第6話 撮影開始

 梅の花が咲く頃、本番に向けた入念なリハーサルが始まった。演出の桜井は“鬼の桜井”とあだ名されるほど厳しい男として知られていた。元は時代劇の演出をしていたらしい。それがTV番組から時代劇が消えてしまったので現代劇に移って来たそうだ。『お兄ちゃんをとらないで』はコメディーである。二山は桜井ではこの番組の演出に合わないと思ったが、全てを決めるのはプロデューサーの臼杵である。余計な口出しはよそうと自重した。


 だが、恐れていたことが起きた。舞子が桜井の怒りのターゲットになってしまったのだ。

「台詞のトーンが低い!」

「右の小指の位置が違う!」

 桜井の指摘は微に入り細に入るものだった。緊張と恐怖で舞子は怖気づいたように見えた。演技が小さくなる。

「演技が小さい!」

 桜井はまた怒鳴る。楽しいドラマを作るはずの現場が戦慄する。ベテラン女優の川内が桜井に、

「まだ子供なんだから優しくしてあげなきゃ」

と諭したが、桜井はかぶりを振った。

「役者に大人も子供もありません」

 川内は二の句が継げなかった。

 二山もよっぽど一言、言ってやろうと思ったが、演出は他人の仕事、自分はただの台本書きだと思い直して黙っていた。この時、二山は二本の舞台の脚本を抱えていたのだが、なんだか舞子のことが心配で毎日、スタジオに来ていた。桜井はそれが面白くないのかもしれない。とにかく、舞子への指導は峻烈を極めた。しかし出るのは罵声だけで、手を出したり、灰皿を投げつけたりはしなかった。その辺は心得ているのだろう。


 休憩時間に思わず二山は臼杵プロデューサーに桜井の演出が舞子に厳しすぎるのではないかと抗議した。すると臼杵はこう言った。

「桜井さんは素質のある子にしか厳しく指導しませんよ」

「えっ?」

「言葉の通りです」

 臼杵は煙草を吸いに喫煙所に行った。

「素質がある」

 二山は臼杵の言葉を噛み締めた。

 それから二山は舞子の元へ行った。

「大丈夫か?」

 二山は気遣った。しかし、舞子の返事はこうだった。

「何がですか?」

「何がって、桜井の指導だよ」

「ああ、あたしのことを熱心に教えてくれて、嬉しい」

「はあ?」

 舞子は気にもとめていない口ぶりだった。

(この子は打たれ強いのか? 鈍感なだけなのか?)

 二山は舞子のことがわからなくなって来た。


 通常、テレビドラマの撮影は頭から順に撮影するのではなくて、セットの都合やロケーションの都合、出演者の都合で撮影できるシーンを順序に関係なくまとめて撮ってしまう。その素材をつじつま合わせするのは編集の仕事である。

 本番初日の撮影は横浜でのロケーションであった。横浜市はドラマ、映画の撮影に協力的な市である。あの『聞かぬは一生の恥』も横浜市でロケーションされた。『お兄ちゃんをとらないで』もそれに便乗したのである。

『お兄ちゃんをとらないで』は不慮の事故で両親と最愛の兄を失った柏木瞳(荒木結衣)が偶然にも兄に瓜二つの丹羽公平(菅野正樹)に出会い、恋に落ちるのだが、公平にはお兄ちゃん大好きの愛菜(黒上純子)と香奈(水沢舞子)がいて、あの手この手を使って二人の仲を裂こうとする物語である。つまり、子役ながら純子と舞子の役割は大きい。それだけに演出の桜井の厳しい演技指導も理解できる。


 さすがの二山もロケーションには同道できなかった。二つの舞台の脚本の締め切りが迫っていたからだ。二山は舞子に前日、電話をかけた。

「黒上さんの演技を真似して、元気よく演技するように」

——はい。でも桜井監督から指導を受けたことも取り入れます。

「そうか」

 舞子は桜井を信頼しているようだ。それはそれでいい。

「とにかく頑張れ」

——はい。

 電話は切れた。


 二山は気が気でならなかった。確かに舞子は桜井のことを信頼しているようだし、桜井も素質のある子だけに厳しく指導するのは本当だろう。だが、黒上純子はどうなのだ? あの子は桜井に一言も罵声を浴びせられることはなかった。純子に素質がないというのか? いいや違う。純子は舞子の何倍も素質がある。少なくとも二山にはそう見える。それなのに桜井はなんの指導もしない。臼杵の言葉は本当だったのだろうか? その場しのぎの嘘だったのかもしれない。二山の頭の中はそのことでいっぱいになり、脚本のことなどどっかに飛んで行ってしまった。

 時刻は午後九時。子役の労働時間は午後八時までだから、舞子は寮に帰っているだろう。二山はいてもたってもいられなくなって車を新宿に走らせた。


 新宿にある其田事務所の独身寮には七人の女優、その卵が暮らしている。舞子はもちろん最年少だ。寮長は其田が兼任している。その面では安心だ。二山は其田にそれとなく舞子の様子を伺った。

「ええ、珍しくニコニコして帰ってきましたよ。桜井さんにかなり怒鳴られていたんですけどね。車の中でも饒舌に演技のことを話してましたしね」

 二山は少しホッとした。

「舞子に会えますか?」

「もう寮に帰ったら、バタンキューで寝ちゃいましたよ」

「そうですか」

 二山は舞子に会うのを諦めて自宅に戻った。

「ニコニコしていたかあ」

 不思議な子だと二山は思った。


 翌日はスタジオ撮影だった。仕事をほっぽらかして見学に来た二山は思い切って桜井に舞子のことを訪ねてみた。すると、意外な返事が返って来た。

「あの子は天才だよ。俺が言ったことをすぐに吸収して昇華させる。それで、俺の思っていた以上のことをする」

「黒上純子はどうなんですか?」

「あれは秀才だ。相当特訓を緑川のババアに受けているんだろ。形が似ている」

 桜井が舞子を天才と評したことに二山は驚いた。そして、あのオーデションの日に見たきらめきは本物だったんだと確信した。



 

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