南京錠を脱する
家に帰ったところ、サチ姉の部屋に南京錠がかけられていた。タクトは言葉を失って、その場に立ち尽くしてしまった。サチ姉に会うことができないことにショックといらだちを覚える一方で、説得をするために考えていた言葉があっという間にこぼれ落ちて、ヨシワラのために取り出していた言葉たちが全部なくなってしまった。
サチ姉に会えない。サチ姉に相談できない。サチ姉の顔が見れない。たとえ体が弱いとしても、どうして部屋に外からカギをかけて閉じこめるマネをしなければならないのだろうか。サチ姉に暴れまわるような力もないし、鍵をかけたところで病原菌がさえぎられるわけでもない。
タクトには犯人が分かっていた。こうサチ姉にしでかす人はひとりだけ、張本人にタクトは言い寄ったけれども、あんたが言いつけを守らないで勝手に出入りするからだ、と言い放った。タクトが勝手に入りこまなければサチ姉の体調だってもっとましになる、と不条理で筋の分からない言葉を叩きつけてきて、一緒に平手を一発、頬にくらった。
予想はしていた型にはまった展開だった。母親はタクトに対しては冷たい扱いをする。タクトと比べればサチ姉のことばかり考えてはいるけれども、それもどこかずれている。大切ならば南京錠で閉じこめておけば体調が回復するとは思わないはずである。だが、母親は事実、原始的な鍵が正しいことだと考えているし、タクトが中に入るだけで悪影響があると考えている。
タクトは部屋で座卓を前にあぐらをかいて、ふざけんなよ、と毒づいた。ため息の吐息の中で発せられた言葉で、ため息も毒も同時に口からこぼれ落ちたのだった。母親のした行為が許せなくて、南京錠を壊せる武器が部屋になかったか見回した。母親を殴るのに使えそうなものはいくつか目に入ったけれども、金属の塊である南京錠を粉々にするには、どれも貧弱だった。手だてがなくていらだちを隠せないタクトは座卓に拳を叩きつけて、激しい音が飛び散った。
部屋に散乱した音はタクトを縮こまらせた。すぐに脳裏をかすめたのは布団の中にいるサチ姉の姿だった。そう、サチは布団にくるまってじっと堪え忍んでいるのである。体の弱いことをよいことにちょっかいを出す連中。普通の体や心でも参ってしまうような行為が通り過ぎてゆくのを、じっとその場でこらえていなければならないのである。なのに、タクトはサチ姉の防御を邪魔しかねないことをしてしまった。大きな音を出してサチ姉を起こしてしまってはならないし、聞き心地の悪い音を聞かせ続けでもすれば、それこそ本当におかしい母親のいう通りに悪影響を及ぼす原因となってしまう。
サチ姉のことを考えたら、南京錠を壊すなんてできない。壊すときのけたたましい音がストレスになってしまう。母親の横暴に対抗できないことが歯がゆくてたまらなかったけれども、サチ姉が平穏に生きてくれるに越したことはないのだ。
黙って首を横に振るタクトの肩に触れるのはアヤメだった。左の顔に目を向ければ、視界の隅にいつも見えた、露出した肩がなくて、着物が覆っていた。ずっとはだけっぱなしの肩がちゃんとしている、しかしタクトは初めての光景に驚きはしなかった。驚けなかった。ただ、アヤメ様、とつぶやくのみだった。
アヤメは、気を落とされております、と事情を全く知らないかのような振る舞いをした。なにも口にしていないのに、部屋の中に痕跡はないのに、ああさようでありますか、と不自然な言葉を口にはしなかった。ただじっと、手を添えて、タクトの口を見つめた。
タクトの言葉に張りはなかった。ごく数分前に起きた衝撃的でむごい仕打ちについて、蛇口からちょろちょろと水が漏れだしているような調子でしゃべった。声の大きさまでは弱くなっていなかった。
「タクト様は姉上様がお好きでいらっしゃるのですね」
「俺にとっては母親も当然です。実際の母親があのザマなので、頼れるのはサチ姉だけだったんです」
「ですが、そこまで体調が芳しくないとなると、心配でありましょう」
「だから、部屋に南京錠をかけたのが許せないんです」
「どうして母上様はそのようなことをなさったのでしょう。わたくしには分かりかねます」
「俺だって知りません。ふざけたマネをしてくれました」
アヤメに話したからか、タクトの中をむしばんだショックは幾分か和らいだようだった。それでもなおアヤメの着物が見覚えのない柄となっているのにタクトは気づかなかった。振袖のところに配置された大きな牡丹の存在感にもかかわらず、である。巨大な牡丹よりもタクトの意識を引き寄せているのはなにかといえば、憤りだった。
いい加減にしろよ、タクトの口調に圧力が戻った。しかし力強さとは違うものも混ざるようになっていた。母親の振る舞いへの赤く燃える感覚、心をじわりじわりと破ろうとする、鈍くも凄まじい衝動だった。
アヤメの手が、肩に加えて頭にかぶせた。
「タクト様、悪しき言霊がにじんでおります」
「そりゃそうでしょう、あんなマネをされて、原因は自分にあると言われたんですよ。怒らない方がおかしいです」
「ならば、タクト様は呪詛をお望みですか」
タクトにはその言葉がひどく頭を打ちつけた。呪詛を用いて、母親を苦しめてやりたいのか? 後悔させたり悔い改めさせたりしたい気持ちはあるが、苦しめたいわけでもなければ、呪詛を使うなんてもってのほかだった。たとえどれだけ嫌な思いをしたとしても、呪詛に頼るのはよくない。母親に願うは南京錠を外すことだけだ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
タクトは肩と頭にあるアヤメの手を奪い取って、それからアヤメと正対した。それぞれの手を自分の手ではさみこんで、呪詛を勧めるようなことは二度としないでほしい、と言葉した。強さを持ちながらも、かといって怒りは含まれていない、きわめて落ち着いた調子だった。
俺は呪詛には頼りません。神の力ではなく、人間の力で――
しかし、次の瞬間に声に強さがなくなって、声が単なる反響音のような色合いとなった。視線はアヤメの肩越しに見える窓に切り取られた光景だった。戸口を照らす光がこぼれている一帯に人が見えた。あっという間に見えなくなって、タクトは目を疑った。ついに耳に聞こえるだけではなくて連中が見えるようになったのか、と。しかし単純に闇の中に紛れただけで、門柱の上にある一対のソーラー式ライトの照らすおぼろげな光に再び現れた。華奢なシルエットと、寝巻のパステル調。ほの明るいのではない、日なたのよう明るさにいる姿がタクトには見えた。
サチ姉が外にいる。二度目のことだった。
ぬるりとアヤメの前から抜けて、窓ガラスを開けて、外に出る。無意識のうちにタクトはサンダルを履いて、サチ姉が立っていた門に立ち尽くしていた。自らが明かりに照らされている中、身を乗り出して外の闇に目を凝らした。しかし目に入るのは暗闇に溶けかけている道路やら植物やら電柱の輪郭だった。電柱についている電灯がサチ姉の姿を捉えているかと言うと、ほとんどが破損していて役に立たず、役に立っている街灯が照らすのはだれもない電柱の根元だった。
だれかいらっしゃいましたか、と背後から聞こえた声はアヤメだった。
「サチ姉が、また外にいたんです」
「南京錠をかけられたという、姉上様ですか。見間違いではないのですか」
「はい、確かにサチ姉がこの場所を通って、どこかに」
「ところで、姉上様はどちらから外に出られているのでしょう」
「どうなんでしょう、よくは分かりません。歩くのも辛いはずなのに、どこに行くのか、本当に心配です」
「きっと大丈夫です。体の調子は本人が最もよく知っていることでしょう」
アヤメがタクトの横に並んだ。背筋をまっすぐ伸ばして、手を前で組んでいるさまは、どこかの呉服店のカレンダーの中にいるモデルかマネキンぐらいしか表現できない姿だった。見とれてしまうぐらいの美しさで、タクトは弱い光の中に浮かび上がる牡丹のきれいさに目を奪われた。このときになってようやくタクトは気づいたのだった。
立て続けにむき出しとなっていない肩にも気づいて、タクトはあっけにとられた。いつ服を変えたのかタクトには分からなくて、わずかばかりに頭が混乱した。アヤメのこの服はなんだ? しかし目の前の問題には雑念もさっと転がり消えて、サチ姉の行く先に頭が切り替わった。
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