第48話:だるめのダルメート

 すっかり磨り減ったスニーカーの靴底をアスファルトでまた削りながら彼は路地を行く。

 寝静まった住宅街は物音ひとつ立てることなく、いっそのことこちらが騒ぎ立て、中の住民を驚かしたいくらい沈黙を貫いている。鈴虫の鳴き声だけが遠くの方で聞こえるだけのAM1:00。

 ろくに星の見えない空を見上げ、身体にのしかかる圧倒的な倦怠感に負け、時折立ち止まりながら、彼はやっと家路についた。

 家の鍵を玄関に放り投げる。何日も洗っていない作業着はずっと湿ったままだ。うざったい鎧を脱ぎ捨て、シャワーを5分だけ浴びて彼は布団に倒れこんだ。


「ずっと明日が来なければいいのに」

 そう呟いて数秒後、彼の意識は鈴虫の鳴いている場所よりももっと遠くへ飛んで行った。


―――目覚ましのベルが鳴る。がなるベルを叩き伏せて彼は目を開けた。



 本当に寝たのかと思うほどあっという間に訪れた朝に絶望しながら今日も彼は工場へ出かけるはずだった。

 そのはずだったが、見るだけでうんざりとする朝日は彼のもとには訪れなかった。

 なんだまだ深夜か。と少し安堵して布団に再び戻ると一度寝たせいで眠れられなく、暗闇の中でカナル型イヤホンを耳穴に挿し、SNSをチェックしていると、彼はあることに気が付く。スマホをいじりだしてからもう30分は経過しているはずなのに液晶画面の右上にある時刻表示は止まったままだった。使い初めてから五年経つ彼のスマホがついに壊れたというわけではない。そのことに気づくまでもう30分彼は時間を要した。


「時間が止まっている? 」


 煌々とついた部屋の明かりの中で壁時計も目覚まし時計も沈黙している。秒針すら眠り呆けてしまったこの異質さにさすがに彼は違和感を覚えて、薄手のパーカーを羽織り、サンダルをひっかけてアパートを飛び出た。

 外に出ると無音。

 鈴虫の鳴き声さえ聞こえない静寂の中で愚鈍になってしまった頭に静止した熱気と湿り気が汗ばんだパーカーに染み入る。


―――目覚ましのベルが鳴る。がなるベルを叩き伏せようとするが、手元にそんなものはない。



 何が起きている? 

 頭は目の前で起こる超自然的な現象を何とか咀嚼しようとするが、口が小さいのか、それとも問題が大きすぎて口に入らないのか、いまだにひと齧りもできていない。なので彼は考えるのを辞めた。すると不思議と体が軽くなり、全能感に包まれた彼は多幸感で得た羽のような体を夜の風に乗せて路地を突っ切っていく。

 もともと彼はうすぼんやりとした星空も、寝静まった住宅街の景色も好きだった。

 いつからだろう、この街で生きているという実感をなくしたのは。

 いつからだろう、人々の営みを疎ましく感じるようになったのは。

 そんなことを考えながら住宅街を抜けると駅前通りは深夜となった今でも昼間の明るさを保ったままだった。ただし物音は彼の立てる音以外一つとしてない。

 駅から降りてまっすぐ家時に向かう彼だが、たまに駅の裏手にある居酒屋にふらっと入ることがある。そこへ行ってみることにした。


 赤提灯の明かりのもとで、赤提灯の明かりに負けないほど顔を真っ赤に染めたおやじたちがそこにいた。

 酒の席は深夜を回ってもなお、どこも盛り上がっていたのだろう。どの席も所狭しとつまみが並べられ、どの場所も空席一つなく埋まっている。

 そこで彼は今日が金曜の夜だということを思い出し、プレミアムフライデーなんていう自分の会社には全くない概念に少し嫉妬して、まだ頼んだばかりであろう中ジョッキを手に取り一気に煽った。

 そこから彼は片端から口のついていない酒をあおる。胃の中でちゃんぽんされたアルコールにやられ、数歩先すらダンジョンのように感じる怠さを抱えながら、隣の店のトイレに向かってひたすら歩を進めていった。


―――目覚ましのベルが鳴る。がなるベルを叩き伏せようとするが、便座を抱えるので精いっぱいな彼はそんな力を割く余裕がない。



 ひとしきり吐き終えてやっと動けるようになった彼は、便座の上でそのまま眠り呆けてしまった。目が覚めても状況は何一つ変わりなく、相変わらず世界と時間は静寂を決め込んだきり動かない。

 洗面所で口をゆすぎ、トイレから出て通路を抜けると静けさとは程遠い景色がこの異質な世界で必死に沈黙を貫き続けていた。


 天井にはミラーボール。フロア奥にあるDJブースにはトラックメイカーがターンテーブルに指を添えたままマネキンになっている。踊り狂っていたはずであろうオーディエンスの頭上には光の三原色で構成されたレーザーライトが降り注いでいた。

 ナイトクラブのワンシーンが切り取られた彫刻の群れをかき分けながら進み、彼はカウンターについた。シェイカーを振る姿のまま固まったバーテンをぼーっと眺めた後、中身は何だろうかと味見をしようと手を伸ばす。


「楽しんでいるみたいだな」


 突如聞こえた異変にかぶりを振って振り返ると、そこには自分とそっくりの背格好と姿勢をした存在が隣に座っていた。唯一彼とその存在〈便宜上、アクマとよぶことにしよう〉が異なる点を挙げるならば、アクマはクレヨンを何本も費やして塗りつぶされたように姿の何もかもが真っ黒だったことだ。近づくと、アクマの身体からはブラウン管テレビから流れていた砂嵐が聞こえる。


「誰だよ、あんた」


「俺か? そうだな―――」


 考え込んでいたかと思ったら突然笑いだしたアクマとともにそこから発せられるノイズの音も大きくなっていく。隣で聞こえていた声は耳元で増幅して、彼の頭の中に無遠慮に指を突っ込み脳梁をぐちゃぐちゃと音を立て皺のひとつひとつを穿る。

アクマはなお彼を嗤った。ノイズはさらに大きくなり、彼の頭はいまにもどうにかなりそうだ。


「懲りない男だ」

 アクマがそういって指を鳴らすと、突如大音量でクラブミュージックが鳴り始め、ミラーボールとともに色鮮やかな閃光がクラブ内を駆け回る。彫刻のように静止していたオーディエンスも我を忘れたかのように踊り始めた。

 時間が動き始めたのかと、考えを巡らせていると、「ご注文は」とバーテンが聞くので、彼はとりあえずビールを頼む。


「お酒、強いんですね」

 何杯か飲み進めているうちに隣の女性が声をかけてきた。

 振り向くと、フロアで踊る大勢の服装からは感じ取れない貞操を彼は彼女から感じ取った。

 クラブに入ってみたいと意気込んだものの、凄まじい音圧と入り乱れる男女に臆して疎外感を抱えている、そんな雰囲気を彼女から彼が感じ取ったのは間違っていなかったようだ。

 話してみると「やっぱりちょっと怖くて」そういいながら彼女は照れ笑いを浮かべていた。彼女が飲んでいるカシスオレンジのように甘ったるい妄想が彼の頭の中に膨らむ。


「私、こういうところに来るのやっぱ向いてないのかも。まだちょっと怖いし」

 彼女は周りから自分を守るように自分の肩を抱く。か細くそして白い指先が肩の上で細かく震えているのを見て彼は席から立ちあがった。


「僕も初めてで、その、情けない話僕も怖くて、だから―――」

 だから、と言いながら首を傾げる彼女の前に手を差し出す。


「僕と踊ってください」

 まるでこれから社交ダンスでもするかのような誘いに、彼女は微笑みながら彼の手のひらに彼女の手のひらが重なった。


―――目覚ましのベルが鳴る。がなるベルを叩き伏せようとするが、クラブミュージックとレゲエホーンの音に紛れてベルの音は聞こえない。



「そろそろ店を出ましょうよ」


「あ、もうそんな時間ですか」


「はい」

 結ばれていた手と手が解けて彼の頭から彼女の感触が薄れていく。そのとき彼は気づいた。もう何度目だ。何度俺はこの光景を繰り返している?

 景色はいまだ夜の街のはずなのに、はるか遠くで朝の風に揺れるカーテンと鳥の鳴き声が聞こえた。


 朝焼けと揺れるレースカーテン。靡くそれと彼女の艶やかな栗色の長髪が彼の頭の中で重なった。

「あとすこしだけ、あと少しだけでいいんです。分かってはいるんで―――」

 再び彼女の感触が彼の頭の中に戻った。


「そうですか。じゃあ仕方ないですね」

ライトの中で明滅しながら彼女の表情はコマドリ映像みたいに笑顔に変わっていく。


―――目覚ましのベルが鳴る。


―――目覚ましのベルが鳴る。






―――目覚ましのベルが鳴る。届くことなく、遠のく。


―――目覚ましのベルが鳴る。


―――目覚ましのベルが鳴る。


―――目覚ましのベルが鳴る。














―――目覚ましのベルが鳴る。


アクマはまた彼に囁く。 おやすみと。

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