


 どうすればいい。


 俺は、自分の今すべきことを、全力で考えた。




 そして。





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