神代タクトの願い事

 帰宅したときのタクトは、母親と鉢合わせしないよう気構えていたことから、野生のネコのような不審者じみた雰囲気をまとっていた。まず庭先の石垣越しに庭をのぞきこんで、庭に母親がいないのを確かめて、そうしてから別のポイントへ移動して、同じように庭を改めた。門から庭に入り込むときだって、物音で勘づかれないように抜き足差し足だった。あたりへの警戒も怠らなかった。

 タクトは玄関からではなく、部屋の窓から中に入った。玄関を開けたら目の前に母親、という構図は絶対に避けたかった。狭い場所で母親と対峙するなんて鳥肌モノ、目が合った瞬間に突進してくるとなればたまったものじゃない。外に逃げればよいものの、地の果てまで追いかけてきそうなのでやりたくはなかった。

 自室に荷物を置いてもなお、タクトは緊張をほぐさなかった。残念ながら部屋に鍵は取りつけていない、だからその気になれば母親は部屋を強襲できるのだから。以前であれば、ない、とかかっていたのだけれども、今の母親はなにをしでかすか分からなかった。そのためいつでも窓から逃げられるよう、窓のそばで服を着替えた。母親がいるかもしれないという警戒の一方、家の中の物音はひとつもしなかった。

 もしかしたら今、母親は家にいないのかもしれない。ブレザーをハンガーにかける手が止まった。母親はまたもや社でわら人形の惨殺ショーを繰り広げている。校門を出たときにその可能性については十分知っていたし、だからこそ社へ行くのをやめた。

 社に行かなくてよかったと安心したとはいえ、心の底から安心して家の中をフラフラできるような状態でないのも確かだった。万が一にも母親が現れたときにはすぐ動けるような状態でなければならないし、極力は避けておきたい。

 母親が家にいるのか確かめて安堵しようと、タクトは戸に耳を押し当てた。廊下の音に耳を集中させるべく目を閉じた矢先、肩に触る手があって、耳を優しくなでる声があった。

「なにをなさっているのです、タクト様」

「外にだれかいないか確かめてるんです」

「タクト様の母上様と、おもめになったのですね」

「もめたなんてものじゃないです、母親は俺を包丁で刺し殺そうとしたんですよ。アヤメ様、あと、俺の母親だという言い方はやめてもらっていいですか。不愉快なので」

「申し訳ありません。それでタクト様、やはりあのわらは見せたのですか」

「見せたに決まってるでしょう」

「そのような行いをすれば話し合いができる状態ではなくなるでしょうに、どうしてそのようなことをなさったのです」

「母親に現実を見せつけたかっただけです。俺はあんたのやってることを知ってるんだ、って。それが話し合いにつながるかどうかなんて関係なかったんです」

「ですが、それではまるでタクト様の理念に反してはいませんか?」

 アヤメにはタクトの荒々しいやり方に納得いかなかったようであった。話し合いで呪いを取り除く。わざと母親を挑発したタクトの行いがこれにはそぐわないと思っているのである。むしろ呪いへと突き進むエネルギーを増やしてしまう、しまいには呪詛としてタクトは人を殺めなければならなくなるというのに。

 しかし、タクトの答えは否だった。

「人を殺したくないのは変わっていません。ですが、今回の件はちょっと話が違うんです」

「呪詛の結果によっては人を殺めることになってしまいますよ」

「ですから、赤の他人の話にはそれを避けるように考えてるんです。なにも知らないから、もしかしたら解決できる道筋があるかもしれない、だから解決することを前提にコトを進めるんです。ですが、今回は身内の話。俺は母親という人がなにをしてきたのか知ってます」

「でしたら問題をほぐすにもたやすいかと」

 タクトは耳をドアから離すとノブに手をかけて、廊下へと出た。外からの火の光も入ってこないがために陰気な空気が漂っている。唯一玄関のくもりガラスから入りこんでくる光が年季ものの廊下を照らして、べっこう飴に似たつやをもたらした。

 一歩踏み出した床がきしんで木の繊維が破ける音がしたとき、それとは違う別の音に気がついた。抑え気味な調子でうめく音は大型獣の威嚇を思わせたけれども、周りにあるのは樹と花ばかりであって、動物園ではない。タクトは立ち止まって、戸の前でしたように目をつぶった。耳だけに意識を集中すれば、後ろの方から聞こえてきた。

 うめき声、苦しみ。体の中からとろとろ漏れてしまっている声。

 音の正体がサチ姉の声だと悟ったときには、タクトは自室から外に出ていた。アヤメの姿を見やる余裕はなく、アヤメの言葉に言葉を返す余裕もまたなかった。家の周りを半周してサチ姉のガラスにたどり着いて、窓を開け放つと同時に足にしがみつく靴を蹴り飛ばした。

 体にまとわりつくカーテンを押しのければ、布団の中でサチ姉が悶えていた。布団の下で右に左にと激しく身をよじって、掛布団はクシャクシャに波立っていた。タクトはサチ姉のもとに滑り込むなり布団をはがした。サチ姉は上着のちょうど胸のあたりをわしづかみにしている。タクトが肩を掴んで悶える体を抑え込むのだが、サチ姉とは思えないほど強い力で体が跳ね上がろうとしたり持ち上げたりしようとした。頭が右に左に激しく振られた。タクトに追いついたアヤメはサチ姉の様子を見て、祟りがついに姉上様を食らおうとしています、とつぶやいた。

 連中の視線が集まってくるのを感じながらも、タクトはサチ姉に声をかけ続けた。かける言葉は励ましのそれら――がんばって、こらえて、俺がいるから――だけれども、サチ姉は十分がんばってきたのにこれ以上がんばれというのもなんだか酷だった。でも、タクトにはこれ以外にできることがなかったし、神に頼ってなんとかしてもらおうとしたってすぐそばにいるのは命を救える神様ではなかった。

 苦しむ声が一層強まった。サチ姉の声が強まるに合わせてタクトの呼びかけも同じように大きな声となっていった。サチ姉を苦しめる原因にぶつける声は腹の底からひり出した。しかしサチ姉の苦痛は治まるどころかより強まったらしい、タクトが口にするよりも大きな声をあげた。うめき声とするにはあまりにも大きすぎる、絶叫とするのが正しいほどの声だった。

 祟りに押しつぶされつつあるサチ姉の手が緩んで服から離れた。かと思えば、タクトの首を手がつかんでいた。首に加わる力を感じたときにはもう遅かった。頸動脈を締めあげる力はサチ姉の細い腕にはそぐわない強さ、首の筋はぐにゃりと歪み、神経が直接握りつぶされるのではないかと思えるほど痛かった。喉も押しつぶされて声が出なくなった。サチ姉に呼びかけようにも、出てくるものはなにもなかった。サチ姉の手を引き離そうとしても、びくともしなかった。

 長女は衰弱したのち、一家を殺す。祟りがついに最終局面を迎えようとしている。サチ姉は依然として叫び声をあげていて、痙攣したかのように動く首はもげてしまいそうだった。足もまた、強烈な蹴りを掛け布団に、敷き布団にはかかと落としを浴びせた。

 突然タクトをタックルのような衝撃を脇腹に受けた。祟りに突き動かされる腕にタクトの意識が途切れそうになっていて、受け身も取れず、窓に体を、壁に頭をしたたか打ちつけた。頭に血が巡ったタクトの世界から白いモヤがなくなって、代わりに頭をぶつけた痛みが襲ってきた。生まれた赤子がはじめて外界の空気を吸うように、タクトは必死に空気を取り込んだ。

 タクトの正面にサチ姉がいた。そして、タクトがいた場所には母親がいた。首を絞められないためにか、サチ姉を抱きしめて、腕が動かないようにした。おぞましい声をあげながら体を激しく揺するサチ姉を必死に抱きしめていた。

 サチはだれにも殺させないから。私が生かしてあげるから。私の大切なサチ。ほかのだれのものでもない。

 母親の言葉はサチ姉を励ましはしなかった。ただ生かしてあげるという内容だけだった。母親の思いが言葉になれば、ますますサチ姉の声は激しく、恐ろしくなった。もがきも激しさを増す。

 苦しみ悶えるサチ姉の姿を見ているのがつらくて、ぽろぽろ目から涙があふれ出てきた。サチ姉は今、祟りに身を沈めているのだ。祟りに命と心を奪われて、一家を殺す鬼と化す。まさにその狭間にいるのである。

 サチはだれにも殺させはしない。あの男にだって殺させはしない。それに、サチはだれも殺さなくていいの。私のお姉ちゃんがしたようなことをしなくていいの。

 母親の言葉に呼応するようにサチ姉は悶絶した。連中の視線が一層強まる。母親の言葉は連中を、祟りを逆なでしているのである。それによってサチ姉は拷問以上の苦しみを与えられて狂人へと姿を変えて、タクトたちを睨みつける先人たちの目は母親の言葉の無責任さに恨みを強める。

 タクトの中にある種がひとつ芽吹いた。サチ姉を苦しめている張本人。先祖の行為に対する償いから逃避する張本人。タクトを常にないがしろにしてきた張本人。そのような人間はいなくなればよい。

「アヤメ様、母親を殺してほしい。この願い、成就させてもらえますよね」

「タクト様、それはタクト様の」

「いいからあの母親を殺せ! これ以上耐えられません!」

「かしこまり、ました」

 タクトは苦しむサチ姉を拘束する母親のもとに這って進んだ。母親は近づいてくるタクトに対して、とっとと出ていけ、サチは私の娘だ、とわめき散らした。タクトはしかし立ち止まるのを知らない、母親の腕をつかむなりサチ姉から引きはがした。サチ姉から離れた母親を次は突き飛ばして畳に倒した。

 たちまちタクトはサチ姉に首を絞められたが、タクトの視線の先にいる母親には、すでに呪詛が力を及ぼしているようだった。胸のあたりを押さえて、サチ姉がしていたように身をよじっている。目が飛び出てしまいそうなほど見開いていて、口もぽっかりと開けていた。けれども目を見張るほどの激しさはすぐになくなって、ついには目を開けたまま動かなくなった。

 母親が止まってしまうと、タクトの首に食い込んでいた指が力を失った。金切り声もすっとなくなって、急に大人しくなった。タクトは指をサチ姉の手首にそえた。指はサチ姉の脈を感じ取る。サチ姉はまだ生きていた。

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