第50話 相合傘 -後編-
「今日は茜ちゃんがお仕事なんだよね」
パン屋さんに設置されたテーブルの僕の向かい側で、秋田さんが同じく焼き立てパンを食べている。
僕は食べ終わっていたのでちびちびとジュースを飲んでいるだけだ。
「そうなんですね」
野花さんは今日もモデルの仕事だろうか。そういえば僕ももうすぐ次のバイトが入っていたかな。
七月の頭になれば期末テストが始まってしまうから、それよりも少し早めにバイトだったので、問題なくお仕事ができそうだ。
「黒塚くんは次のバイトっていつだっけ?」
ちょうど考えていたことを秋田さんに尋ねられる。なので答えはすぐに出るのだ。
「来週の金曜日ですね。学校が終わってからそのまま行きますよ」
「そうなんだー。大変だねぇ……」
うーん。そう言われても、月に一、二回程度だしなぁ……。それにまだまだ二回目だし。まだ大変だと思ったことはないかな。
終わってしまえばあっという間だったし……。
「そうでもないですよ……。回数が少ないので、むしろ助かってます」
毎日働くことを考えたら楽だよね。
「そっかぁ……。わたしも誘われたんだけどねぇ……」
「そうなんですか?」
確かに……、野花さんがモデルをやることになった理由はわからないけれど、友人である秋田さんもかなりの美人さんだ。
むしろ普段の野花さんを思えば、秋田さんのほうに声が掛かったりしそうなものだ。
「うん……。でもわたしはどちらかというと、表に出る人の服をデザインしたいのよね」
あー、なるほど。そういえばデザイン科の大学でしたね。
「だから今のわたしの夢は、菜緒ちゃんの服をデザインすること……かな?」
正面に座る秋田さんがにっこりと、そしてちょっと恥ずかしそうに微笑む。
まっすぐにこちらを見つめる秋田さんに、僕の心臓が跳ね上がる。
上気した桜色の頬に、薄い唇、しっとりと濡れた瞳が僕の視線を引き付けて離さない。
「……そ、そうなんですか」
かろうじてその言葉を絞り出したことでようやく、激しく降る雨の音が耳に入ってきた気がした。
「なんてね」
言葉を濁す秋田さんだったけれど、僕にはその言葉が本心のように思えた。
だって……、秋田さんの瞳が綺麗だったから……。
「あー、美味しかった。明日の朝ごはん用に買って帰ろうかなあ」
しばらく無言で残りのパンを食べていた秋田さんが、名残惜しそうにパンが入っていた紙のトレイを眺めていた。
「……僕も買って帰ろうかな」
「うん。それじゃあ行きましょうか」
テーブルの上を片付けると、二人はまたなんとなくパンを選ぶためにトレイとトングを手に持って物色を始めている。
「黒塚くんは何か好きなパンってあるの?」
あんぱんの前でじっとしていた秋田さんがふと声を掛けてきた。
「僕は明太系のパンが好きですね」
さっきまで食べていたパンは明太フランスだったけれど、僕は明太系ならなんでも好きなのだ。
「あはは、やっぱりねー。黒塚くん幸せそうだったし」
「ええっ? 僕そんな顔してましたか……?」
予想外の答えに頬が熱くなるけれど、幸いにして秋田さんはあんぱんを物色中だ。こちらには気づいていない。
振り返られないうちに、僕もパンを選ぶふりをして秋田さんから視線を外す。
と、たまたまそこに明太ポテトパンがあった。
「うんうん。とってもかわいかったよ」
嬉々として目の前のパンをトレイに載せると、またもや予想外の言葉を告げられた。
明太子のおかげで若干収まっていた恥ずかしさがぶり返してくる。
そして目の前の明太ポテトパンを見て、もしかして今さっきもそういう顔をしていたのかと思い当たると、ますます顔に集まってきた熱が収まらない。
恥ずかしさに耐えられなくなり、逃げるようにしてレジへと駆け込むが、秋田さんもあんぱんを選んで満足なのか僕の後ろに付いてくる。
「じゃあ帰ろうか」
パンを鞄に入れて、傘立てに挿してあった傘を手に取るとお店の外に出る秋田さん。
気づけば小降りになっているようだ。これなら多少走れば大丈夫かな。
「あ、僕傘忘れたんで、走って帰りますね」
「……何言ってるの。傘なら……、あるでしょ?」
僕の言葉にピクリと反応した後、ちょっと恥ずかしそうにもじもじしている秋田さん。
一瞬何を言っているのかわからなかったけれど、確かに秋田さんの傘はそこにある。
けれど僕の傘は自宅だ。
「えっと……」
「ほら、一緒に帰るよ」
躊躇っていると、秋田さんが僕の手を取ってパン屋さんの外へと引っ張りだした。
雨空の下に連れられた僕と秋田さんの間に傘が差し込まれる。
間に傘が差し込まれるということは、僕を引っ張っていた手に傘を持ち替えたということで、残念なことに僕の手を握っていた秋田さんの手は、今は傘を握っている。
ここまでされてやっぱり走って先に帰るとも言えず、秋田さんの傘の範囲から出ないように、それでいて秋田さんにあまり接近しないような距離を保ちつつ家に帰るのだった。
まさか早霧に心の中で言った文句が現実になるとは思わなかった。
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