ウォッカ

 タクトは女の言葉にありとあらゆる力を吸い取られてしまったらしかった。後片付けもせずに社を後にして、フラフラと階段を上っていたのは覚えているけれども、家に帰ってくるまでのことをよく覚えてはいなかった。はっきりとしているのは、母親に対して、食欲はないから夕食はいらない、と言ったところからだった。サチ姉相手にはすごく甘い言葉をかける母親は、タクトに対しては、一切の反応を示さなかった。

 無関心だった。

 タクトはフラフラとした足で部屋に入って、座卓と本棚との狭いすきまをぶつかりながら抜けて、ベッドの上に座りこんだ。あぐらを組んだり立て膝をしたりはしないで、力なく投げだしたままだった。

 アヤメはいつもの場所で酒をあおっていた。タクトの異様な様子を全く気にしていないような雰囲気だった。何事もなかった、順調にレンガを積んでモルタルを塗りたくって境内の境界線も花壇も作り上げただけ、今日の出来事をまるで分かっていないかのようだった。

「タクト様、あの女の言霊に毒されております」

「だって、今日のあの人は人を殺せって言ってるんですよ」

「それがあの女の呪詛の源であります」

「願うだけで人を殺せるものなんですか。実際に殺すことになるのは俺じゃありませんか」

「殺すこともできます。ところで、どうして殺すことを気にかけるのでしょう?」

「俺は人殺しなんてしたくありません」

「タクト様は人を殺しません。ただ呪詛を成就する手伝いをしていただくだけであります」

「今回は人を殺すことじゃないですか」

 タクトは感情を表に出す力も残っていなかった。怖くてイライラする、タクトの内なるところはあの言葉に恐れおののいたのである。ただ、自分がこの先人を殺すこととなる、これからくるものだけではない。神様に人殺しを願う人の心がタクトを怯えさせるのである。どうして神聖なものにそのような邪なことを願ってしまうのだろう――そもそも呪詛を司る神様が存在してよいものだろうか。

「タクト様、勘違いしているようでありますが、あの女の呪詛はまだ力が足りませぬ」

「あんなに恐ろしいこと、一発で呪詛になるでしょう」

「確かにあの言霊にはただならぬ力がありますが、あの言霊が呪詛となるにはより多くの言霊としての力が必要となるのです。相応の呪詛には相応の言霊が求められるわけであります」

 それでも、結局はタクトが人を殺す日が延期されたに過ぎないのは分かりきっていた。たとえ今呪詛となるに足らない言霊だとしても、この先必ず呪詛となることはタクトでも感じ取っていた。なにせあの言葉だ、殺してほしいとかお願いだから殺してください、なんて物腰の柔らかな言葉ではなかった。殺せ。命令形ときた! いかにも強要しているような大声ではなく、けれどもささやくには大きすぎるその声で口にするのだから、さらにインパクトは強い。冷静に相手は神様に殺せと命じているのである。その場の感情に流されていない分、確実にものにしようとしているのだ。

 タクトの沈黙にずっと背を向けていたアヤメがおもむろに振り返って、ただでさえはだけている着物がずり落ちそうになった。アヤメはけれどもわれ関せずといった様子で、グラスを差し出した。中にはなみなみと透明な液が入っていて、今にもこぼれそうだった。

「清めの酒はいりません」

「酒は浄めにもなりますが、それだけではありませぬ。嫌な記憶を忘れることにも十分に役立つものであります」

「心の中を読んだんですね」

「苦しんでおいででしたので。こういったことは人間にとってごく自然なこと、ごく当たり前のことであります。自然で当然なことをタクト様は悩んでいらっしゃる。常について回るような問題に対して、酒はよい薬となります」

 タクトにはアヤメの言葉をうのみにはできなかったけれども、遠くに見える殺人という言葉を引き離すためにできることはアヤメの手にある酒だけだった。こぼさないようアヤメから小さいグラスを受け取り、グラスの中をのぞきこむ。水のような見た目は、前に浄めとして飲まされた変な酒に似ていた。鼻をつくアルコールのにおい。鼻に感じた薬のにおいはなかったけれども、味は同じかもしれない。後味の悪い味を覚悟して、一気に口に放った。

 痛いのは以前の酒と同じだった。むしろ今回の方が量は多くて、前よりも痛かった。痛さは胸焼けにも似た熱さになって、のどから食道を下って行くのを感じて、胃に入った途端に、まるで燃えているかのようになった。熱が胃から食道に上ってきて、のどの手前まで燃えているかのようだった。

 だが、後味の悪さは一切なくて、まるで水だった。味がしないのだ。

「前の酒とは全然違うんですね」

「命の水と呼ばれているものであります。雑味が全くないので、とても口当たりの良い酒であります。どうやらお気に召したようですね」

「前のに比べれば、ですけれど。相変わらず舌が痛いです」

「それは酒精のなすことでありますから、慣れていただくほかにありませぬ」

「酒にもいろいろあるんですね」

 さようであります、と口にしながら、アヤメは手を差し出した。タクトははじめなにをしているのかよく分からなくてキョトンとしていたけれども、アヤメの手がグラスを催促しているのに気づいて、慌ててグラスを返した。もう酔ってしまわれたのですか、と声をかけるアヤメの声がなんだか楽しげだった。

 なにか楽しそうですね、とタクトが口にすると、アヤメはもちろんだと答えて背中を向けた。楽しくないわけがありませぬ、と振り返った手にはグラスがあって、タクトの飲み干した分が元に戻っていた。

「ところで、どうしてアヤメ様はそこまで酒を飲みまくってるんですか?」

「わたくしにもいろいろとあるのですよ。忘れたいこともあまたあります」

「にしても、全く酔ってないですよね」

「昔は記憶をなくすこともしばしあったのですが、ここ最近は酔うこともできなくなりました」

「ずっと飲んでますもんね。しかし、どこでそんな大量の酒を手に入れるんですか? だれか捧げてでもいるんですか?」

「いえ、いろんなところの棚に並んでいるので、それをいただいてくるんです」

 タクトがアヤメの告白を耳にしたのは、食道に火を流し込んだ直後だった。アヤメは次の盃のために手を差し出してグラスを催促している、自分の口にした言葉がごく普通のことがらのように。それもそうだ、アヤメは酒を持っていく行為が万引きだということに気づいていない! 

 タクトは催促の手を拒んでグラスをアヤメから引き離した。その振る舞いが信じられないといった様子でタクトを見上げるアヤメだったが、タクトにしてみたら、アヤメの行動の方がよっぽど信じられなかった。

「棚っていうのは、どういう棚ですか」

「ところせましと酒瓶が並んでおりました。ほかにもよく分からないものがいくつか――そう、同じものが列をなしていくつも棚に並んでおりました」

「そりゃあそうです、そこは店で、酒は売り物なんです。勝手にもってきちゃダメでしょう」

「あれが今の店というものでありますか。てっきり親切心で並べられていたのかと」

「お金を払わないで売り物を持っていっちゃうのはよくないのは分かりますでしょう?」

「しかし、わたくしにはお金がありませぬ。タクト様、どうしたらよろしいでしょうか」

 どうやら酒が体に回ってきたらしかった。女の声に吸い取られてしまった気力はさも回復したような口調となっていて、頭の中にあるのはアヤメの酒の問題だけだった。ただ座っているだけなのに、上半身が心もとなかった。

 タクトはグラスを抱えている腕がだるく思えて、手ごと太ももの上に落とした。手からグラスがこぼれてベッドに転がって、けれどもタクトは拾い上げるそぶりさえ見せなかった。考えているのはアヤメの問いかけ、集中しているわけではなくて、ぼんやりと漂っていた。

「とりあえず、一日酒を断ってみるのはどうですか。それでだめなら最低限の量だけ失敬して、我慢できそうならば続けてみる形で」

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