真夏の夜のリサイタル - 第84話
バーベキューを腹がいっぱいになるまで堪能して、気づいたときには夜の八時をまわっていた。
いつもなら家でひとりテレビでも観ているところだけど、部屋にこもるのはまだ早いよな。
せっかく夜のプールに来てるんだから、もう少しこの落ち着いたたたずまいというか、水が静かに流れている様子を堪能しておきたい。
向こうのプールサイドが静かでいい感じだから、そこに妹原を誘い込んでみたいけど、そんな大それたことをしたら間違いなく変態だと思われるので、妄想で留めておいた方が無難だろう。
そんな無意味なことを考えていたから、ふと妹原を探してしまったが、妹原の姿が見当たらない。部屋にもう戻ったのかな。
「八神。ちょっと来い」
山野に呼ばれたので、庭のはずれの水場へと向かう。なんでも、バーベキューの準備を執事の松尾さんに頼んでしまったから、コンロの片付けくらいは協力するみたいだ。
それを松尾さんに言ったら、落ち着き払った渋い声で「いえ、八神様と山野様のお手をわずらわすわけには参りませんので」と丁重に断られてしまったけど、この人たちになんでもまかせっきりなのはよくないか。
なので片付けを少しだけだが手伝うことにした。
片付けを終えてプールサイドに戻ると、妹原がひとり所在なさげにたたずんでいた。部屋に戻ったんじゃなかったのか。
右手にはフルートを入れた鞄をぶら下げている。左手に持っているのは数枚の紙だった。
俺が妹原のもとへ向かうと、
「あ、八神くん」
妹原がほっとしたような面持ちでつぶやいた。
「何してるんだ?」
「あ、うん。フルートの練習をしようと思ってたんだけど、さっきの約束もあったから、聴いてもらいたいなあって思って」
部屋に戻っていたのは、フルートを取りに行くためだったのか。しかもさっきの約束を叶えてくれるなんて、嬉しすぎて感涙しちまうぞ。
「あれ。雫、どうしたの?」
別荘に戻っていた上月と弓坂も、妹原に気づいてやってきた。そして妹原から話を聞くと、ふたりとも妹原の吹くフルートに興味を示した。
山野もどこからともなく合流して、妹原のフルートを四人で視聴することになった。
俺たちが座って見守る中、妹原はバッグから譜面台を取り出して組み立てる。音楽室の隅っこでよく見かける道具だが、いつもはあそこに譜面を置いて練習しているのか。
「少し、緊張しちゃうな」
心なしか赤面しながら、妹原がバッグから銀色のフルートを取り出す。使わないときは三つに分解して収納しているみたいだ。
ばらばらのフルートを妹原が慎重な手つきで組み立てていく。そういえばフルートって生で見るのは初めてかもしれない。
妹原のフルートは、まるで銀細工のような美しい楽器だった。表面には傷や汚れが一切なく、新品のような輝きを夜のプールサイドに放っている。
フルートってアルトリコーダーなんかと同じ管楽器だから、てっきりそのくらいの長さなんだと思っていたけど、実物はアルトリコーダーよりも全然長い。五十センチ以上はあるのだろうか。
「それじゃあ、はじめるね」
俺や上月が固唾を呑んで見守る中、妹原は左端の唇をあてる部分に下唇を乗せて、胴体に並べられた丸いボタンのようなものに両手を添えた。
白くて細い指を小刻みに動かして、妹原が静かにフルートを吹きはじめる。フルートの高く澄んだ音が夜のプールサイドに響きわたる。
その音色はきれいで、とてもやわらかいものだった。上品でどこか優しい音色が夜空に溶け込んで消えてゆく。
フルートの名前は当然知っているけど、実際の音色がどんな感じなのか、こうして聴くまでまったく知らなかった。
笛だから、てっきりソプラノリコーダーなんかと同じ感じなんだと思っていたけど、聴いてみるとまったく違う。なんというか、フルートの方がかなり上品な感じがする。
妹原が吹いている曲は俺の知らない曲だけど、流れるような音程が心地いいきれいな曲だった。オーケストラやクラシックとかで流れていそうな曲だが、これ以上の感想は残念ながら出てきそうにない。
妹原に近づきたいのに、オーケストラやクラシックの知識がないのは致命的だな。そんなことに今さらながら気づいてしまった。
静かに、そして真剣にフルートを吹く妹原は、すごく美しかった。イメージはいつもの物静かな妹原だけど、どこか繊細で大人びた印象を受けるのだ。
妹原は、やっぱりすごいフルート奏者だった。フルートの腕前は音楽の評論家も絶賛させるほどだって、入学当時から聞いていたけど、その噂に違わぬ――いや噂以上のすごさだと俺は思った。
テンポの早いクライマックスがすぎて、木漏れ日の音楽のような曲調に戻る。何分ぐらい吹いていたのかわからないが、ゆるやかな音階がそよ風のように引いていき、フルートの曲が終わりを迎えた。
俺たち四人は、言葉もなくたたずんでいた。俺たちの想像をはるかに超えるうまさだったから、呆気にとられて言葉が出てこない。
プロの生演奏を聴いているみたいだ。妹原がこんなにすごいやつだったなんて。
しかし、そうとは知らない妹原は、沈黙の気まずさに耐え切れなかったのか、
「ダメ、だった……かな」
今にも消えてしまいそうな声でつぶやいた。
「あ、いや」
なんでもいいから妹原に声をかけてあげなければいけないが、喉が乾いているからとっさの言葉が出てこない。
さっきは炭酸飲料を浴びるほど飲んだっていうのに。
俺は、銀色のフルートをにぎりしめている妹原をただ眺めているしかなかったけど、
「すごい!」
となりで声をあげてくれたのは上月だった。
その声で沈黙から解放されて、津波のような拍手がプールサイドを盛り立てる。後ろで聴いていた松尾さんや長内さんもうなずきながら拍手していた。
「さっきのって、なんていう曲なのぉ?」
弓坂が立ち上がって妹原に尋ねる。妹原は少し照れくさそうだけど、嬉しそうにこたえた。
「さっきの曲は、アンデルセンの二十四の練習曲っていう曲なの。ケーラーの練習曲と並ぶ有名な曲なんだよ」
「そうなんだぁ」
「他にはないの!?」
上月も堪えきれずに立ち上がって、ふたりの輪に入る。女子三人の仲良しトークがまたはじまってしまった。
「妹原は、本当にすごいやつだったんだな」
俺の右どなりで視聴していた山野も感嘆して言葉を漏らす。
「学校の噂なんて半分くらいしか信じていなかったが、予想以上だな。これならプロ顔負けだと絶賛されるのもうなずける」
「そうだな」
俺は音楽なんて全然知らないけど、それでも妹原の腕前がすごいのは肌でわかる。このレベルだったら音大なんて簡単に受かっちまうんじゃないのか?
「あ、そうだ! この曲だったら、麻友ちゃんや未玖ちゃんも知ってるかもっ」
そう言って妹原がまたフルートをかまえて演奏をはじめる。みんなから褒められて、どうやら緊張が解けたみたいだ。
今度の曲は、さっき吹いていた曲よりもテンポの遅いやわらかい曲だった。上月と弓坂が、「あ! これ知ってる」と声をあげる。
どうやら有名な曲らしいが、俺はまったく知らない曲だな。山野も肩を竦めているから、たぶん知らないようだ。
その後も上月と弓坂が演奏をねだって、妹原が何曲か吹いていた。はち切れんばかりの笑顔で。
妹原は、やっぱり素敵な女子だな。この笑顔が見れただけでもう、幸せだった。
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