予言

「ひとつ予言しようか」


 見下ろすと、白い鳩がこちらを見あげていた。

 鳩は、いかにも物知りげに、流暢な日本語で、私に告げた。

「きみは生涯、孤独で過ごすことになる。だけどその代わりに、受け取る悲しみは人の半分ですむからね。ただ、眠るときには膝を折っておかなければならないよ。さもないと、悲しみを足から招き入れることになるからね」


 これが、人生でいちばん古い記憶。場所は保育園の庭じゃなかったろうか。そばに柳の枝が揺れていた気がする。よく綱引きにしては叱られた、柳の木。

 孤独なんて言葉まで鮮明に覚えているのは不思議だ。そんなに小さかったはずはないとも思うのだが、私は予言のとおり、幼い頃から膝を折って寝ていた。親の証言があるからそこは確かだ。


 生涯ひとりきりで生きると知っていたから、私は同級生よりずっと早くに、どう生きていくかを考えていた。女性としての人生設計に悩む必要がないのはむしろ気楽だった。女子の輪に入ってもあまり面白くなかったし。

「あなたっていつも笑顔だけど、人の気持ちわからないよね」

 そう責められた時も当然と受け入れた。だって、人の半分しか悲しみがわからないのだから。そんな私から友人が離れていくのも、また当然と見送ってきた。一生ひとりならば、孤独とは仲良くしておくべきなのだ。

 だから両親が死んだ時にも、あまり取り乱さずにすんだ。警察でも葬儀でも泣かなかった。大勢の死者に家族の名前が混じっていることをうまく処理できなくて、加工されたフィルムの中で生きている気分だったけれど。それでも毎日は変わらず過ぎていった。



 晃と出会って、突如人生の予定表に狂いが生じた。

 孤独でないことに私は混乱して、笑うことが下手になってしまった。悲しみが増える予兆だと内心怯えてもいた。鳩の言いつけどおりに生きてきたはずなのに。

「それは予言じゃなくて呪いだろ」

 打ち明けた秘密を晃に嗤われたのを境に、孤独は少しずつ私のもとへ戻ってきた。結局、鳩の予言は正しかったのだ。恋人がいようがいまいが、孤独の量は変わらない。一緒にいても、抱き合っていても、そこにはひとりきりの人間がふたりいるだけのことだった。晃もそれに気がついたのか、徐々にふたりの時間は減っていった。

 晃が去ったあと残された感情は悲しみに違いなかったけれど、悲しむ量は他の人よりたぶん少なかったろう。半分でこれほど辛いのなら、この倍の悲しみなどとうてい耐えられない。私は冷たい布団の中で膝を抱えた。まだ肌寒い三月の末だった。

 あれから何度目かの春がきたけれど、私は変わらず孤独で半分だけ悲しい。鳩の言いつけも守っている。どちらにせよ、長年その姿勢でいるから、もう足を曲げていないと寝つけない。



 春の日差しに汗しながら、私は何ともなしに公園をぶらぶら歩いていた。会社の花見会に誘われて来たものの、居心地が悪くて途中で抜け出してきたのだ。酒が進めば、誰がいるかいないかなんてわからなくなる。

 花見客のおこぼれを拾いながら、鳩が芝生を行進してくる。その中に一羽、白い鳩がいるのに目を引かれた。白い鳩は行進の群れからはずれ、まっすぐ私の足もとへやって来た。

 くるっくー。と他の鳩が鳴いた。私は静かにかがみ込んだ。白い鳩は逃げずにじっと私を待っている。

「……あんた、あの時の鳩?」

 鳩は頷いたように見えた。近くにいた親子連れの視線を感じたが、構わなかった。

「ねえ。予言は正しいんだよね?」

 白い鳩は私を見上げて、また頷くように首を動かしてから、仲間のほうへ飛んでいった。鳩を追った目の先には、晃が立っていた。

 私たちはふたりして、しばらくぽかんと口を開けて見つめ合っていた。

 最初に声に出したのは晃だった。あの頃と変わらない。驚きを交えながらの挨拶と近況を語った。仕事のこと。家族のこと。

 自分のことについては訊かれたくなかった。だから私は出来るだけ短く話そうとした。軽く自虐的に、要点だけ簡潔に。すると晃は昔のように不愉快な表情になって怒った。

「そんなことを笑って話すなよ」

 そう言うと、踵を返して去っていった。

 晃の向かう方角に、白い鳩が飛んでいた。


 あの場面を何度も夢に見ている。

 目覚めても、膝は折ったままだ。長年の習慣なのに、起きてしばらくは両足が疼く。そんな日が続いた。次第に足の疼きは強くなり、じんと痺れを感じるようになった。ひんやりした塊が夜ごと大きくなり足に溜まっていく。そのうち日中も疼きを感じるようになり、夜は足が気になるあまり、寝不足になった。

 ひと月ほどして、私は晃に電話をかけた。電話番号は変わっていなかった。

 長いコール音のあと、留守番電話に切り替わる。諦めて通話を切ってすぐに、晃からのメッセージが届いた。『どうかした?』

 お願いがあります、と私は画面に打ち込んだ。晃でなければ頼めないことだから。

 一日中返信を待ち続けたが携帯は鳴らず、『いいよ』の返信が届いたのは翌々日の夕方だった。


 土曜日。晃は大きなリュックに細いベニヤ板を一枚抱えてやって来た。

 ロープと毛布とバスタオル。

「トイレ行っとけよ。夜中に起こされても、すぐにはほどいてやれないから」

 晃は私が痛くないように、ベニヤ板にバスタオルを巻いてから私の足の下にあてがい、板と足を毛布で巻いてその上からロープで縛りつけた。板が噛まされているから足は曲げられない。

「いま誰かに踏みこまれたら、おれ確実に犯罪者だな」

「大丈夫。こういうプレイなんですって弁護してあげるよ」

 私が言うと、晃は苦笑した。

 布団の上に、板ごと横になる。板の堅さよりも、伸びたままの足が落ち着かない。

「寝られそうか?」

「わかんないけど、やってみる」

 晃は食卓横の私から見えない位置で、持参の寝袋に潜りこんだ。

「じゃ、おやすみ」

 三分もしないうちに晃の寝息が聞こえた。そういえば昔から横になるとすぐ眠れる人だったと思い出す。

 興奮のせいかあまり意識していなかったが、夜が更けていくにつれて足が疼きはじめた。いつもは膝で行き場をなくし暴れ出す例の塊が、今夜は足が伸びていることに気づき、ゆっくりと進みはじめた。

 足首から膝へ。足の付け根を通ってお腹へ。背中がぞくりとする。縛られているのは下半身だけなのに、腕も肩も動かせない。金縛りとはこういうものかとうっすら考える。

 お腹を過ぎると、ひんやりした塊は身体の温かみにほぐれたのか、血液のように体内の隅々へと流れ出した。胸を通り、方から両腕へ。首から頭へと達したとき、ふいに目が痛んだ。ひんやり冷たい塊が両目からこぼれると、今度は熱いものが溢れ出た。ティッシュの箱を手で探っていると、

「遠慮しないでいいよ」

 と、食卓の方から晃の声がした。え、と喉を詰まらせると、

「鼻をかもうが寝言を言おうが、思いきりやっていいから。おれ寝つきいいし、気にしないから」

 そう言うとあとは黙ってしまい、私が返事できないでいる間に、規則正しい寝息に戻っていた。私は暗がりの中で晃がいる方に顔を向け、とめどなく溢れる涙が流れ落ちるのにまかせた。最初の激しさはやがて治まり、静かに頬をつたう涙となって、窓の外が明るくなる頃には頬は乾いていた。


 私は少し熱を出していた。

 悪いけど帰らないといけないんだ、と晃に詫びられ、もちろんそうだ。平気だと言った。

「もしまた必要だったら手伝いにくるから」

 玄関でそう呟いた晃に、私は深く頭を下げた。

 ひとり部屋に戻ると、置いていかれたベニヤ板が、東の窓から入りこむ陽光をあびていた。鏡の中の顔は、泣きはらしてひどいものだ。濡れタオルで目と額を冷やしながら、布団にもう一度横になる。無意識に膝を立てているのを、片足ずつそっと伸ばす。もう、足を上がってこようとする塊はいない。何十年も溜めてきた悲しみが一気に流れ出た身体だ。

 タオルの下で、またちょっと涙が滲む。

「空っぽだなあ」

 窓の外で、鳥のさえずりが答えた。初夏の日差しが眩しい。



(了)

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