第60話:Stamp

足跡を―――つける。

「おい、はやくしろって! 」


 膝をうんと曲げて伸ばすとピンと伸びた爪先が空を切り裂いているみたいだった。だから僕はこうしてずっとブランコを漕いでいる。どうしてこんなに楽しいんだろう。ただ同じ事を繰り返しているだけなのにね。


「待ってよ! 」


「早くしないと始まっちゃうんだよ! 」


 僕を呼ぶ友達が待ち遠しいのは夕方のアニメの再放送。なんとか編が今、最高に熱いらしい。


 ブランコの横にはジャングルジムがあってその隣には鉄棒。公園の隅には桜が咲いていて、花弁がそよそよと空を舞う。


「わかったよ! 」


 ぎゅっと鎖を握って立ち上がる。立ちこぎを覚えてからもう、3ヶ月。慣れたもんね。

 さっきより思い切り膝を曲げた。しゃがんでぐんと立ち上がる。おじいちゃんにせがんで買ってもらった速く走れるシューズは本番、活躍しなかったけど僕のお気に入りだ。ブランコがスイングして風を頬で感じる。色濃く弧を描き、どんどんと加速していくのが分かる。


まだ、まだだ。

せーのっ。


「いくよ! 」


 爪先に力を込め、僕は思いきり飛んだ。










足跡が―――残っている。

 夏休みを迎えて部のメニューがぐっと厳しくなった。だからこんな炎天下の中、俺は走っている。


「おい、ペース落ちてんぞ! 」


 振りかえると身体の大きい後輩が顎をあげながら俺の背中を追っている。体が左右に揺れ軸がぶれ始めている。


「すんません! 」

 額から、背中から、脛から。汗がわき出る。熱気が喉の奥まで入ってくる。自分がどんどんと渇いていく。

足が縺れそうだ。でもこんな所では転べない。だって先輩なんだから。俺がこいつを引っ張っていかないと。


「あと少しで給水所だ。だからしゃんと走れ! 」


「はい! 」

 後輩が振り絞るように叫び、ペースをあからさまに上げた。前だけを見て、彼は上り坂を駆け上がってくる。

 おい、そんなことするとまたペースが乱れ―――


 力強い足音と共に後輩がオレを抜き去っていった。制汗スプレーの残り香が鼻先を掠めていった。


 ここぞと言うときに集中力を爆発させる一年レギュラー。今だって試合の時だってそう。一方オレは三年経ってもベンチ。今だって、試合だって―――思いかけてやめた。


「おつかれさまです」

 マネージャーが俺にボトルを手渡した。そのまま俺は頭上にボトルをもっていって思いきり握り締める。なんで悔しさが体の底から湧き上がってこないのだろうか。俺ばかりが渇いていく。

 頭から水を浴びても夏の太陽はすぐにオレから水分を奪っていった。だからトイレ前の水道でもっと浴びて、


「さ、あと半分。行きますよ! 」


 彼のロケットスタート。

 オレのスロースタート。だから彼の背中がでかく見えるのだろうか。


「帰りは膝にくるから、ペース落とせって」


「分かってますよ!」


 オレは後輩の足音を追って走り出した。

 後ろを振り返ると鉄板みたいに熱いアスファルトの上に履いているランニングシューズの跡が残っていた。










足跡を―――遺そうとしている。

「昨日のテラハ見た? 」


「あー、バイトで全部は見れなかったわ」


 いつも満員電車だ。

 就職祝いだぞ、とじいちゃんがくれた革靴を履いて、今日も仕事に向かう。使えば使うほど味が出るのが革の良さだが履き続けて5年。だいぶへたってきている。それに足が成長しているのか、昨日も靴擦れしてアキレス腱のところがまだひりついて痛い。クッション性もないから、足裏にはタコができてしまった。


 俯いて爪先を見る。


 そっか。お前もボロボロだよな。


 視線をスマホに戻してクライアントのメールをチェックする。前の大学生の声が妙に高くて文面が頭に入ってこない。


「てか、この女優。めっちゃ胸デカくね?」


「それな。スタイルもいいし」


「あー、ヤリてー」


「それな」


 週刊誌の中吊り広告。目の前にあるおっさんの頭皮。香水臭いおばさん。リュックを前に背負わない外国人。電車内は、やっぱりどこを見ても人、者、ヒトだ。


 ふと外を見ると、公園を囲む木々が随分と色づいていた。


「そんな季節か……」


 紅葉に銀杏。かすんだ目にはどれも燃えているみたいに見えた。

 山を所有するオレのじいちゃんが「いい山菜が採れたから、一杯呑みに帰って来いよ」と電話をしてきたが、今年もばたついて帰れそうにない。

ふと、降り口側のドアの横にあった転職の広告が目に入った。


 アナウンスが流れ、ドアが開く。

 条件反射でホームに下り、人混みにどんどん押し出され、階段を下りていく。


 別に帰属意識とかそんなんじゃない。上司は口うるさい奴らばかりだし、契約は取れてないからそんな奴らに頭を下げなきゃだし。


 ただ、まだオレは何もしてないから。遺してないから。


「ごめん、じいちゃん。まだ帰れそうにないわ」


 改札を抜ける。ほぼ自己暗示に過ぎない栄養ドリンクを喉に流し込んで、バッグを背負い直した。










足跡が―――消えてゆく。

 石油ストーブに爪先をかざすとだんだんと痒くなってくる。


 湿っている厚手の靴下は息子夫婦が買ってきてくれたもので、この間息子に「みっともないから早く変えろよ」と怒られた。


 あ、確かに。

親指の所に小さな穴が空いている。


 ロッキングチェアに揺られながらわたしは独りごちて毛玉のついた靴下を見つめていた。

もうそろそろだろうか。息子達がわたしの家にやってくる。孫に会える。


 今度はアイツに何を買ってあげようか。膨らむ想像に浸っていると自然と瞼が下りてくる。雪かきで少し張り切りすぎたかな。

 外には雪が降っていて、家の前を除雪車が通る。走り去っていくチェーンの音を聞くと昔は辟易として、音楽プレーヤーの音量を上げて鏡の前で踊っていたっけな。


「父さん、起きなよ」


「おお、悪いな」


 息子も随分と老けた。この子が小さかったとき、私は仕事にかまってばっかりだった。そういえばなんであんなに必死だったんだろう。あの日の情熱や、見た景色が日々ゆっくりと白飛びしていく。


 会社で大口の契約を取った日、妻と結ばれた日、息子が生まれた日、妻が先に逝ってしまった日。そういう日はまだ色濃く残っているのだが、その間の日々が陽に照らされたアルバムみたいにゆっくりと色褪せてゆく。


「明けましておめでとう。今年もよろしく」


 肩を叩かれて微睡みから目覚めると、息子の顔があった。


「ああ、よろしく頼むな」


 また年が廻って、歳を取る。


 去年は春の穏やかな日々が来たと思えば、雨ばかりが降り続き、上がれば例年を越えるうだるような夏が、そして秋には嵐が来て、冬は―――。


「じいちゃんお年玉は? 」


「ああ、確かそこの引き出しに……」

 息子の妻が叱る。すみませんと此方に彼女が笑顔を向け、私が「ほら、」と渡す。すると孫の笑顔がぱっと明るみ、息子の妻は何度も頭を下げた。


「じいちゃん。雪!見て!」


 孫の声とともに全員が窓の外を見た。こりゃ、またかき直しかな。


 私の手を引く孫につられ、外に出ると風の冷たさがすぐに骨まで達す。目の前は白く、大粒の雪が降り積もってゆく。ぐんぐんと腕を引かれるまま孫につられ雪を踏んでは進む。孫は薄氷の上に乗って、パリパリと割れるさまを見てはしゃいでいた。


 くしゅん。


「もう! みっともない。垂れてるから」


 鼻水を垂らしたままで孫がこちらを見ている。いったい誰に似たのか、随分と気の抜けた顔だ。


「ほら、はやくかむ! 」


「はーい」


 ふと遠くを見ると、雪をかいていた時に踏んだ足跡がもう消えている。さっきの風のせいだろうか。もうだいぶ体が冷えてきた。さてと家に戻るとするか。




 すぐに痛むようになった腰を左手で擦りながら玄関の扉を開ける。


 後ろから孫が追いかけてくる。


 きっとこの日のこともやがて忘れていく。


 それでも、歩いていく。  

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