【短編集】箱宇宙

戸田鳥

僕の金魚

 しらす干しのパックを瓶に空けていたら、小さなタコが混じっていた。

 面白がるだろうかと、金魚に与えてみる。金魚はタコを受け取るとしげしげ見つめた。用心深く足を口にふくむと、あとは一気に頭までパクリと食べた。気に入ったのはいいが、せがまれても二匹目はない。あれはたまたまアタリだったんだと言うと、理解しているのかいないのか、憎らしげに僕をにらんだ。


 金魚は人魚だ。つまり、人魚の名前を金魚という。


 二十歳の夏だった。初めての恋人と出かけた夜店で、僕は金魚をすくった。一番大きくて綺麗な金魚を狙って、うまく仕留めたというのに恋人は受け取ってくれなかった。僕は金魚を連れてアパートに戻ると、台所にあったボウルに袋の水ごと流し入れた。水しぶきがぱしゃっとはねて、金魚はステンレスのボウルの中でゆらゆらと踊った。金魚が動くたびにからだの白い部分がほぐれ、そこからか細い二本の腕がはえた。緋色の尾びれと腹びれは細く縮まり、背びれは長く伸びて金色の房となった。目をこすって顔を近づけた僕に、金魚だった人魚はその小さな口から水鉄砲をくらわした。立て続けにそれをやるので台所は水浸しになり、落ち着かせるために何か食べさせようと(金魚のエサは食べなかった)、冷蔵庫のしらす干しをいくつか与えたら大人しくなった。翌日、僕は金魚鉢を買ってきて、彼女のための部屋を作った。

 それからずっと、僕と金魚は一緒にいる。


 金魚はときどき水からあがって、髪を梳いたり僕と一緒にテレビを見たりする。そのためにピサの斜塔のミニチュアを、てっぺんだけを残して水槽に沈めてある。傾いている角度がちょうど具合がいいようだ。夜、僕が布団に入るのを待って、金魚は斜塔に腰かけて歌いはじめる。彼女の髪のように細く輝く透きとおった声で、何語かわからない人魚の歌を子守歌に、僕は夢の中で水とたわむれる。


 僕が最初の恋人とすぐに別れてしまったのも、その後何人かの女性といい感じになっては、踏み切れずに自然消滅してきたのも、金魚が原因だとはわかっている。人間の女性との関わりを疎んじているわけではけっしてないが、金魚との時間には代えがたかったのだ。いまある日常を失いたくない。金魚が僕の人生の最優先事項だった。


 彼女は歌うほかには声を発しなかったが、話せるのではないかと僕は考えていた。こちらの話を理解している素振りも見せるし、歌ってないときも口をぱくぱくと動かしていたりする。(そこは金魚であった頃の習性からくるものだろうか?)歌えるのだから発声にも問題はないはずだ。もしかすると、声が小さすぎて僕に届かないだけかもしれない。

 金魚と語り合えたら、どんなにいいだろう。どんな話が聞けるのだろう。人生に理想がひとつ加わった。


 自分なりの幸福な人生をシミュレーションした結果、僕はあることに挑戦することにした。

 金魚を、僕と同じくらいのサイズにまで大きくすることだ。

 僕はマッドサイエンティストの作り話なんかに興味はない。もちろんこれは現実性のある計画だ。

 人魚のからだは容器のサイズに合わせて伸縮する。それを知ったのは、水槽を洗おうと金魚を洗面器に移したときだった。金魚鉢を洗い終わって、何の気なしに洗面器に目をやると、普通の金魚の大きさであった彼女が、ハムスター大になっていることに気がついた。おっかなびっくりで金魚鉢に戻してみたら、しばらくすると元の大きさまで縮んでいた。

 それ以来、少しずつ大きな水槽に替えて様子をみてきた。いきなり浴槽に放り込んだりするのは乱暴な気がしたのだ。堅実なやり方が一番。

 小振りな水槽から始めて、今は熱帯魚が何十匹も飼えるサイズのものだ。ピサの斜塔では間に合わなくなったので、プラスチックのツリーや模型で足場を整えた。正直、狭い部屋にはかなりの圧迫感だ。金魚は容器いっぱいに膨らむのではなく、そこで無理なく泳げる余裕を計って伸縮しているようなので、僕ほどの背丈にするには水族館並の水槽が必要だった。

 僕は脇目も振らずに働いた。働き通しの疲れは、彼女の歌が充分癒やしてくれる。それから二十数年。ようやく理想の家に引っ越すことができた。壁面いっぱいの作り付けの水槽。家自体の面積からすれば不釣り合いな大きさなのだが、最優先課題は水槽だ。ほかはどうだっていい。水槽の脇に脚立を立てて、トランクに隠れていた金魚を抱きかかえて運ぶ。水槽に沈める道具はまだ揃っていないが、おいおい増やしていこう。


 とぷん。


 金魚が水面で身を翻して、しぶきが立った。広々とした水の部屋を彼女は泳ぐ。狭いトランクから出て自由を得た金魚は笑顔だ。新しい住処がお気に召したならいいが。僕は水槽に額をつけて、彼女の優雅な姿態を愛でた。

 その夜、僕らは二人とも刺身の夕食をとってから、僕は水槽の前で床に寝そべり、彼女の歌で眠りについた。こころなしか歌声が昨日よりも響いている。

 金魚が新しい水槽に順応し、僕とぴったり合う大きさにまで育ち、二人で手を繋いで水中を散歩する。歩くたびに僕はとろけて、いつしか金魚のからだを包みこむ水となる……。

 そういう夢を見た。


 カーテンの隙間から、朝日が顔に射していた。からだを起こした僕は、水の中の金魚と目が合った。ひと晩で、予想以上に大きくなっている。彼女は水槽のガラス越しに僕のほうへ手を伸ばし、口を開いた、やはり何かを話しているように見える。だとしても水の中だから僕には聞こえないのだと、いつもは諦めの溜息が出るところだが、今日からはそれが期待に変わる。

「おはよう」

 朝食にと、昨日買っておいた茹でダコを見せると、金魚は両腕を水槽のふちにのせて、ころころと笑った。声を出して笑うのは初めてのことだった。美しい笑い声に僕は有頂天になった。僕は待ちきれなくて、脚立をのぼって彼女の耳にささやいた。

「リョウ、って言ってごらん」

 僕の言葉に金魚は目を丸くした。僕が手にしたままの茹でダコのほうが気になるのだろう。

「僕の名前を言えたら朝ごはんをあげる。リョウだよ。リョウ」

 少しの間を置いてから、金魚はもどかしげに口を動かして、何度かの練習のあと、

「リ……ヨ……ォ」と、僕の名を呼んだ。

 僕は嬉しさのあまり、彼女の首に抱きついた。そのはずみで、手にしていた茹でダコが水の中に落ちてしまう。

「ああ、ごめんよ」

 金魚の目が、沈んだ茹でダコから僕の顔に移った。彼女があまり見つめるので僕は急に照れてしまい、距離の近さに耐えられなくなって思わず目を伏せる。

 金魚は真珠のような歯を見せると、僕の首に噛みついた。


 僕の視界にあったのは、赤く染まった水だった。

 この水槽では掃除が大変だな──そんなことを思いながら、僕は水へと落ちていった。水の中は温かで、眠りの世界に似ている。このまま眠ってしまっていい。

 金魚の歌を待ちながら、僕は暗闇に沈んでいった。



(了)

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