カタカナ語短編集

鯊太郎

第1話 パラドックス(約束)

 男が若い女を誘拐した。


 手口は至ってシンプルなもので、夜8時を少しまわった頃、黒い大型のバンで乗り付けた男は女がその道を通るの待っていた。

 (8時20分。もうすぐ、あの女が会社帰りにこの道を通るはずだ・・・)

 そう男が確信するのも、この一ヶ月もの間その女の行動をつぶさに観察してきたのだから当然である。

 男はハンケチに麻酔薬を染み込ませると、それをビニール袋の中へと忍ばせる。


 数分もしないうち、男の思惑通りに若い女が駅から続く緩やかな坂道を歩いて来た。

 女は肩まで伸びた髪をサラリと風になびかぜ、スラリと伸びた脚でモデルの様なステップを踏む。なるほど、なかなかの美形である。


 男はあらかじめ潜んでいる後部座席のドアーを少しだけ開けた。勿論その女には気付かれることの無いよう音も立てずに。

 おあつらえ向きに、この辺りは人通りも少なく、すなわち車へと連れ込むのにはそれ程難しいというわけでもない。


 足音が段々と近づいてくる。

 男はもう一度大きく息を吸い込んだ。


 女がその車の横を通り過ぎようとしたとき、男は突然ドアーを開き、その女の行く手をさえぎった。

 後は一瞬の出来事である。

 男はその女の腕をたぐり寄せると、車の中へと引きずり込み、力任せに女の口と鼻を覆った。勿論その手には麻酔薬を染み込ませたハンケチが握られている。

 

 「いやっ・・・」

 女は最初こそ抵抗したものの、次第に薄れる意識の中でその身体を男にもたれ掛けるようにあずけた。


 (うまくいったぞ!・・・)

 男はもう一度辺りを見回すと、静かにほくそ笑んだ。


 

 1時間ほど車を走らせたであろうか、そろそろ女が麻酔から目覚めても不思議ではない。

 男は海岸近くの公園に車を止めた。勿論昼間は賑わう公園も、この時間では猫の子一匹いやしない。

 車のライトを消すと、周りからはそこに車があることすら分からないほどだ。


 男はその女に馬乗りになると、ブラウスのボタンに手を掛ける。当然ジャケットはその前にもう脱がせてある。

 静かな車の中は、遠くの方から聞こえてくる潮騒の音と、この男が漏らす鼻息が聞こえるだけである。


 男が三つ目のボタンを外すと、目の前に女の透き通るように白い胸元があらわになる。

 男はゴクリと生唾を飲み込んだ。


 男がブラウスの最後のボタンを外そうとしたとき、その女がパチリと目を覚ました。

 「なっ?・・・」

 女が大きな声を出す前に、すかさず男はその手で女の口元を覆う。

 「しっ!  お前を傷つけようっていうわけじゃないんだ」


 自分の上にまたがっている男に、今ブラウスを脱がされようとしているのである。どう考えても、説得力に欠ける言い訳である。

 それでも男は必死で女を落ち着かせようとする。


 「いいか、とにかく大きな声は出さないで。俺と約束できるか?・・・」

 女は取り敢えず何度も首を縦に振る。

 男は押さえた手を、静かにその女の口元から離した。


 「どうして?・・・」

 女が尋ねる。


 「どうしてだと思う?」

 男が聞き返す。

 女は答える代わりに、その目から一筋の涙が流れ落ちる。

 男はその涙をぬぐうと、女を座席にと寄り掛からせた。どうやら根っからの悪党というわけでもなさそうである。


 男はその女に囁いた。

 「俺がこれからお前に何をすると思う?」

 「・・・・・」


 「もし俺がどうしたいのか言い当てることができたら、俺はお前に指一本触れないと約束してやるよ」

 当然男には、こんな状況下で目の前の女が男の目的を的確に答えられるはずがないと思ったからである。

 ところが、その女の目がキラリと光った。


 「あなたはその汚い手で、私を犯そうとしているのよ」

 言われた男は、一瞬ギクリと仰け反った。

 しばしの沈黙。


 それでも男は再び女の胸元に手を伸ばそうとする。

 「約束違反だわ!」

 女は真っ直ぐに男の目を見つめる。


 「約束が違うわ。私が言い当てたなら、あなたは私に指一本触れないって言ったじゃない」

 男は伸ばした手を引っ込めた。

 しばしの沈黙。


 しかし、再び男はその手を女に伸ばそうとする。

 その手を振りほどく女。


 「男のくせに約束も守れないの・・・」

 その言葉に男はフッと笑みを浮かべる。

 「そんなことは無い。ただ、お前が言ったことが当たって無かったというだけのこと」


 今度はその女が目を細める。

 「当たっているはずよ。あなたは、いやがる私の服を脱がしてその汚い手で私の身体を触ったり、あなたのオ(ピーッ)コを私の中に入れて来るんでしょ、と言っているのよ」

 男は目を丸くする。


 なおも女は続ける。

 「もし私が言ったことが正しいなら、あなたは私に指一本触れないって言った約束を守ってちょうだい!」

 男は仕方なくうなづく。


 「でも、もし私が言ったことが正しくないなら、あなたは私が言ったこととは違うことをしたかったっていうことよね?」

 男は口をポカンと開けている。

 「それって何なの? お話してほしいの、それとも唄でも歌いましょうか?・・・」 


 男は必死に頭の中で考える。


 「ねぇ、どっちなの?私の言ったことは正しいの、それとも正しくないの?」

 女はかすように男の肩を一つ小突いた。

 ぐらつく男。


 どうやら、いずれにしてもこの男が、女の身体に指一本でも触れることは出来なさそうである・・・



【語彙】

パラドックス:「逆説」と直訳される。語源はギリシア語の(paradoxa定説に逆らうもの)

ある真理には反するようだが、よくよく考えると一種(別)の真理をあらわしていることや、逆に正しくないように思えても、実際には真理となっているようなこと。

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