飛ぶための条件

 次の日。剛司は青羽パラグライダースクールを訪れた。

 逃げてはいけない。

 もう一度頑張りたい。

 そして憧に空を飛んでもらいたい。

 その思いが剛司を行動に移させ、自分の気持ちを固めるに至った。

 どうしたら憧にタンデムフライトを体験してもらえるか。今までの剛司だったら確実に諦めていることだった。インストラクターにもできないことが、自分に出来るはずがない。そうやって可能性を自ら消していた。

 でも、最初から諦めることはもうやめた。決して諦めずにやれば必ず何か残る。そう思えるだけの勇気を一人のアイドルからもらった。剛司がやることは一つしかなかった。

 青羽達で飛ばすことができないのなら、剛司が自分の手で飛ばすしかない。

 残された期間でどれだけできるかわからない。それでも、剛司は前を向き続けることを決めた。

 時間がない憧の為に自分ができること。

 可能性が少しでもあるのなら、それに向かって頑張りたい。

「すみません」

 剛司はプレハブ小屋の中へ顔を覗かせる。土曜日の午前一〇時。この時間帯なら誰かいるはずだ。そう思って来てみたのはいいけど、人がいる気配がなかった。

 予約もしないで突然訪れたのだから無理もなかった。青羽達に迷惑をかけることになるのは、剛司にもわかっていたことだ。

 だけど気持ちが剛司を動かした。どうしても早く青羽達の知恵を借りたいと思った。そうしなければ、憧に空を飛ばせることができないかもしれないから。

「あれ、剛司君?」

 聞き覚えのある声が聞こえ、剛司はほっと胸をなでおろす。ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには青羽と友恵の姿があった。

「こんにちは」

 剛司は二人に頭を下げた。

「あれ? それより、今日は予約とかしてたっけ?」

「してないです。実はお願いがあってここに来ました」

 剛司の真剣な口調に、青羽と友恵の顔つきが変わった。

「……わかった。とりあえず、中に入って」

 青羽と友恵の後に続き、剛司はプレハブ小屋の中へと入った。

「そこの椅子に座ってて」

 青羽はそう言うと、奥の部屋へと向かっていった。

 プレハブ小屋は白い壁で囲まれており、思ったよりも明るく感じた。

「剛司君は何か飲む?」

「あ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「遠慮しないの。麦茶入れるね」

 友恵は笑みを見せると、青羽の向かった部屋の近くに設えてある冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。

「今日はお客さんいないんですか?」

「そうね。今日はいないの。今週は誰も申し込んでくれなくてね」

 三人分のグラスを乗せたトレーを手に、友恵は剛司の座っているテーブルまでやってくる。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 午前中にも関わらず三〇度を超えている外気のせいで、グラスの表面は細かな水滴が浮いている。麦茶がキンキンに冷えているのが見てわかった。

「友恵さん達はこの近所に住んでるんですか?」

「ええ、そうよ。車で五分くらいの場所かな」

 トレーを戻しにいった友恵が剛司の元へと戻ってくる。それと同時に奥の部屋にいた青羽が戻ってきた。

「お待たせ。悪いね」

 友恵の横に腰掛けた青羽がグラスに入った麦茶に口をつける。剛司もそれにつられ、一口だけ麦茶を口に含んだ。食道にひんやりとした感覚が一気に広がり、暑さで堪えていた身体がリフレッシュされる。グラスを置いた剛司は青羽達に向かって言った。

「えっと、この間はすみませんでした。それと、突然押しかけてしまって申し訳ございません」

 剛司はその場で立ち上がると深く頭を下げた。

「おいおい、この間のことはもういいって」

「そうよ。憧ちゃんが飛べなくなっちゃったんだから、仕方のないことよ」

 本来、パラグライダーの体験は仕事として行っていることだ。突然のキャンセルなんていくら青羽達でも、色々とあるはずだと剛司は思っていた。だからこの件に関しては、今日も謝罪をしようと前から決めていた。

「そんなことより、今日はどうして来たんだ?」

 青羽が先を促す。剛司は顔を上げ椅子に座ると、青羽達を一瞥する。そして思っていることを言った。

「パラグライダーを自分でもやりたいと思って」

「「えっ!」」

 青羽と友恵は声を揃えて驚いていた。数回遊びに来た大学生が、突然のパラグライダーやります宣言。剛司が青羽達の側でも驚くに違いないと思った。

「パラグライダー、僕にもできますか?」

「いやー。剛司君もついにパラグライダーに染まったか。うんうん。わかるわかる」

 肩をパンパンと叩いてくる青羽の顔がとても嬉しそうだった。

「剛司君、本当にやりたいと思ってるの? 源さんみたいになるんだよ?」

 友恵の言葉に青羽は肩を落としていた。冗談だと思うのに、本気で受け取る青羽がとても微笑ましく剛司にはみえた。

「はい。どうしてもやりたくて。そのことについて相談なんですけど」

 剛司は鞄をあさり、調べてきたことを印刷した紙束を青羽達に差し出した。そこにはパラグライダースクールの名前がずらりと書いてある。

「パラグライダーをやるには、資格が必要だと書いてありました。資格を得るにはスクールに通うのがいいみたいで」

「どうやら本気みたいだな。確かに資格を取るには、スクールに行かないといけない」

「質問ですが、最短でどれくらいで取れますか?」

「そうだな。剛司君が最終的に、どの資格まで取りたいのかによるけど」

「タンデムフライトです」

 間髪入れずに剛司は応えた。青羽は目を丸くしている。

「タンデムか……タンデムなら一年以上は欲しいな、友恵はどう思う?」

「うーん。私は資格持ってないけど、一年は必要かもね。他人を乗せるわけだし」

 剛司に一年という言葉が重くのしかかる。

 一年じゃ間に合わない。憧が帰ってしまうまでたった二週間しかない現状、青羽と友恵の言葉は剛司にとって一種の死刑宣告だった。

「二週間……二週間じゃ無理ですか?」

 剛司の言葉に青羽は友恵と顔を見合わせていた。青羽が剛司に向かって言葉を放つ。

「ちょっと、剛司君。今の話聞いてただろ? 俺も友恵も一年って言ったんだ。どんなに早くても一ヶ月……いや、二ヶ月必要だ。そこまで急ぐ必要は――」

「駄目なんです。二週間でどうにかしないと駄目なんです」

 剛司の言葉の強さに、青羽達は納得がいってない様子だった。

「ど、どうして急ぐ必要があるんだ?」

「そ、それは……」

 剛司は言うことができなかった。憧を飛ばすためと言っても、話が通じないのはわかっていた。だからと言って憧の境遇を話せば信じてもらえるかというと、そういうわけでもない。

 考えるに考えた剛司は、青羽に向かって頭を下げることしかできなかった。

「一回、一回だけでいいんです。タンデムで飛びたいんです。どうしても今月末までに飛ばないといけないんです」

「ちょっと、剛司君」

 友恵に肩を叩かれた剛司は、ゆっくりと頭を上げた。目の前の青羽の表情が目に入った剛司は思わず委縮してしまった。いつもは明るく気さくな青羽が、眉間にしわをよせて今にも怒り出しそうな表情を晒していたから。

「剛司君……パラグライダーをなめないでもらいたい。一人で飛ぶなら……いや、一人で飛ぶのもタンデムフライトも一緒だ。人の命がかかっているのを忘れないでほしい」

 冷めた声音が剛司の耳に届き、思わず身震いした。

 青羽の言うことは最もだ。剛司自身、友恵から命についての話を以前聞いていた。長年経験を積んできたインストラクターでも、一歩間違えれば死と隣り合わせになる可能性がある。

 でもここまで来て、剛司も諦めるわけにはいかなかった。一度突き放されただけで直ぐに折れたくない。最後まであがくと決めたのだから。

「青羽さんの指導があれば、可能だと僕は思っています。僕も遊びで頼んでいるわけではないんです。限られた時間の中で、助けてあげたい人がいるんです。だから指導を――」

「駄目だ! 俺は教えない」

 怒号がプレハブ小屋内にとびかった。剛司は俯き、きゅっと口を結んだ。

 青羽は椅子から立ち上がると奥の部屋に行き、鞄を片手にこちらに戻ってきた。

「ちょっと外に出てくる。友恵、後は頼んだ」

 そう言い残した青羽は外へと出て行ってしまった。車のエンジン音が響いている。その音が徐々に遠ざかるのがわかった。

 青羽は行ってしまった。結局、剛司は青羽を怒らせることしかできなかった。

「剛司君、ちょっといいかしら」

「……はい」

 友恵の声に剛司は顔を上げる。目の前には笑顔の友恵がいた。

「もしかして、憧ちゃんと関係があるの?」

「……はい」

「そっか。もしかして月末に憧ちゃんが遠くにいっちゃうのかな?」

「……そうです」

 友恵に心を読まれているのではないかと剛司は思った。友恵の放つ言葉の一つ一つが的確で、そしてとても温かかさを感じる。

「もしかして、遠くに行っちゃう憧ちゃんとの思い出づくりのため?」

「ち、違います。思い出づくりなんかじゃないです」

 はっきりと剛司は口にした。思い出づくりで他人の命を預かるなんて、剛司には絶対にできないことだった。

「そっか。違うならよかった」

 友恵はグラスに口をつけた。剛司も口が乾いていたので、グラスを持って口をつける。先程よりも温くなってしまったけど、それでも十分冷えていて五臓六腑に染み渡った。

「源さんは、教えることはしてくれないかもしれない」

「どうしてですか?」

 友恵の表情に影ができる。その表情から明らかに良い方向の話ではないと剛司はわかった。友恵は再度グラスを傾けて麦茶を流し込んでから、そっと口を開いた。

「一度だけ、人に怪我させたことがあったの」

 友恵から放たれた言葉に、剛司は開いた口が塞がらなかった。あの青羽が体験者に怪我をさせた。その事実を剛司は受け止められずにいる。

「店名からわかると思うけど、ここも昔はスクールをやってたの。だけど、四年前かな。スクールのライセンスコースに参加していた一人の子が、源さんの目を離した隙に一人で飛んで行っちゃって。その時に、強いサーマルに乗り上げちゃって」

「サーマル……」

「うん。サーマルは上昇風のことなんだけど……簡単に言うと、パラグライダーが上昇するために必要な気流の流れ、風のこと。熱上昇風ともいうかな」

 初めてのフライトで剛司はサーマルに乗ったことがあった。いきなりふわっと浮き上がる感覚。あの時の感覚は優しさに包まれている感覚だった。でも、一歩間違えれば事故につながる。青羽がいなかったら、剛司も事故に遭っていたかもしれない。

 青羽や友恵が言っていた言葉の重みが、剛司の身体を震わせる。

「その子は実際に一人で飛んだことがなくて、操縦不能のまま風に遊ばれちゃって。最後は木に墜落。そのまま地面に足から落ちちゃったの」

「その子は大丈夫だったんですか?」

 友恵の顔に一段と影が走った。聞かなければよかったかもしれないと、剛司は口を結ぶ。

「命に別状なかったんだけど、下半身不随になっちゃって。監督責任を問われた源さんは、スクールの閉校を決めたの」

 体験しか募集をしていなかった事実。青羽が指導をしたくない理由が分かった今、剛司は青羽にかける言葉を間違えたと思った。

「でも、体験はやめなかったんですね」

「体験はやってなかったの。もともとスクールだけやってて。今の体験を始めたのは、二年前くらいかな。最初はやらないって言い張ってた源さんだったけど、その怪我をした子に言われたんだって。パラグライダーを続けてくださいって。その思いに応える形で、源さんは今の体験を開いているの。だから、剛司君にも源さんの気持ちをわかってほしいな」

 友恵に返す言葉が剛司には見つからなかった。

 もう少し青羽に対する言い方があったはずだ。それなのに、自我を通して青羽に頼み込んでしまった。ただ必死になるだけで、頭に血が上っていた自分がとても情けないと剛司は思う。

「すみません」

 剛司は友恵に頭を下げた。

「いいのよ。源さんも本当は嬉しいんだから。剛司君がパラグライダーをやりたいって言ってくれて。でも、タンデムの資格を取るのはどんなに最短でも一ヶ月はかかるの。実際は一ヶ月なんてとんでもないって言われるくらい。パラグライダーは自然を相手にするスポーツ。だから天候が悪ければ練習もできないし、命を守るためにも色々と学ばないといけないこともある。そのぶん期間は長い方がいいのよ」

「そうですよね……僕の考えが甘かったです」

 頼めばどうにかなる。どこかで安易に考えていた自分がいた。

 友恵は剛司を見つめていた。何かを推し量るような視線に剛司は身を縮める。

「でも、剛司君が本気で考えているなら、無理じゃないかもしれない」

「それって……」

 友恵は席から立ち上がると、棚の近くに置いてあるレターケースの引き出しを開けた。

「剛司君って大学生だよね?」

「はい。そうです」

「まだ授業とかあるかな?」

「いいえ。僕はもう夏休みに入ってます」

「そっか。ならよかった」

 一枚の紙切れを取り出した友恵は、それを手に剛司の元へと戻ってきた。

「明日から一週間。ここでみっちりと学科の勉強をしてもらいます」

 友恵が差し出した紙には『羽田パラグライダースクール』という文字が書いてあった。

「このスクールに羽田さんっていう女性のインストラクターさんがいるんだけど、私の友人なの。その人の所でパラグライダーのタンデムフライトまでの知識を学べるよう、私が手配してあげる」

「ほ、本当ですか」

 願ってもない友恵の提案に、沈みかけていた気持ちが一気に浮上した。

「ただし、条件があります」

 人差し指をたてて渋面を作る友恵に、剛司は口をきゅっと結び唾を飲み込んだ。

「羽田さんに見込みがあるか見てもらうので、もし最終日に合格を言われなかったら、残念だけど諦めてもらいます」

 もっと辛いことを言われるのかと思った剛司は、内心ほっとした。勉強はやればやるだけ伸びることを、剛司は身をもって体験している。これくらいのことは絶対にできる自信が剛司には十分あった。

「わかりました。絶対に合格してみせます」

「うん。合格したら、源さんに頼んでみてあげるから。剛司君がこれだけ本気なんだってみせてほしいな」

 友恵は笑みを見せると、スマホを操作し始めた。おそらく羽田に連絡を取ってくれているのだろう。

「あの、友恵さん」

「何かしら?」

「どうして、僕のためにそこまでしてくれるんですか?」

「もしかして、してほしくなかった?」

「そんなことないです。友恵さんの協力、本当に感謝しています」

 友恵の助けは剛司にとってとても励みになることだ。友恵の提案がなければ、自分はまた立ち止まることになっていたのかもしれない。剛司は友恵に視線を向ける。表情からは友恵が何を考えているのか、剛司は読み取ることができなかった。

「剛司君が、何かをくれるかなって思ったから」

「えっ?」

「ううん。やっぱり何でもない。とにかく頑張って」

 友恵は何かをごまかすように笑みを見せた。

 剛司には友恵が見せた笑みの理由が、最後までわからなかった。

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