懺悔は棚に上げよ

 少年は全身びしょびしょになっていながら、なぜかタクトを相手に土下座で謝った。額をつけて謝ると同時に、ランドセルから水が頭に流れる様はまさしく追い討ちだった。ごめんなさいこれ以上あんなことをしません、と言葉を並べ続けようとするのだが、泣きじゃくっていたために言葉として認識できるものはそう多くはなかった。正直どう言葉をかけてやればよいのか分からなかったから、気をつけろ、とだけ言ってその場を立ち去った。

 アヤメは目をあけてタクトを待っていて、なにも口にしないで帰り道を歩むタクトの二歩後ろをついてきた。アヤメから言葉を発することもなく、静かな帰り道となった。

 タクトの心に残っているのはズンと重くて濁りきった気持ちだった。やることはやった、ちゃんとアヤメが言っていたように天誅は下したし、自分の良心にも従っておぼれるランドセルを救った。なにも背を向けなければならないことはしていないはずなのだ。なのに、申し訳なくてたまらない。いきなり重たい枷をつけられたかのようだった。

 タクトにはどうしようもなくて、その苦しさをもてあますほかなかった。自分の中では消化できなくて、できることはただひとつだった。自分の部屋とは別の戸をたたいて、薄暗い部屋に足を踏み入れて、病床の姉に話を聞いてもらうこと、吸い取ってもらうこと。それだけだった。

 タクトはあまり多くのことを口にはしなかった。ただ、いじめられている子供のために、いじめた本人にひどい仕打ちをした。人のためになるはずなのに、すごく心が痛む。ただこれだけ、サチ姉は布団で横になって背を向けていた。起きているかどうか全く分からない。

 けれども、タクトにはどうでもよかった。返事なんてどうでもよい、とにかくサチ姉に心の内を吐き出せればそれでよかった。サチ姉が話を聞いているかどうかは知ったこっちゃない。とにかく、サチ姉を前にして、サチ姉の部屋で語りかけることができれば、なんとなくサチ姉が心の中の重たいソレを解毒してくれると思っていた。

 それは、という言葉が聞こえて、布団がもぞもぞとうごめいた。ごそごそ体を転がして、タクトが正座している方へ顔を向けた。人間だから、サチ姉はそう答えた。矛盾は人間に与えられたもののひとつだから、と。

 サチ姉はときどき、ものすごく難しい言葉を口にすることがある。タクトより知恵があるのは当然ではあるけれども、それを踏まえても、とんでもないことを知っていているかのような振る舞いをする。人間が考えもしていないことを知っていて、もしやこの世の人間が知りえないようなこともサチ姉なら知っているのではと思ったこともあった。昔にも――ちょうどサチ姉が家から出られなくなってしまったころだったか――無邪気にも少年は尋ねて、けれども、私の世界はこの家の中だけなのよ、と、やはり年相応ではない答え方をしていたのだった。

 当時は首をかしげるだけで終わったけれども、今のタクトは尋ねることを知っていた。

「どういうこと?」

「タクトは罰を与える一方で、罰を与えてる自分の罪を感じていたの。罰を与えるのに罪を犯している、そんな矛盾」

「それがどうして人間に与えられたものだって言うんだい」

「動物は、というよりも、人間以外は必然のもとに営んでいるのよ。小さな虫だって、ネズミだって、矛盾に陥ったりしない。交尾するにも、餌をとるにも、気が向いたからってやっているわけじゃないでしょう? 必ずそうしなきゃいけない理由があって、それに従っているの。そう、人間以外」

「サチ姉、じゃあ、どうやったら矛盾が、この嫌な気持ちがなくなるんだろう」

「簡単よ、棚に上げるの。自分は矛盾を犯してはいない、そう思えばいいのよ」

 ほら、また難しいことを平気で口にする。矛盾を棚に上げろとたやすく言うけれども、どうやってこの重たい荷物を棚にあげればよいのか。タクトには棚に上げる方法が分からなかったし、あげるべき棚すら自分の手に届く範囲にあるかどうか分からなかった。

 サチ姉はしかし、タクトの理解が追いついていないのを全く意に介さなかった。

「これはだれもが無意識に行っていること。けれども、気づいちゃったタクトには、ちょっと難しいかもね」

「どうすればいいかは教えてくれないの?」

「私だって知ってることと知らないことがあるのよ。それに、タクトなら自力で答えを見つけられるから大丈夫」

「そんな根拠のないことを」

「だって、私の弟なのでしょ? だったらできる」

 布団の中から細い腕が出てくる様はどこぞのホラーかなにかの一場面のようだった。薄闇にうごめく細い棒は蛇のようでもあった。とはいえ、タクトはそれをそうとは感じていなかったし、事実、恐怖心や緊張は一切なかった。タクトは華奢なそれが心地よいぬくもりを帯びているのを知っていた。

 サチ姉の手がタクトの膝に触れた。子供の頭をなでるように膝をゆっくりとこすって、するすると布団の中に戻った。しばらく布団の中で動いていたけれども、布団のきまりが悪かっただけだったようで、身体を動かす兆しはなかった。ただ、タクト、と投げかけられる言葉が耳に触れた。

「苦しいときは全部を投げ出したくなるかもしれないけれど、ぐっとこらえるのよ。考え抜けば、いずれ道は見えてくるものだから」

「つまり、どういうこと?」

「考えなさい、ってこと。相談できなくても、考えることはひとりでもできる。時間がかかったとしても、考えることで答えが見つかることもよくあるから」

「どうしたんだよ、今日のサチ姉、なんか変」

「なんだかね、いつも以上に話そうって気になったの。ほら、そろそろ出ないとお母さんに見つかるかもしれないよ」

 サチ姉は枕の上からタクトを見上げて、ちょんとうなずくようなしぐさをした。本当にかすかな動きだったので、タクトもうなずいたのか、ただ首の位置を変えただけなのか分からなかった。目をじっと見ればどちらか判別がついたかもしれないけれども、そのまますぐに寝返りを打って、向こうを向いてしまった。

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