2話 宿代
「吉田さんフラれたの? かわいそー」
味噌汁を一口啜って、沙優はどこか他人事のようにそう言った。
いや、実際他人事なのだろうが。
さっさと追い返すつもりが、なぜか昨日の出来事を根掘り葉掘り訊かれ、俺もなぜか素直に語ってしまっていた。
「可哀想とか絶対思ってねぇだろ」
「思ってる思ってる! フラれるのつらいもんねぇ。フラれたことないけどさ」
「そうですか……」
掴みどころのない会話をしながら、俺は沙優の作った味噌汁を啜る。
インスタントでない味噌汁は久々に飲んだ気がするが、妙に美味く感じた。塩味がちょうどよいというのもあるし、『誰かの手作り』という事実が妙に胸に染みた。
ああ、後藤さんの手作りの味噌汁を飲みたかった。
「味噌汁美味しい?」
後藤さんに想いを馳せているのを遮って、沙優が口を開いた。
「あ、あぁ……まぁ」
「どっちだし」
「美味いよ、それなりに」
「それなりかぁ」
沙優はけらけらと笑って、いたずらっぽい眼差しを向けてきた。
「その、後藤さん? の作った味噌汁が食べたいとか思ってるんでしょ」
「……思ってねぇよ」
心を見透かされたようで少し居心地が悪くなる。沙優からスッと目を逸らすと、彼女は再び可笑しそうに笑った。
「図星かぁ。わっかりやすいんだ」
「鬱陶しいJKだなほんとに」
俺が露骨に顔をしかめると、沙優はそれすらも面白いと言ったように、くすくすと肩を揺らした。
どうも、こいつと話していると胸の奥がムカムカとするような、くすぐったいような、よく分からない気分になる。
会話のペースがすべて彼女に持って行かれてしまう。
女に主導権を握られるのは、あまり良い気分がしなかった。
「ね、吉田さん」
「おわっ」
耳元で突然囁かれて、肩がびくりと跳ねた。いつの間にか、沙優の顔が俺の顔の真横にあった。
沙優はじりりと俺の顔に自分の顔を寄せた。
「あたしが慰めてあげよっか」
吐息交じりで囁かれたその言葉。
全身に鳥肌が立つのを感じた。
「だから、そういうのやめろって言ってんだろ」
ぐいと沙優の身体を押しのけると、沙優は唇をとがらせた。
「えー、素直じゃないなぁ」
「馬鹿、俺はお前みたいなちゃちい身体のJKに慰めてもらうほど惨めな男じゃねえんだ」
俺が言うと、沙優は「えー」と首を傾げて、おもむろにブレザーのボタンをぷちぷちとはずし、それを脱ぎ捨てた。
「あたし、結構おっぱい大きいと思うんだけど」
そう言って、ぐいと胸を張った。
シャツごしに、沙優の胸が俺に思い切り主張される。
さすがにそういう見せ方をされると、まじまじと見てしまう。男だから。
「ま、まあ女子高生にしてはでかいかもしれないけどな……後藤さんはもっとすごい」
「はは、もっとすごいんだ」
沙優はくすくすと笑って、胸を張る姿勢をやめて、先ほどまでの猫背気味の姿勢に戻る。
「何カップくらいなの」
なんでもない顔で、彼女はそんなことを訊いてくる。
な、何カップ……あれは、どれくらいだろう。
「わ、わかんねぇけど多分Fくらいはある」
「Fだったらあたしと同じだよ」
「は!? お前それFもあんのか!」
「うん。これより大きく見えるならGとかHとかあるんじゃない」
Hカップ……Hカップって何カップだ?
グラビアアイドルのようなカップ数に俺の頭は混乱する。
一度でいいからそのHカップに挟んでほしかった。何がとは言わない。
「でもさー」
沙優が口を開く。
「触れないHカップより、触れるFカップの方が良くない」
そう言って、再び胸をぐいと張って、首を傾げる沙優。
自然と、ため息が漏れた。
「お前さぁ……そんなに俺を誘惑してどうしたいんだよ。本当に襲ったらどうするつもりなんだ」
「え、普通にヤるけど。吉田さんそこそこイケメンだし、嫌じゃないよ」
「……俺とヤりたいのか?」
訊くと、沙優はまばたきを数回して。
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「なんなんだよお前は!!」
思わず立ち上がってしまう。
さっきから言動がちぐはぐすぎて理解ができない。
「ヤりたいわけじゃないなら迫るなよ! 平気で襲う男だっているんだぞ」
「うん、だから。襲いたければ襲っていいよ? って話」
「はぁ……?」
溜め息とも疑問符とも言えない息が喉から漏れる。
年齢が離れている、というだけでは説明のつかない考え方のズレを感じる。
異物を見るような目で沙優と見ていると、彼女は苦笑を浮かべた。
「そんな顔しないでよ。今まではとりあえずヤらせとけば数週間は置いといてくれたんだって」
「……」
絶句する。
あえて訊かずにいた部分を、自分からさらけ出してきた。
学生特有の、小規模な家出か何かだと思っていたが、この口ぶりからすると数か月は自分の家に帰っていないのではないか?
しかも、自分の身体を使って、宿を得ていたということになる。
「馬鹿かよ、お前」
俺は、呟いて、沙優の目の前にしゃがみ込んだ。
「お前、どっから来たんだ? 学生証見せろ」
言うと、一瞬沙優の表情が曇った。
が、それもつかの間。沙優はにこりと笑って、スカートのポケットから小さな折り畳み財布を取り出して、中から学生証を取り出した。
受け取ってそれを見る。
「あ、旭川……」
俺は口をぽかんと開けてしまう。
『旭川第六高等学校二年生』と書いてあった。
「お前、北海道から来たのか? 一人で?」
「うん」
「いつ頃北海道を出たんだよ」
「半年前くらいかな」
半年前、と言ったらちょうど真冬の頃だ。
そんな時期に一人で家を出て、ここまで来た?
ここは東京のど真ん中だ。高校生が一人で北海道からやってくるには遠すぎる。
「親にはちゃんと言ってきたのか」
「言ってない」
「馬鹿、それなら早く帰って……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
さきほどまでへらへらとしていた沙優の表情が露骨に曇ったからだ。
どこか遠くを見るような目で、沙優は言った。
「多分いなくなってせいせいしてるから、大丈夫」
「そんなのはお前には分からないだろ」
「分かるよ」
そう答える沙優の目には、寂しさと諦観をごちゃまぜにしたような色が浮かんでいた。
俺は、少し胸が痛むのを感じた。
「もうあたしお金ないからさ。上手いことやって、誰かの家に住むしかないんだよ。だから」
「だから、とりあえず身体を使って誘惑しようって?」
「そう」
沙優は当たり前のように頷いた。
俺は、誰に、ということでもなく、腹が立ってきた。
「馬鹿にすんなよ」
気付けば口走っていた。
「今までの野郎は美味しくお前のこと頂いてたかもしれねぇけどな。俺はお前の身体になんざ微塵も興味がねぇ」
「じゃあ……」
「家にも帰りたくねぇ、学校にも行かねぇっていうなら、お前は何して生きるんだよ」
俺が訊くと、沙優は困ったように眉を寄せた。
「だから、住ませてくれる人を探して……」
「俺が追い出したらまた股を開いて回るのか?」
「うん……」
「アホか。なんでそんな頭おかしい方向に転がるんだよ」
俺の言葉に、沙優は心底困惑したように首を傾げた。
どうして、分からないんだ。
普通の思考なら、安易に身体を売ろうなどと考えないはずなのに。いや、ここまでくるともう何が“普通”なのかは分からないな。
俺は怒りとも悲しみとも分からない気持ちを胸の中で反芻させながら、それを振り払うようにきっぱりと言った。
「働け」
「働く?」
「そうだ。学校からドロップアウトしたガキだってな。みんな働いて金もらって生きてんだよ」
「で、でも」
沙優はさきほどまでの余裕たっぷりな態度からは想像もつかないほど小さな声で言う。
「アルバイトの稼ぎくらいじゃ家賃なんて払えないよ」
まあ、それは確かにそうだ。
そもそも、家に住めるほど稼ぐまでの数か月はどのみちどこかで過ごさなければならないわけで、数か月も野宿というわけにはいかない。
「ここに住めばいいだろ」
「え?」
「住んでいいって言ってんだよ」
俺が言うと、沙優は信じられない、というようにまばたきを繰り返した。
「で、でもあたし吉田さんに何もあげてないし」
「お前が持ってるようなもんはいらねぇんだよ。くだらねぇ」
俺は顔をしかめて、言葉を続ける。
「お金がない! 住む場所もない! じゃあ身体を使おう! とかいう馬鹿極まりないお前の思考を叩きなおしてやる」
「さっきから馬鹿馬鹿って」
「馬鹿だね! 大馬鹿だ。物の価値も分からない甘ったれめ」
ぐっと言葉を飲み込む沙優。
正面から顔を見ると、やはり可愛い。
どうして。
俺の中にそんな気持ちばかりがぐるぐると回る。
まっとうに青春をして、まっとうに恋をして。
そういう風に生きられなかったのだろうか。
「住む場所ねえんだろ」
「うん」
「じゃあうちに住め」
「……うん」
「で、まずはこの家の家事を全部やれ。とりあえずはそれが仕事だ」
そう言うと、沙優は驚いたように目を丸くした。
「バイトしろってことかと思った」
「ゆくゆくはちゃんとやってもらう。けど、今は俺とお前の生活ペースを合わせる方が先だ。好き勝手やられちゃ困る」
沙優が、口をぱくぱくとさせた。
何か言いたげなので待ってやると、ようやく沙優は言う。
「ずっと住んでていいみたいな、言い方だけど」
「ずっとは困る。家出に飽きたらとっとと帰れ」
「……それまではいていいの?」
その問いに、どう答えたものかと、迷う。
ここ数分の会話で分かったことだが、こいつは相当な甘ったれだ。
男に股を開いて宿を借りて、適当に渡り歩いてきたのだろう。それよりは苦労はするが、もっと健全に歩いてこられる道もあったはずだろうに。
好きでもない男に股を開く方が、肉体的な苦労をするよりよっぽどつらいことだと思うのだが、そういう感覚は彼女の中ではとっくに薄れてしまっているようだ。
「好きなだけ居ろ」などと言ってしまっては、本当に何年も住み続けるのではないかという気がしてくる。
俺は、言葉を選びに選んで、ようやく口を開いた。
「お前の、甘ったれな根性がマシになるまでは置いといてやる」
そういうと、沙優はどこかぽかんとしたような顔で、首を縦に振った。
「わ、わかりました……」
俺はふぅと息を吐いて、また床に座りなおす。
珍しく、熱くなってしまった。
他人に説教をするほど俺も良く出来た人間ではないというのに。
テーブルの上に置いた味噌汁の入ったお椀を手に取って、もう一口啜る。
そして、舌打ちをした。
「冷めちまったじゃねぇか」
しかし、沙優の作った味噌汁は、冷めてもそれなりに美味しかった。
「あ、そうだ」
俺はふと顔を上げて、沙優の方をじっと見た。
「な、なに」
沙優は俺から目を逸らして訊き返してくる。
さっきまでの掴みどころのない態度は消えてしまっている。
俺は沙優に人差し指を向けて、言った。
「次に俺を安易に誘惑したら、すぐに追い出すからな」
「も、もうしないって……」
沙優の言葉に納得して、俺は頷く。
こうして、26歳サラリーマンと、家で女子高生の奇妙な二人暮らしが始まった。
しかし、この時の俺は“女子高生”と生活を共にするということの大変さを、あまりにも甘く考えていた。
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