一月三日
今日も今日とてハナの散歩。河川敷でやきもきしながら待つこと十分、彼女は姿を現してくれた。
そしてその瞳には、昨日までとは違う、その他大勢ではなく私を“昨日の人物”として認識した色が浮かぶ。戸惑うように揺れていたけれども、私は構わず声をかけた。
「おはよう! あの、私ね、美濃部さんと友人になりたいの!」
直球勝負でいった。いろいろ考えたけど、まずは一番伝えたいことを真っ先に口にすることにしたんだ。私の願いはこれに尽きるのだから。
でもそれに、彼女は明らかな動揺を見せた。スピードは緩みかけていたが、そのまま走り去ってしまうようなら、今日はハナを引っ張ってでも追うつもりでいた。
「私あなたとここでよく会うの。この間はぶつかったりもして、ファーストコンタクトはもうばっちり!」
ちょっと自分でもよく分からなくなってきたけど、彼女の足が止まったから、ここぞとばかりに喋らせてもらう。
「いつも思ってた。こうやって一生懸命毎日欠かさず走るあなたが、本当に煙草なんか吸うのかって」
それにこれは本当のことだ。戻る前だって思ってたことだもの。
「でも意気地のない私は、そう思っても、クラスも違うし友人だったわけでもないし、どうやって声をかけたらいいのか分からなくて、結局いつも走り去るあなたの背中を見つめることしかできなかった」
彼女は耳に付けていたイヤホンを取ると、複雑な表情を浮かべる。
「あの……」
「なに!」
話してもらえたことが嬉しくて、つい身を乗り出してしまった。驚いたように一歩下がる鞠に、ここで逃げられてなるものかと喰らいつきたくなる足を、必死で道路に縫いとめる。
「私がやってないって、思ってくれてたの?」
おずおずと窺うように私を見つめる不安げな瞳。うん、私が初めて言葉を交わした頃の鞠と変わらない。
「最初からってわけじゃなくて、ごめんね。私美濃部さんのことそんなに知らなかったから、事件のとき驚いたけど、実は少し怖いと思ってた」
真実を話すのは勇気がいった。下手したら地雷かもしれない。けど、鞠には上辺だけじゃない、嘘偽りなく真摯に向き合いたかった。
「でも!」
俯きそうになる彼女の顔を絶対にそうなんかさせたくなくて、慌てて大声を張り上げた。道行く人が奇異の眼差しを向けてきたけど、そんなことどうだっていい。
でも彼女の名誉が傷つくのは本意ではないから、私は声だけを少しトーンダウンさせて、以前は言うことができなかった思いの丈をぶつける。
「美濃部さんに自宅謹慎が言い渡された次の日だった。私ここであなたに会ったの。美濃部さんは、俯くことも瞳を伏せることもなく、堂々と走ってた」
先程から上り始めた陽の光に、彼女が僅かに目を細めたように見えた。
「全身で、自分の身は潔白だって訴えてるように見えた。何も悪いことはしていない、だからそうやって堂々とお日様に顔を向けて走ってるんだと思った。
美濃部さん…………もう、高校には失望しちゃった?」
彼女が瞠目する。
戻った世界で、彼女に訊いたこと。もしこのまま謹慎になっていたらどうしてた?
少しずるをしたような形になってしまったけど、彼女はあのとき『失望した、がっかりした』と言っていたのだ。
「ありがとう。そういうふうに思ってくれてる人がいたなんて、全然知らなくて。
失望した……うん、確かにあの頃はそう思ってた。頭ごなしに怒鳴られて、信じてもらえなくて悲しかった。でも今はもうそういう理由よりも、こんなに休んじゃって行きづらい、の方が強いかな」
諦めたような哀しい笑顔が胸に痛かった。
いつだってどんなときだって私を励ましてくれた鞠。そのときに一番欲しい言葉をくれて、穏やかに寄り添ってくれた鞠。
だから――今度は私が恩返しをする番だ。
「私、次必ずA組になる」
「え?」
「今はあんまり頭良くなくてD組なんだけど、進級試験で必ずA組になってみせる。私、美濃部さんに朝会ったらおはようって言いたい。お昼になったら一緒にご飯食べようって机くっつけたい。休み時間になったら他愛ない話で爆笑したい。私ね、好きな人がいてね、鞠と一緒に恋バナしたい」
共に過ごした日々が鮮やかに蘇って、最後は少しだけ感情が昂ぶってしまった。勢い余って鞠って呼んじゃったけど、気付いているだろうか。
ただ彼女はくしゃりと表情を歪めると、両手で顔を覆ってしまう。
「もう、遅い。出席日数、足りんてな。わたしは来年、もう一回一年生だ」
思わず、え? と見つめれば、しまったというように口を塞ぐ鞠。涙の溜まった瞳は、可哀想になるほど動揺していた。
「鞠っ!」
でも私はそれが心底嬉しかった。だって、いつの世界でも鞠の方言を聞いたことなんてなかった。必死に標準語を練習していたのを知っている。だから尚更、取り繕うことを忘れるほど、今この瞬間、後悔してくれていると知ることができて嬉しかった。
思わず飛びついた私に、鞠は押し倒されて尻もちをついた。
「美濃部さん、私沼田に掛け合うから、必ず進級できるように説得してみせるから」
「え?」
道路の真ん中で座り込み抱き合う私たち。ハナがじゃれ合ってると思ったのか私の背中に飛びついてきて、体重を支え切れなくなった鞠は、遂に私とハナ共々寝ころぶ羽目になった。
「勉強、いっぱいしといて! 進級試験で一緒にA組になろう!」
力いっぱい鞠を抱きしめる。
「……うん、……うん、ありがとう」
「ワンワン!」
鞠の涙をハナが舐めて、私の涙をハナが舐めて。
涎ででろでろになった顔を見合わせてひとしきり笑った。
やっぱりそれは、途轍もなく幸せな時間だった。
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