カエルの卵

顕巨鏡

津田マリ学長、母について語る

= = [1990年代の編集者による序文] = =

五千円札の津田 梅は、千円札の夏目漱石や一万円札の福沢諭吉ほどは有名でない。日本出身ではあるが、おもにアメリカで仕事をした人だから、当然かもしれない。しかし、世界の科学の発展に貢献した人びとのうちで、日本人としても、また女性としても、先駆者なのだ。


津田博士は、生物学のうちの発生学、つまり、動物が、卵からおとなの形にいたるまでに、からだの構造がどのように発達していくかを専門としていた。津田博士をその専門に導いたトマス・モーガン博士は、のちに、ショウジョウバエを使った遺伝学の研究で有名になり、ノーベル賞をも受賞している。津田博士は一時期、モーガン博士と結婚していた。


1950年代に、英学塾大学の学長だった津田マリ教授に、母親の津田梅博士のことについてたずねたインタビューの記録が残されている。

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わたしは 津田 梅 と Thomas Morgan の子です。生まれたときアメリカ国籍で、父の family name の Mary Morgan という名まえでした。日本国籍をとったとき、母のfamily name の 津田 マリ を名のることにしました。どちらの名まえを名のっても、わたしに変わりはありません。


母についてわたしの知っていることをおききになりたいのですね。


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ごぞんじのように、津田 梅は日本で最初の女子留学生のひとりとして、満6歳でアメリカにわたり、high school を卒業して日本に帰りました。それから華族女学校の教師になりましたが、教師としてはもっと勉強が必要だと思いました。それで、1889年から1892年までの3年間、フィラデルフィアの近くのブリンマーという小さい町にあるブリンマーカレッジに留学し、おもに生物学を勉強しました。その最後の年には、Thomas Morgan 准教授の指導のもとで、カエルの発生を観察しました。卵からおたまじゃくしにどのように変わっていくか、ということです。梅は3年しか在学しなかったので正式に卒業はしていないのですが、卒業研究と同様なことをやらせてもらったわけです。


日本に帰って、華族女学校の教師の仕事にもどったのですが、発生の実験は続けたかったようで、東大の理学部の箕作みつくり佳吉かきち 先生に相談していました。しかし、教師の仕事のあいまのこまぎれの時間では、実験にとりかかることはできませんでした。


1894年に、Morgan and Tsuda の共著のカエルの発生の論文が学術雑誌に出版になりました。論文の形にしたのは Thomas ですが、梅が在学中にした観察記録が含まれていました。

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そして、Thomas は、その論文の内容をさらに広げて、カエルの発生についての、生物学の学生の教科書になる本をつくりたいので、梅に、またブリンマーに来ていっしょに働いてくれないか、と言ってきました。


梅は条件つきで応じました。自分は日本の女子の教育を使命と思っている。ブリンマーカレッジが、日本からの留学生を受け入れる教育プログラムをつくり、自分にその世話役をやらせてくれるならば、行きたい。(教育プログラムというのは今の用語で、当時はちがう表現だったと思いますが。) Thomas はそれに応じて大学と交渉してくれました。梅はブリンマーカレッジに生物学の学生実験担当の教師 (instructor) として雇われ、留学生受け入れプログラムをつくる仕事もして、残りの時間を、カエルの発生の本を書くことに使うことになったのです。


ここからは、わたしが生まれたいきさつにかかわることなので、わたしに向けて話すために母が話をつくったところもあるかもしれません。ともかく、わたしはこのように聞いている、ということです。


1897年、ふたりは、カエルの発生の本を、だいたい書き終えて、カエルの発生について学ぶことの人間生活にとっての意義を書こうとしていました。そこでは、ヒトの発生について何がわかっていて何がわかっていないかにもふれなければならず、文章書きは思うように進みませんでした。


そんな時期のあるとき、母は、自分のからだの中で卵が発生をはじめたがっている、と感じました。それを助けてやりたいと思い、近くにいた Thomas をさそって、受精させてしまったのです。(このときの母にとって、精子提供者が Thomas でなければならなかったわけではありません。しかし、男ならばだれでもよかったわけでもなく、母は暗黙のうちにあいてをえらぶ条件をきめていて、Thomas はその条件にかなう人びとにふくまれていたのでした。もしその条件にあうほかの男の人が近くにいたら、実際のわたしとはちがう父親をもつ子どもが生まれていたかもしれません。)


受精を何回試みたかは話してくれませんでしたが、ある一日だけのことだったようです。荻野久作先生の研究よりも昔ですから、受精に適した日を科学に基づいて知ることはできませんでした。母は、からだの感覚と発生学の知識との間で連想を働かせて卵が出てきていると思ったようで、それは科学的推論ではないのですが、結果としてあたっていたのでしょう。


そのときはふたりとも、受精のことと、受精卵からだんだんからだの形ができていく発生のことだけ考えていて、子どもが生まれたら育てることや、結婚のことなどは、頭になかったそうです。ふたりとも、すばらしい生物学実験をいくつもした人で、そういう実験はしっかり計画をたててやったものなのですが、そのほかに、ちょっとためしに実験をやってみることもありました。ためしの実験にしても、おこりそうな結果を予想しておくべきなのですが、このときはそれができていませんでした。自分の卵も自分の学問の対象になりうることに気がついてから、学問上の考えと個人生活上の考えがからみあって頭が疲れてしまい、衝動的に行動してしまったらしいです。


1か月ほどたって、母は妊娠していることに気づきました。おたまじゃくしぐらいに育ったかな、と思ってから、この子を人間社会に迎えなくてはいけない、ということに気づいたのだそうです。


母と父は、すでに、この1年ほどまえから、おたがいが理屈のうえで結婚可能なあいてであることを認識していました。結婚したいという意志はなく、単に可能性を考えただけだそうですが。ふたりとも独身で、母のほうが2つ年上でした。父は、女子大学の教員として、女性の学生とのかかわりに異性愛の感情がまざらないように、注意深くしていました。ところが、そのころの母は、学生ではなく、父の直接の部下でもなく、教授と instructor という地位のちがいはありましたが、同僚でした。


そこでふたりは、最小限の手続きで、結婚したという既成事実をつくってしまいました。母はキリスト教徒でしたが、父は無神論者だったので、宗教行事はしませんでしたが、独立教会の牧師さんに民事上の証人になってもらうことは父も同意しました。母は、日本にいたあいだは自分は結婚しないという強い意志を示していたのに、アメリカに来て意志をひるがえしたことを、いささか恥ずかしく思ったようです。それは当時の日本の結婚の決めかたに不満だったのであってアメリカのやりかたならばよいのだ、というふうに考えを整理しました。


そして、母は、アメリカで結婚のいきさつについてきかれたときには、結婚には自分のほうが積極的だったのだ、と言っていました。実際、受精を求めたことを結婚を求めたこととみなせば、そうですね。日本に伝われば女がそのような態度をとることを嫌う人が多いと予想できたにもかかわらず、そう言ったのは、父の汚点にならないようにかばう意味もあったかもしれず、アメリカ全体ではどうかわかりませんがブリンマーカレッジでは積極的な女子が高く評価されるという判断もあったかもしれません。


もし、このとき母が妊娠しなければ、わたしはいないわけですが、母は本ができしだい日本に帰って女子英学塾をつくる仕事に自分でとりくんだ可能性が高いと思います。


しかし、アメリカで家族をつくってしまったので (そして、日本の大学が外国人の教授を必要としていた時代が終わり、父が日本で職を得る見こみはなかったので)、 母が日本に帰って仕事をする可能性はしぼみ、アメリカでの仕事にかけるしかなくなりました。生物学科長は、母には将来 生物学の教授になれる才能があると思い、しかし当時の母には bachelor (学士) の学位さえなかったので (それは卒業という形式を踏んでいないだけであって、学士以上の実力があることはもちろんみとめられていたのですが)、できれば博士、少なくともmaster (日本語では「修士」ですね) をとらせる必要があると考えました。それで母は instructor と兼ねる形で大学院生になりました。技術面は父が実質的に指導していましたが、大学院生としての研究の方針や論文のまとめかたの指導は、別の教授から受けました。のちに母は、このときの研究の成果はたいしたことがなかったが、生物学を広く展望できるようになったのがよかった、と言っていました。master の学位をもらった段階で、母は assistant professor になり、生物学概論と発生学の講義を担当するようになりました。研究の面ではカエルの発生の問題にもどって、博士論文を出しました。


時間の順序では母が博士号をとるよりも前ですが、1903年、父のブリンマーでの前任者でもあったコロンビア大学の Wilson 教授から、父もコロンビア大学に移らないかという誘いがありました。Wilson 教授は、母にも、コロンビア大学の関連の女子大学であるバーナードカレッジの教員になれるように推薦するという提案をしてきました。


母はためらいました。ブリンマーカレッジで担当しているような留学生受け入れプログラムをバーナードカレッジに作ってもらうことまでは要求できそうもありませんでした。しかも、学問的興味が、母と父とはちがっていました。父は同じ主題を長く続けるよりも、新しい主題に移っていくことを好みました。実際、その後、ショウジョウバエを使った遺伝学をやることになりました。母は、自分の仕事の中心は女子学生への liberal arts としての生物学の教育であり、研究にかけられる精力があまり大きくないなかで、自分の特徴を出す道は、発生学を続けることだと考えていました。カエルの発生だけでは狭すぎるけれども、それを足場にして、脊椎動物の発生を専門にしようと思っていました。だから、母は父と離れてブリンマーカレッジに残ることを選びました。


結婚関係をどうするかという問題がありました。


父のところには、かつての教え子がときどきたずねてきました。そのうちに、Lilian Sampson がいました。Lilian は、母と同じく、1891年の夏にウッズホールの海洋生物学研究所で父に初めて会ったのですが、その後、ブリンマーの大学院に所属はしたものの、まずヨーロッパに留学して、母が日本に帰ったのと入れかわりに父の指導を受けるようになって、1894年に master をとり、それからウッズホールで臨時職員をしながら研究を続けていました。母も結婚後、父とわたしといっしょに毎年夏にウッズホールに行きましたから、Lilian とは顔なじみになっていました。その Lilian に、母が、自分と代わって Thomas と結婚しないか、と持ちかけたのです。ええ。母がです。母は、父がその妻に期待することを知っていました。父の研究上の興味を共有してくれること。家庭をしっかりmanage (日本語だと「運営」でしょうか) してくれること。その両面で、母自身よりも Lilian のほうが合っていると思ったのでした。1904年、父は Lilian と結婚してニューヨークに引っ越していきました。母とわたしはブリンマーに残りました。


毎年夏、わたしは母といっしょにウッズホールに行って、母は、実験室にこもって研究に没頭するか、または、すぐブリンマーに帰り、わたしは父と Lilian といっしょにすごしました。父と Lilian はわたしにとって、日本でいう「夏の季語」のようなものでした。Lilian は子どものための科学の夏の学校をやっていたので、わたしも入れてもらいました。そのときの生徒なかまのうちには、いまも手紙をやりとりしている人がいます。父は研究について説明してくれたのですが、わたしにはむずかしかったです。ただ、毎年、新しいことがわかったり、新しいなぞが生じたりする、知識の進展の速い分野で仕事をしていることは感じられました。父が、何かをわたしに説明していた途中で、これまでの話のすじはまちがっていたことに気づいたと言って、考えこみ、しばらくして、新しい解釈のヒントを得た、と言っていたことがありました。わたしがまちがいを指摘したわけではないのですが、聞き手がいたことが、父の思考にいくらかは貢献したのかもしれません。


カエルの発生の本は、父と母の共著でしたが、1897年の初版は父のプロジェクトで、父が決めた枠を母が埋めていったのでした。しかし1912年の第2版は母のプロジェクトでした。父は、どこを改訂する必要があるか、何について新しい材料をとりこむ必要があるかを大まかに指示しましたし、原稿ができてからそれを磨くことはしましたが、それ以外の改訂作業は全部母がやりました。博士論文の研究でわかったことのほかに、あちこちの研究者の成果をとりこんだのですが、論文を読んで理解し、読者を考えながら表現しなおすことは時間のかかる仕事でしたし、ときには再現のための実験をしたこともありました。だから初版は Morgan and Tsuda ですが、第2版は Tsuda and Morgan なのです。(そういえば、初版が出たときは結婚していたのですが、旧姓を使っていますね。たぶん、Tsuda で通すという強い意志があったわけではなく、すでに近刊予告に出ていた著者名を変えなかっただけだと思います。ともかく、離婚のときにはまよわずにすみました。) 改訂作業をしていたころ、父からうちに届いた手紙のたばには、本に関するもの、その他の学問に関するもの、家庭に関するものがまざっていました。家庭に関するものをわたしが抜き出して読んでいるあいだに、母は本の仕事にかかって、絵をかいたり、文章を書いたりしていました。


わたしは、いまの日本の制度でいうと中学生のころから、日本人女子への英語教育を自分の仕事にしようと思うようになりました。明らかに母の影響がありますが、母に命令されたわけではありません。ただ、母が、英語教育の仕事を中断してしまったことを後悔するようなことを言ったとき、わたしが、「それはわたしがやるから、くやまないで」と言ったら、母がことのほか喜んだことがありました。だから、わたしがこの仕事を選んだ動機には、母を喜ばせるため、という面はあります。


でも、それだけではなく、自分の能力に関する、わりあい冷静な判断がありました。わたしは英語と日本語の bi-lingual で育ちました。それが強みになるとよいのですが、一方の言語だけでは人と競争できるほど強くないのです。とくに日本語では、vocabulary がたりないので、できる仕事が限られます。ところが、母の知り合いのかたがたが母の構想に沿ってつくってくださった女子英学塾のことを、わたしは聞いていました。そこの教師ならば、わたしの能力が生かせる仕事ではないだろうか。わたしは high school 生徒のとき、大山捨松さんに手紙を書きました。(捨松さんは、そののち世界じゅうに はやったインフルエンザでなくなってしまいましたが、そのときは健在でした。) 日本語まじりの英語の手紙でした。捨松さんは、激励とともに、どんな能力を身につけたらよいかの助言をくださいました。


捨松さんからの手紙には、母あてのメッセージもありました。実物は残っていないのですが、だいたいこのようなものでした。

「生物学は、わたしも大学生のときいちばん興味をもった科目でした。梅がその専門家になって学問を前に進めているのは、ちょっとうらやましくもあるけれど、とてもうれしいことです。」

そして、女子英学塾の理事の たちば になって、

「梅は、遠くにいても、英学塾に大きな貢献をしているのですよ。アメリカで、日本の英学塾に寄付してくださる後援者の輪をつくる中心になってくれたのですから。梅が学者として、教授として、また本の著者としてよく知られるようになったおかげで、輪が大きくなりました。とりわけ、梅自身にとっては かたてま の仕事かもしれないけれど、ブリンマーの卒業生といっしょに書いた、少年少女向けの本で、梅の名まえを知っている人が多いと思います。あの本は、わたしも読んで、とてもおもしろかったし、英学塾では reading の教材に使われたこともありました。ブリンマーの留学からもどってきた、英語では Ivy アイヴィーと名のっていた つた子 さんが、日本語に訳しています。わたしが序文を書きます。生物学のおもしろさを知ってもらいたいとも本気で思うけれど、梅の活躍ぶりももっと知ってもらいたいし、ついでに英学塾の宣伝もします。下書きを送るので、もしなおすべきところがあったら知らせてくださいね。」


その本を書いた人がうちにみえたときには、母がわたしにものごとを説明するのをよく観察なさっていました。できた本の、子どもにかたりかけるところは、それを再現していると思います。Ivy さんは留学中には毎週うちに来られました。わたしは日本語会話の練習ができてうれしかったのですが、Ivy さんの勉強のじゃまをしてしまったかもしれません。わたしが英語でしか説明できなかったものごとを、母が説明しなおしてくれるのが、勉強になった、と おっしゃっていたので、そのような形でもお役にたてたのならよいのですが。


それからわたしは、大学で英語と日本語と liberal arts、大学院で英語教育を勉強しました。母が病気になってペンシルベニアで療養していたあいだは、その近くで教師の仕事をしておりました。1929年に母が亡くなってから、日本に移って、女子英学塾につとめたのでした。


太平洋戦争のときはつらかったです。わたしはアメリカ国籍でしたから、日本では敵国人とされ、アメリカに送り返される可能性がありました。ところが、アメリカでは、日系人はアメリカ市民であっても隔離収容されていました。わたしの場合は、Thomas Morgan の家族としてふるまえば、日系人扱いされないですみそうでしたが、Lilian にとって重荷になりそうなので、ためらいました。大山捨松さんの身内のかたが、わたしに日本国籍をとることを勧めてくれました。母の行動が日本人らしくないと批判される可能性もあったので、申請では、母のことを詳しく述べず、ただ母は日本国籍であったことを強調しました。幸い、申請はすんなり認められ、わたしは日本人「津田マリ」になりました。「日本をえらんだ」形になりましたが、わたしの動機としては、仕事をつづけられる道をえらんだのでした。


わたしは、英語を教えるだけでなく、liberal arts をめざして、英語で世界のものごとを教えてきました。生物学という学問を教えるわけではありませんが、わたしの教材のうちには、生物学に関する話題もあります。その中にいつもカエルの発生の話題が含まれていることに気づかれたかもしれません。ひとつの細胞がふたつに分裂するところからはじまって、袋のような形になり、それから背骨にあたるものができてくる、といった話です。わたしにとって、それは、子どものころ何度も母といっしょに観察し、英語と日本語の両方で説明を聞いた材料ですから、個人的な愛着もありますが、わたしが示せる文章表現の例としてよく磨くことができたと思うからでもあります。生物学の知識としてまちがいがないように、団 Jean さんにチェックしていただいています。Jean さん のだんなさんの勝磨さんのお父さんの琢磨さんが母と同じ船でアメリカに留学したという縁もあって、おつきあいが続いています。Jean さん が生物学の勉強を始めたとき母はすでに病気で引退していましたし、結婚なさったのは母が亡くなったあとなので、Jean さん は母と会ってはいないのですが、母の著書をよく読んだそうです。とくに、カエルの発生の本については (母が 1918 年まで手をいれて、さらにほかの人による改訂がはいった、第4版ですが)、どんな図があったかもおぼえているそうです。


そして、1948年、英学塾が新しい制度の大学になるにあたって、わたしは、学長をお引き受けすることになりました。身にあまる光栄でもありますが、もっと働けと言われているわけでもあります。親子二代にわたってアメリカと日本にまたがって生きてきた者として、世界を視野にいれた日本の女子教育のために貢献したいと思っております。

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