決戦日 2
「沼田先生、武本先生、今お時間宜しいでしょうか」
放課後、私は二人にもらった力が無くならないうちに職員室へと急いだ。
今日は始業式。部活もなく、長い話をするにはうってつけの日だ。
藤倉君には用事があるから先に帰っていてほしい、とお願いしたんだけれども、今朝の“頑張らないといけないこと”だと察したようで、図書室で待ってる、と言ってくれた。
恐れていた嫌がらせも今の所受けていない。もしかしたらあのときのように藤倉君が何か策を講じてくれたのかもしれなかった。見えない所でも守ってくれる、そんな彼に私の心は益々暖かくなった。
「どうした?」
沼田はデフォルトの眉間に皺。武本先生は、体育の授業では教わっているものの影の薄い私のことだから、必死に誰だか思い出しているようだった。
「美濃部さんのことでお話ししたいことがあります」
そう告げれば、二人の顔は途端に険しくなった。
「進路指導室空いてます?」
武本先生がお伺いを立てれば、沼田は頷き席を立った。
「あっちで聞くよ、行こう」
武本先生は目を伏せる。その表情は鞠のことを憂いているように見えて、少しだけ安心した。
「――で、どういった話だ?」
扉が閉まると沼田は機嫌悪くどっかりと座り込み、私を睨む。忘れていた嫌な話題を蒸し返すな、そんな態度だった。
「とりあえず、座れ」
武本先生は沼田の隣に腰を下ろすと、私に椅子を勧めた。けどそれを断って二人の前に立つ。沼田を上から見下ろせる方が、強気に出られる気がしたからだ。
「美濃部さんはあの日、煙草を吸っていません」
お腹に力を入れる。さあ、勝負だ。
「――なに?」
椅子に預けた背を僅かに起こし、沼田の瞳が鋭く私を射抜く。武本先生は、驚いたのだろう。瞠目し、言葉を失くしたようだった。
「本当の犯人は、C組の西本さんとその友人です」
「ち、ちょっと待て。それは本当か?」
思わずといったように、武本先生は身を乗り出した。
「本当です。見ていましたから」
嘘ではない。戻った世界で見たことだ。それにこれは念のため、毎朝会っている鞠にも確認済みだ。
「何故それを今言う? 何故それを今まで黙っていた?」
苛立ちを隠せないように、沼田の足が貧乏ゆすりを始めた。
「怖くて、言えませんでした。言えば私も疑われると思って。でも、やっぱりそれは間違っていたと思うから、胸に留めておくことができなくなりました。無実の罪で罰せられた美濃部さんの汚名を返上したい、今はそれしか考えていません」
「月島、美濃部とグルになって俺たちを謀ろうとしているんじゃないのか? おかしいだろ、今更」
威嚇するように荒げられた声が、私を苛立たせる。でもここは冷静にならなくては。感情的になったら、ただでさえ理不尽なことに関しては口の立つ沼田だ。すぐに丸め込まれてしまう。
「私が進言したことによるメリットは何でしょうか? 疑われるかもしれないリスクを冒しながらも進言するメリットとは?」
「じゃあ美濃部に脅されたんだろう」
信じられなかった。嘆かわしい、それが教職者の言葉? 話が通じなさすぎてもう呆れるしかない。私は武本先生へと視線を移した。
「当時、彼女がやったという証拠は何だったのでしょうか?」
「沼田先生が現場を押さえたんだ。そうでしたよね?」
「そうだ、俺が女子トイレに入ったときには、床に二本、まだ煙の上る煙草が投げ捨てられ、そこに美濃部が立っていた」
「彼女はやっていないと言いませんでしたか? 吸った人は別にいると」
「言ったさ。だが言い訳するやつはみんなそう言う」
「彼女の呼気は? 煙草の匂いがしていましたか?」
「確認するまでもないだろう! 証拠があるんだぞ!」
「二本、と仰いましたが。二本とも煙が出ていた」
「それがどうした」
「先生、煙草吸われますよね? 二本同時に吸うことってありますか? あったらそれってどんな状況なんでしょう」
武本先生が静かに目を閉じた。それは苦悶しているといってもいい表情で、恐らくこれは、当時も彼女を犯人だと決めつけるにあたっての懸案事項だったのかもしれない。二本吸うにしたって、一本吸って短くなってそれを消してから、二本目にいくだろう。同じ長さの煙草が二本床に転がるって、どう考えたって犯人は一人じゃない。
「そんなのは知らん。煙を多く吸い込みたくてやってみたんじゃないのか? 若いやつらってのはそういう意味のない冒険をしてみたくなるもんだ」
どうやっても自分の良いように解釈して、それが真実だと決めつけたいらしい。鞠はそうやって犠牲者になったのだ。
「先生は、美濃部さんの何をご存知なんですか?」
「は?」
「美濃部さんがどうして誰とも話さなくて、どうしてああいう制服の着方をしていたかご存知ですか?」
「何を言い出すかと思えば。決まってる、不良だからだろう」
馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに尊大に足を組み直し、沼田は鼻で嗤った。
とてもじゃないけど許せるものではなかった。自分が下した愚かな処分が、一人の人生を左右してしまったなんて露ほども思っていない、そんな態度なんて。
「美濃部さんは、去年の春に福井県から越して来たばかりでした」
突然何だ? 訝しげに目を眇める沼田に対し、武本先生は食い入るように私を見ていた。
「美濃部さんが住んでいた所はとても田舎だったそうです。方言も強くて、一生懸命標準語が話せるように頑張ってた。少しでもみんなと打ち解けられるように、みんなに近付けるようにって、制服もカッコよく着こなしてた。
……不良だからに決まってる? 決まってるわけないじゃないですか! 人にはそれぞれ、そこに至るまでのその人にしかない背景や理由が存在する。見た目だけで判断して、話も聞かないで頭ごなしに怒鳴りつけられて、彼女が、純粋な彼女がどれだけ怖かったか分かりますか? 信用してもらえなかったことがどれだけ辛かったか分かりますか? 彼女は実験棟のトイレで、みんなに今日こそは話しかけてみようって、毎日必死に練習してた! それを、それを先生は全部全部踏みにじった!」
最後は感情に任せて捲し立ててしまった。でも普段影の薄い大人しい私が声を張り上げたことは、予想以上の効果があったみたいで、沼田も武本先生も呆気に取られたようにこちらを見つめていた。
「そんなもの、どこにも証拠はない」
やがてぼそりと零す沼田。何と言われようがこれは真実だ、捻じ曲げるわけにはいかない、そう言いたいみたいに、剣呑な瞳で私を見据える。
「じゃあ逆に訊きますけど、状況証拠以外で、美濃部さんが吸ったという決定的な証拠はあったんですか? 彼女は最後まで非を認めなかったのに、それを頭から嘘だと決めつけるだけの決定的な証拠はあったんですか?」
声高に私が唱えれば、項垂れた武本先生がため息と共に吐き出した。
「……それは、なかったと思う」
「美濃部さんは失望したそうです。頑張って苦労して、夢を抱いて入学した有名進学校が、こんな所だったなんてと。
沼田先生、先生は以前こことは正反対の、それこそ不良という名に恥じないような生徒が集まる高校にいたそうですね」
困ったことがあったらいつでも相談に来てね、今朝そう言ってくれた影森先生のお言葉に甘え、先程早速頼らせてもらって得た情報だ。
そして、
『昔はあんな先生じゃなかったらしいんだけどね……』
去り際にポツリと零された台詞。
「それがなんだ」
憮然とする沼田。恐らく私が言わんとしていることを察しているようだった。
「生徒のことを信じて全てを鵜呑みにするのが良い先生だなんて言いません。世の中に善人しかいないなんて、そんな夢のようなことを言うつもりもありません。だけど、鞠が誰とも話さずああいう制服の着方をしていたことに理由があったように、悪いことをするようになってしまった人たちにだって、何かそうならざるを得ないきっかけがあったのかもしれない。
でも先生は、いちいち話を聞くのが面倒になって、その理由やきっかけに耳を傾けることをやめたんですよ。頭ごなしに怒鳴って、片っ端から処分すればそれこそ簡単でしょうからね」
不遜な物言いが逆鱗に触れたのか、とうとう彼は椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。
「自分のことを棚に上げていい度胸だな。お前ごときに何が分かる! 説教などされたくない!」
「ええそうですよ、本当のことなんて何も分かんないですよ。口に出したって、それが真実かどうかは結局本人以外誰にも分かりはしない。それでも話を聞いて、生徒の心に寄り添って、何が真実かをしっかり見極めるのが教師の仕事じゃないんですか? だいたい他人のこと分かろうともしないくせに、何が分かるって何様ですか? 私だって、あんたみたいな頭の固い分からず屋に説教なんかされたくないっ!」
生まれて初めて目上の人に、こんな尊大な口をきいてしまった。でも、後悔はしない。だって沼田が変わってくれなきゃ、結局また第二第三の鞠が出るだけだ。せっかく鞠が登校してくるようになったとしたって、やってもいない罪を背負わされて、前科者という色眼鏡で見られるだけなのだ。
暫く二人して睨み合っていると、武本先生が大きく息を吐き「少し落ち着こう」と場を制した。沼田はそれに一睨みすると、そっぽを向いて腕を組み、どかりと椅子に座りこんだ。
「月島さんは美濃部さんと仲が良いのかな?」
「よく犬の散歩で朝会います。話すようになったのはつい最近ですけど、謹慎になった次の日から、美濃部さんは毎日欠かさず走ってます」
「そうか」
何か思うところがあるのか、武本先生は組んだ手の甲に頭を乗せて考えるように俯いてしまった。
「今更お前はどうしたいんだ」
こちらに目をくれようともせず、沼田は吐き捨てるように言い放つ。
「美濃部さんは出席日数が既に足りていませんよね? なので、私から先生たちにお願いがあります」
「お願い?」
「はい。疑わしきは罰せず、なのに十分な証拠を揃えず美濃部さんを犯人と決め付けた学校側に問題があると思ってます。そして、それを目撃しながら黙っていた私にも勿論問題があります。だから……D組の私が次の模試で一定の成績を残し、次年度、A組に進級することができたら、美濃部さんを二年生にしてください」
「はっ、何だその交換条件は。筋がさっぱり通ってない! そもそも日数が足りてないのに進級なんてできるわけないだろう!」
「鞠はやってないっ! やってないのに決めつけて、彼女の未来を理不尽に奪った責任は重いと思いませんか? 先生、鞠は必ずA組に進級します。進級試験、同じように受けさせてあげてください。
必ずお約束します。私は先生方が望むような有名大学を第一志望とし、残りの二年間、死に物狂いで勉強することを。全国模試の成績だって、満足する結果を残せるよう努力します。学校の評判を上げることに尽力します。だから、だからどうか、鞠を、美濃部さんを進級させてあげてください!」
マスコミに訴えて騒ぎを起こす、これも考えたけど、なるべく卑怯な手は使いたくなかった。騒ぎが起これば、また鞠の名が不名誉な形で晒されることになる。それよりも学校の評判が少しでも上がれば、冤罪により不登校になっていた生徒が進級するなんて、取るに足らない些末な出来事になりはしないだろうか? これが無い知恵絞って私が考えた打開策。
了承の答えが聞けるまで、顔を上げるつもりはなかった。九十度に折り曲げた体、目をつぶってじっと待つ。
「顔を上げなさい」
応えない。上げない。言質を取るまでは。
ややあって、ため息が聞こえてきた。
「二人では決められない。学年主任の先生、校長先生や副校長先生にも聞いてもらわないとならない」
あともう一声欲しい。
「月島さんの言うことは分かった。当時の状況と、もう一度美濃部さんから話を聞いて、彼女の意志が尊重されるよう今度は必ず取り計らう」
「進級させてもらえますか?」
「そうなるよう善処する。担任として彼女を信じてあげられなかった責任は果たしたいと思ってる」
顔を上げた。
「ふん」
沼田は納得していないのか、不機嫌を隠そうともせず席を立った。これ以上はここで話しても先には進まないだろう。後は武本先生の言葉を信じるしかない。
「必要ならば、私も呼んでください。何度だって同じ話をします」
――根気よく努力せよ、さらば叶う。
普段占いはそんなに信じる方ではないけれども、これは意外とどんなことにも通ずる真理なのかもしれないと思ったから。
「うん。話してくれてありがとう」
武本先生は、そこで漸く頬を緩めてくれた。
鞠を信じきれなかったことに、先生ももしかしたら何かしこりのようなものを抱えていたのかもしれない。
「何をやってる」
扉を開けた沼田が、外に向かって語気を荒げた。
驚いて振り返れば、そこには藤倉君が立っていて。
「ど、どうしたの?」
声をかけたけど、彼は武本先生を強い瞳で見つめていた。
「先生、俺からもお願いします」
「盗み聞きとは趣味が良いな」
だけど先生は笑って、任せろ、最後に頼もしい言葉を残し進路指導室を後にした。
気付けば、ブラインドから差し込む光は、もう既にオレンジ色へと変化していた。
「い、いつから聞いてたの?」
「ほぼ最初から、な?」
「え?」
聞こえてきた予想外の声に目を向ければ、扉の陰から姿を現したのは、影森先生。
「先生に、美麗が何か変なこと訊きに来たって聞いて。それと沼田と何故か武本先生に連れられて進路指導室に入っていったって言うから、居ても立ってもいられなくなってさ。こっそりとこんな真似してごめん」
「う、ううん」
「途中何度も突撃しそうになる藤倉を抑えるの大変だったよ。月島さん、随分と威勢が良かったね」
いたずらっぽく笑う先生を見て途端に恥ずかしくなった。沼田にあんたとか言っちゃったし、勢いって怖い。
「いつの間に美濃部さんと仲良くなってたの? もしかしてあの河川敷?」
「え?」
一瞬見られていたのかとも思ったけれども、そういえば藤倉君はあの河川敷を通るバスに乗って学校に通っているんだった。それならば、朝練のある日に美濃部さんを見かけていてもおかしくない。
「うん。仲良くなったのは最近。ずっと思ってた。あんなに凛として綺麗に走る人が喫煙なんて本当にするのかって。それで思い切って話してみたんだ。そしたら本当に優しくて純粋な人だった。絶対にやってないって確信した」
「ということは、本当は現場を目撃していないのかな?」
先生の鋭い突っ込みに、思わずたじろいでしまう。戻る前の私はそう思っていた、そこを基準に話してしまったから、あんなに勢い込んで啖呵を切ったのに、何だかはったりをかましたみたいになってしまった。
「ええと、あのぉ……」
しどろもどろになっていると、別に言いたくなければ良いけどねって流してくれたけど……先生も人が悪い。それなら突っ込まないでほしかったと、つい恨みがましい視線を送ってしまった私は間違っていないはずだ。
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