真昼の星
たびー
第1話 写本制作室 スクリプトリウム (上
序
『死』はまるで真昼の星のよう。
人は陽が輝く天空にも、星があることに気づく者はすくない。
けれど、真昼の空に星はある。
見えはしないが静かに天空を巡る。
私たちに、いずれ死が訪れることが確かなように道を刻む。
…地上のただ一人を除いて。
確かにある。しかし、見えない存在。
我々はその人を密かに呼んだ。『真昼の星』と。
これは我が師匠から聞いた話である。
師匠は人生を写本作りに捧げた。長く修道院図書館の写本制作室長を勤め、先頃亡くなられた。
晩年には記憶の混乱が生じたが、私はこの話を幼きころより繰り返し聞いた。
幾人かの伝聞を照らし合わせるに、師匠の話は真であると信じるに足りる。
いつかこの辻褄の合わぬ出来事に答えが得られることを切に願う。
北西ラァス修道院図書館付き書写生 ケビン
それは私がまだ北西ラァス修道院に来て間もない八歳くらいの時、新星暦320年代のことだ。
閏十一月の夕暮れ時、茜色に染まる銀の盾を月が登り始めたあたりに、風変わりな客人がみえたのだ。
私はお仕着せの粗末な修道服に薄い革のサンダル履きの書写生見習いだった。
その日は戸外での雑務ばかりをしていた私は、かじかむ指先に息を吹きかけた。
けれどひび割れた指は暖まらなかった。
最初に修道院に通じる山道を登ってくる二人連れを見つけたのは私だった。
現れたのは、亜麻色のくせ毛を無造作に後ろで結んだ灰色の目をした三十歳くらいの男性と、フードを目深にかぶった華奢な従者だった。
「修道院長はおいでだろうか」
男は埃だらけ厚手のローブの懐から、紹介状らしきものと蝋封された手紙の二通を取り出すと門番に渡した。
手紙にざっと目を通した門番は私を手招きし、執務長を呼んでくるようにと、両方の手紙を合わせてよこした。
手紙を胸に抱え、ひんやりする回廊を執務室に急いだ。
「お客さまからです」
手紙を渡すと、のっぽで痩せぎすの執務長は顔色を変えて走っていった。いつもは澄ましてお高くとまっている執務長が…。
執務長に追いつくと、客人に向かって何度も頭を下げてる最中だった。
「早く湯桶を用意してさしあげなさい」
焦りながら、わたしに命じた。
亜麻色の髪の男は温和な笑みを浮かべていた。隣に立つ従者を近くで見ると、それは『天使』だったので、私はひどく驚いた。
淡い金髪に碧玉の瞳の天使ーガブリエル・ガブリエラはだまって佇んでいた。
もっともガブリエル・ガブリエラはたいがい無表情で無口と聞いていた。まるで精巧に造られた彫像のよう。
私と同年代の男児が呼ばれ客人の足を湯桶で洗った。私は男の客人を洗ったが、隣の天使を盗み見していた。
ローブのフードで顔を隠すようにしてうつむいていたが、切れ長の目や長いまつげが見えた。
天使の足は汚れを落とすと真っ白になり寛いだのか、ため息をもらした。
多分見とれていたのだろう。客人が私の髪の毛をくるくると指に巻いた。
「すまない、私の子どもの髪とよく似た巻き毛だったから」
にこり、と人好きする笑みを私に向けた。あわてて私は足を洗うことに専念した。
どれほど歩いて来たのだろう。足裏全体が堅くなり、すっかりごわついていた。
「お客様は銀の盾を越えていらしたのですか?」
私がたずねると、ゆっくりとした語り口で答えた。
「あの山脈を越えられる者はいないだろう。私たちは海辺から来た。さすがに山の麓までは遠かったね」
そんな遠くから!!
南の海辺から北の銀の盾……当時山脈の麓まではろくな宿場もなく、ただ漠々とした荒野を五日ほども歩かねばならなかった。
馬も驢馬も使わず、つまりは懐があまり豊かではないらしいが、修道院に下にも置かぬ手厚いもてなしをされる客人とはいったい何者なのだろう。
「ありがとう、足が軽くなったよ」
洗い終わりると、客人は立ち上がり再び私の髪を優しく撫でて礼を言った。
一行は執務長の先導で回廊の向こうに消えていった。
私は初めて見た完璧なガブリエル・ガブリエラの姿を脳裏で何度もなぞった。
「すごくきれいだったな」
一緒に足を洗っていた男児が言った。
ガブリエル・ガブリエラは両性の人物を指す。
翼はないが、天使の名前を二つ重ね、空の眷族であることを知らしめる。それらの人々には異能者が多く存在するというはなしだが、私のような下々のものは天使に会う機会などまずない。
ガブリエル・ガブリエラは領主が一手に集め管理養育する決まりだから。
両性といっても、男性により近い場合はガブリエル、反対の場合はガブリエラと呼ばれる。しかし、中にはごく稀にその調和の中間の存在が生まれる。
それが天使と呼ばれる、ガブリエル・ガブリエラだ。
数的にも少ない天使を侍従にできるなんて……やはり領主や貴族といった特権階級に属するひとなのだろう…私はそう思った。
翌日は、冬空が晴れ渡り図書館の中にも陽光が溢れ、書写生は朝から忙しかった。短い冬の昼を無駄にできないからだ。
私は傾斜机の間をインクの補充や書写生から託けられたことをこなしていた。
僅かに空いた時間には書写生の手元を見続けた。
ペンの使い方、色の配合、筆遣い……学びとることは山ほどあり、いつか自分専用の机を与えらる日を夢見ていた。
羊皮紙の上をペンが走る音だけが聞こえる図書館に、執務長を先頭に紫に銀糸の刺繍のローブをまとった修道院長が入ってきた。
書写生は一斉に立ち上がり深々とこうべを下げた。
私もそれに倣った。
通路を執務長・修道院長がゆく。その後ろに昨日の客人二人がついていく。
執務長はつきあたりの書庫を開け、一行を導き入れた。
姿が見えなくなると皆は今見た天使のことを小声でささやきあった。
私は彼らが消えた書庫を見つめていた。かすかに聞こえる書庫内の階段を上がる音…書庫の部分は塔になっており、一般の書写生には立ち入り禁止の小部屋がいくつもあると聞く。そこには門外不出の貴重な本があるのだと。
例えば、灰になった背徳の町から密かに持ち出された本や、アレキサンドリアの大図書館から救い出された大量の粘土板が……。
多分、私には生涯縁のない書だろう。
恐らく彼らはそれを見にわざわざ来たのだ。それ以外に辺境の修道院を訪ねる理由はないように思える。
彼らは院内に灯がともるまで出てこなかった。
翌日は休息日だった。
私は中庭の片隅で、書写室から集めた屑の中から拾った手のひらの半分ほどの大きさの反古紙に、ぎりぎり指先で摘まめる木炭で、天使の姿を描いていた。
脳裏でなぞっていた姿を紙に写し出す。小さめの頭部、すんなりとした華奢な肩からの線、ふわりとした金の髪に瞳がちの目……。
「じょうずだね」
突然声をかけられ、私の体は小さく飛びはねた。
驚き振り返ると、灰色の目の客人だった。
「じょうずだね、ディーターの特徴をよくつかんでいる」
ディーター……天使の名前。客人は私の隣に座ると私の小さな絵をしげしげと見つめた。
「目がいいんだろうね。ちょっとしか見られなかっただろうに」
「短くても……忘れられません」
誉められることなどなかったので私は恥ずかしかった。
「君はきっといい書写生になるよ」
また頭をなでて客人は去って行った。
結局、十日ほどの滞在で彼らは帰って行った。
あとから年かさのものたちから漏れ聞いたことには、客人は修道院長の縁者であり、各地で写本を見て歩いているということだった。あの天使はあるだけの写本をすべて暗唱できる状態になってから帰ったそうだ。
それから二十五年ほどがたった頃、修道院長は高齢になり死の床についたのが誰の目にも明らかになった。修道院全体が、どこかざわつき落ち着かない日々が続いていた。
そして秋の日に、訪問者があった。
私はその客人方と回廊で出会い、挨拶をした……。
あの灰色の目をした人だった。しかし、少しも歳をとっておらず、逆に私のほうが年上になったように感じた。
やはり天使を連れていた。天使は以前とは別人で、黒檀のように黒い髪に黒い瞳……やはり非常に美しくあるのだが……。
私は挨拶するのも忘れ、手にした巻子を落とすところだった。
彼はやはり温和な表情で私に会釈した。
私が子どもの頃にあった彼だろうか? まさか、歳が合わない。しかし、あまりに変わらぬ風貌だった。納得できないものを感じながら、自分の傾斜机で下絵を描いていると、呼ばれて院内の応接室に行った。
そこには彼がいた。
「この写本のできがあまりに素晴らしくて……書き手に会わせてほしいとお願いしたのです」
彼は微笑み、私が写した本の天使の絵を指さした。
ありがとうございます、と礼をのべながら、私は尋ねずにはいられなかった。
「失礼を承知でつかぬことをお聞きしますが、あなた様は二十年以上まえにこちらの修道院をお訪ねになりませんでしたか? ディーターという天使を連れて」
彼はかすかに目を見張り、そしてゆっくりと話した。
「ああ、それは私の叔父でしょう。私は叔父とよく似ていると言われます。確かにディーターという従者を連れていました」
叔父……。それならば得心がいくか。
「修道院長のお見舞いに来てみたのですが……」
客人は悲しげな目をした。修道院長が長くない、という予感は修道院全体を覆っている。水面下では次期修道院長の後がまを狙うものが派閥争いが始まっている。
私は応接室を辞し図書館に戻った。私の傾斜机の隅にはディーターを描いた絵が貼ってある。子ども時代から何度も何度も書き直した。写本の天使はディーターを象るように描くのだ。
二日後に修道院長は静かに息を引き取った。
礼拝堂に安置された修道院長は穏やかに微笑んでいた。齢七十。ほとんどのものが五十前後で亡くなることを思えば十分に長寿だったと言える。
あの客人は修道院長の亡骸のそばにいた。
頭巾がはずされ、意外なほど残っていた髪の毛は巻き毛だった。
客人はいとおしげに修道院長の頭をなで、指先に髪の毛を巻きつけた。
それを見ていた私の頭のなかで記憶がはじけた。
あのときの人も……!
ーわたしの子どもも巻き毛でね……
いや、まさか。
客人が修道院長の父親なわけがない!
そんなわけがない。
私は自分の思考を止めた。……客人が修道院長の弔いを終え帰ると、私の机からディーターの肖像画が消えていた。
その後、私は書写生の主席となり多くの本を写した。生涯みることもないだろうと思っていた秘蔵の写本も目にできた。しかし古代文字で書かれた内容はわからずじまいだった。
あの客人たちは何を読みに来ていたのだろう?
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