呪詛

 アヤメの言葉はあの言葉のようにタクトを激しく攻撃しなかったものの、重くのしかかってきているのは確かだった。朝から晩までずっと陰鬱な気持ちで、なにをするにも体が重かった。あの言葉が尾を引いている上に、あの言葉を願っているのがこの学校の生徒であるという事実がただひとつにして最大の原因だった。

 早いところ学校から出たい。あるいは、学校に住み着いている連中の話し相手にでもなって、学校にいることを忘れたい。少しでも話しかけてくれる連中が来るのを期待して、今日の俺はすごく話したい気分だから話しかけてこいよ、と心のうちで呼びかけた。だが、本来当然のことだけれども、無音の呼びかけに答えてくれるものは現れなかった。

 机に目線を落としながらため息をついて、視線をもとの場所―ちょうど前の引き戸のところへ持ち上げた瞬間、タクトの視界を誰かがさえぎった。一切の考えなしに、ふと顔をあげてみれば、ちょうど女のクラスメイトが肩にしていたバッグを机の横のフックにかけているところだった。

 憂鬱に満ちたタクトの頭が急に澄み渡って、糸が一本ぴんと張りつめた。まっすぐ伸びた糸からはたちまち酸がしたたり落ちて頭の中を焼く。激しい衝動に目を逸らそうとしても、酸に溶かされた頭には頭を動かすのも、手で目を覆うのも、まぶたを閉じるのもできなかった。前を通り過ぎた女の座っている姿に、図太い視線を送る。ただそれだけ。

 焼けただれた脳内で、ふたつの像が並べられる。この瞬間に目に収めた女の後姿と、男に捨てられてにげさってゆく哀れな女の後姿。重なり合いもせず、ただぴったり隣同士に並んで、タクトを試している。さあ、私たちのどこに違いがあるの? ふたりの後姿がかもしだす存在感に、タクトはただ呆然とするしかなかった。

 タクトの記憶が正しければ、あの席に座っている女は、ヨシワラという名前だった。クラスの中で存在感があるわけではなく、むしろ薄い方だった。始終無口でだれかがヨシワラに話しかけているのも、逆にヨシワラがだれかに話しかけているのも見たことはなかった。無口で存在感が薄くて、多分おとなしい。このクラスで一番よく分からない人だった。

 タクトの陰鬱で腰の重かった気持ちは、ヨシワラをひたすら観察するという衝動にかられて、タクトはそれに素直に従った。朝のホームルームがはじまってからずっと後ろ姿を見続けた。ほかの生徒で見通しはよくないけれども、肩から上についてはだれにも視界を邪魔されなかった。

 授業のメモやら問題を解くのにシャープペンシルを走らせるも、ほとんど意識をしてペンを走らせていなかった。頭はもっぱらヨシワラの挙動を追っていた。黒板を見て、それから机に視線を落として、また上を向く。ただこれが幾度となく繰り返されるばかりなのに、必死にその動きを観察した。使い道は特にはないけれども、なにかが見つかると思ったのだった。よく分からないヨシワラに知られざる事実があるのをタクトは知っている。最も長い間同じ部屋にいる学校で、その欠片が見つからないかと考えているのだ。つまり、タクトはヨシワラに関心が湧いたのである。

 けれども、ヨシワラは単調な動きの連続に終始して、昼休みは教室の外へと消えてしまった。以前ならばカレシのもとへとでもワクワクしながら駆け足だっただろうものが、今日はどこへ行こうとしているのであろう? 彼女が向かう先にはだれがいるのであろう? 友人関係の広い人とは思えないし、むしろ狭い人だと思うし、いいや友人関係がない人かもしれない。ひとりぼっちで、あの苦しさに満ちた言葉を心の中に押し込んで、冷めた米を口にするのだろうか。

 学校が終わった後もタクトはヨシワラを追った。校外に出てからはアヤメも一緒についてくる形となった。アヤメが耳元で、あの者です、とそっと告げたけれども、タクトはすでに分かっていたことだったから、そうですよね、と淡々とした受け答えをした。

 ヨシワラは今日もまた笹で隠された参道への入り口を通って、それから黒鳥居を抜けた。すたすたと早足で階段を下りてゆく姿を前にタクトも参道を下ったけれども、そのときになってようやく、いつも隠れている祠の裏に隠れられないことにはっとした。境内まで下りてしまうと、隠れられる場所は社の裏以外にはどこにもない。参道の途中に大きな岩があるのは覚えているが、はてさてその岩に身を潜められるか、この点はやってみないと分からなかった。

 参道の大岩に差し掛かったところで参道から逸れて、タクトは岩の周りを探った。身を隠せるくぼみはなかったものの、岩の存在感がありさえすれば十分、参道からは死角となる場所があった。

 アヤメには岩に張りつくようなタクトの行動が理解できないようで、どうして女の後を追わないのか尋ねた。タクトの体はアヤメのそれとは違って人の目に見えるから、参道を下りてしまえば見つかってしまう、とだれでも分かることを説明して、アヤメひとりでヨシワラの振る舞いを見てくるよう言いつけた。

 タクトの位置からでは、祠に向かって拍手を二回する音がかすかに耳をかすめる程度で、そのほかには時折風が葉を揺らすそれぐらいしか聞こえなかった。物静かな状況が続いているのはいつもと変わらないけれども、社から離れたところにいるからか、不思議と恐怖心が湧かなかった。

 ただ一瞬、足音が間近で聞こえたときだけは肝が縮み上がった。見つかってしまう! そう直感が訴えて、タクトはもっと見つからないようもっと体を小さくしてより見つかりづらいように努めた。しかし足音はタクトのビクビクとは裏腹に、足音はペースを崩さずに参道を上っていった。ことなきを得たタクトは、安堵の息を漏らしたのだった。

 岩から参道を見上げてヨシワラの後姿を見送ってから、タクトは岩陰からアヤメのいる境内に下りた。アヤメは祠の前にしゃがんでなにかをしているらしかった、タクトからはアヤメの背中しか見えず、賽銭を拾っているようにも見えた。

「アヤメ様、なにをしてるんですか」

「タクト様、言霊は呪詛となりました」

「え、アヤメ様、今なんと」

「あの者の言霊は呪詛となりました。わたくしはその呪詛が成就するように力を用いて、タクト様にはその執行をしていただかなければなりませぬ」

 アヤメが振り返って手を差し出せば、手のひらには人の形をしたものがあった。破かれた紙ではない。アヤメの使いとして見覚えのある、わらでできた人間だった。体中に釘が突き刺さっていて、それはそれはえげつない有様だった。ヨシワラがアヤメの使いをひっとらえて虐殺したかもしれないとタクトの頭をよぎるものがあったけれども、アヤメはタクト以外に見えていないのだから、それはありえないとすぐさま自分に言い聞かせた。

 タクトの心は奈落の底をたやすく突き破って、深淵の果てかなたへと落ちてしまった。アヤメの言葉はつまり、ヨシワラのカレシを寝取った女を殺せ、という殺人の命令にほかならなかった。

 タクトは目に手を当ててうなだれた。ついにこのときがやってきた。首を横に振ってみたけれども心境にはなんの変化はなかった。目の前に掲げられた目標、人殺し。さて、アヤメは殺し方を教えてくれるのだろうか、それとも、殺し方からタクト任せなのだろうか。ハンマーで殴打、ナイフで刺殺、少年の件を踏襲しておぼれさせるか、あるいは、猛毒を盛るか。それら方法は、タクトにじりじりと迫ってきた。

「タクト様、恐れることはありませぬ。タクト様が血を浴びてしまうような有様にはなりませぬ」

「でも、殺すには変わりないじゃありませんか」

「それを願う者がおります。わたくしは、その者どもの声を成就させるのが務めであります」

「俺は殺しなんてしたくない」

「いいえタクト様、言霊が呪詛となった今、取り返しをつかぬところまできています」

「ならば呪詛そのものをなしにしてしまえばいいじゃないですか。それもできないんですか」

「呪詛の執行を取り消すことはできます」

「ならそうしてください!」

「しかし、呪詛そのものが消えるわけではありませぬ。対象を失った呪詛は、その呪詛を願った者のもとへと帰るのです」

「ならばそれでいいじゃないですか」

「呪詛は願った者に作用します。つまり今回の場合、呪詛が返されれば、願った者は亡き者となります」

 目を押さえる力さえもなくなった。視界の中で虐殺されたわら人形が横たわっているが、目を逸らす力さえも残っていなかった。ヨシワラの言葉はタクトを苦しませたが、アヤメの宣告は絶望を与えた。もはやタクトがだれかを殺すのは避けられなくなっている。願いどおりに人を殺すか、願いを拒んでヨシワラが死ぬのを待つのか。選択肢はタクトにゆだねられているというのがまたタクトを追いこんだ。やりたくないことをされるなら、とことん強制されたいものである。

「わたくしとしては考えがあります。呪詛を成就させるとともに、タクト様の苦しみをも軽減させるものであります」

「それでも、殺すことに変わらないじゃないですか」

「殺したという実感はわかないと存じますので安心くださいませ」

「実感の湧く湧かないなんて問題じゃありませんよ」

「それでも、なさねばならぬのです」

 アヤメは祠の正面に藁人形を立てかけるとタクトに一礼して、それから背を向けて歩きはじめた。歩いたとたんに体が透けていって、五歩脚を進めたころにはどこにもその姿を見つけられなくなってしまった。荒んだ社の境内にひとり取り残されて、木の葉の音に四方を囲まれてしまっていた。さわざわと何者がうごめいているような音が、あたかもタクトに殺人を強要する無数の声のようだった。道は閉ざされたぞ、やるしかないのだ、その手を血に染めろ。

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