第19話:鉄男と陽子

 鉄男が生まれた年も彼の両親の喧嘩は絶えなかった。

 生まれてから鉄男は彼らが喧嘩をするたびにぐずって泣き出すことが多かったが、そんな生活が5年も続き、鉄男は物心つく年になると徐々に何に対しても動じなくなっていった。



「鉄男、ごはん食べよ」

 突然手を握って、誰かが鉄男を引っ張る。体も名の通り、動じないほど堅牢である鉄男はやはり一歩も動かないままであったが、顔を真っ赤にして懸命に彼を引っ張る姿に自然と足が動いた。


「ダッシュして並んだかいあったよ。ほらっ!1か月に50個限定の三元豚のカツサンド。しかも1パック200円」

 隣に座った彼女の名は陽子。陽子は鉄男の幼馴染であり、鉄男の恋人である。


「そうか」

『淡白な俺を何で好いてくれるのか』鉄男は疑問であった。しかし、そんなことなどお構いなしと陽子は次々とカツサンドを頬張る。


「良く食べるな」


「あげないよ」


「いらないって」

 それでも食べられると思ったのか、陽子は口いっぱいにカツサンドを詰め込んで牛乳で流し込んだ。



「部活帰りで疲れたし、コンビニよってアイスでも食べようよ」


「ああ」


 コンビニに入ると鼻歌交じりに陽子はアイスボックスの中の商品を吟味しながら目を躍らせている。その横から、鉄男は無遠慮にガラス扉を開いてアイスモナカを迷いなくとった。


「うーん……じゃあ私もこれにしよ」

 新作がどうの…とか、限定品がどうの…とか言っていたのに結局、陽子もいつも通りアイスモナカをとった。


「アイスモナカ。そんなにおいしい?」


「どうだろ」


「『どうだろ』って……」


「陽子こそ何でいつも同じものなんだ? 」

 鉄男は気まぐれに質問してみた。


「鉄男がいつもおいしそうに食べるからだよ。鉄男はアイスモナカを食べさせたら世界一、いや宇宙一だねっ! 」


「なんだそれ」

 根拠のないほめ言葉を聞き流しながら二人はゆっくりと坂道を下ってく。



「鉄男、ちょっと聞いてよ」


「なに」


「私たちもう大会近いじゃん? 」


「うん」


「だから、キャプテンに『もう少し練習メニューつめてもいいんじゃないですか』って言ったわけ」


「うん」


「そしたら『私達、どうせ一回戦負けだからそのままでいいよ』って言われたんだよ。どう思う? 」


「陽子の好きにすれば」

 陽子は女子テニス部に所属している。だったらダブルスはまだしも個人戦で勝ち上がっていけるかもしれない。だから先輩に影響されることなく努力を続けたらいい。鉄男はそう伝えたつもりであったが、彼が舌足らずである故、その思いは陽子に伝わることはなかった。


 席を立つ間際に見せた、陽子の物憂げな笑顔が陽炎のように歪んで、いつまでも鉄男の前で漂っていた。



「海に行こう」


「へ? 」

 そんな風に鉄男が陽子を連れ出すことなんて初めてだった。

 呆けた様子の陽子の前で鉄男はしゃがみ込んで、早くと陽子を急かす。陽子は赤く腫れあがった右足を引きづりながら鉄男の大きな背に覆いかぶさる。背に陽子が乗ったことを確認すると機関車みたいに鉄男は走り出した。


「ヘルメット」

 そう言って鉄男はフルフェイスのヘルメットを陽子に渡し、慣れない様子で陽子はそれを被ると間もなく250㏄のバイクのエンジン音が大会会場脇で鳴り響く。


「あーあ、勝手に暴走して、揚句に足捻ってさ、台無しにしちゃった……3年生最後だったのに」


 県大会出場をかけたダブルス。

 陽子は3年の先輩とペアを組んでいたため、『ミスしちゃいけない』と気負いすぎてしまった。加熱するラリーの中、サイドライン外に着地するはずのボールに咄嗟に反応して、ジャンプしながら取りに行った時、大きく足を捻ってしまった。そこからペア間の連携はガタつき、あっという間にダブルス戦は終了した。


 数分前の憤りや、後悔が陽子の胸にまた蘇る。本当は先輩の気遣いの顔や、体育館隅で人知れずなく先輩たちを目に焼き付けなくてはならない。罪悪感で心臓がきゅぅと音を立てて苦しそうに鼓動を刻んでいる。

 だが今、彼女はそれらすべてを置き去りにして、海岸に立っている。どんな心境でも平等な景色。夕焼けに染まる海原の輝きは彼らを魅了する。

 保ってられるはずの顔がぐちゃぐちゃに歪みそうになる。


「陽子は頑張った」


「ちがうよ。私は空回りしてただけ。でも珍しいね、鉄男から誘ってどっか行くのって」


「これぐらいしかできないから」


「どうゆうこと?」


「慰められるような言葉がさ、分かるけどしゃべれないんだ」


「だから、せめて海でも見せようと思ったの? 」


 ゆっくりと鉄男は頷いた。


「ははっ……優しいね鉄男」

 陽子は鉄男にこれ以上心配はかけたくないと潤む瞳から流れ落ちる涙を必死に溢さないようにしながら小さく笑った。

 夕焼け、寂しげな笑顔。

 いつかの陽炎が再び鉄男の前で漂う。


「嫌いだその顔」

 普段より低いトーンで少し早口になる。聞き直すために見上げた陽子の瞼からふいに涙がこぼれる。陽子は慌てて袖で頬を拭う。


「父さんと母さんが喧嘩した後、散らかった部屋でよく母さんがそういう顔をするんだ。だから嫌いだ」


「じゃあどうしたらいいの? 」

 縋るような瞳が鉄男を見る。


「いっぱい泣けばいい。そうしたらいつも通り笑えると思うから」


 隣に立っていた鉄男がしゃがんで陽子の小さな頭に手をのせると、波が引いた後の潮騒のように陽子は今まで我慢してきたものの分、泣き崩れた。


「なぁ、なんで俺のこと好きでいてくれるんだ? 」

 思い切って陽子に尋ねてみる。吃驚したのか、陽子は目を見開いた。


「うーん……何事にも動じないところかな」


「それ一番俺が嫌いなとこなのに」


「そこがいいんだよ。わたしはね怒ったり、笑ったり、泣いたり、驚いたり、いつも心が揺れちゃうから、隣りに鉄男が立ってると安心する」


「そっか」

 鉄男は初めて微笑んだ。初めて心が緩んだ。

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