第一章 ヒトダスケ(2)

 ―昨夜―


 夜空に浮かぶ、無数の小さな星が、暗い夜道に光を与えていた。その明かりに照らされている十字路を右に曲がり、少し歩いて行くと、古ぼけた居酒屋がひっそりと佇んでいる。

 そこは、近藤の行き付けの店だ。今日も、黄昏時から店に入り、今も一人酒を飲んでいる。店内は、数人しか客がおらず、なんとも殺風景な様子であった。

 普段ならば、全ての長床几に客が目一杯になる程、混雑しているが、最近はめっきりと客足が途絶えてきた。そんな、まばらな店内を見つめ、近藤は手酌をする。杯いっぱいの酒を、一気に飲み干そうとしたが、冷たい陶器が口に触れた瞬間、彼は、小さく溜息を漏らし、器を机に戻す。一口も喉に流されなかった酒に映る、自身の物憂げな顔を見つめ、先程よりも大きな溜息をつく。

 そんな時、若い男が、近藤に声を掛けてきた。

「どうした、色男。

そんな溜息ばぁっかついちゃってさ。

いい顔が台無しだぜ?」

 男は、随分な伊達姿で、顔も役者のように整っている。

「丁度いい。

あんたも俺も一人だ。

一緒に一杯やろうぜ。

そのついでに、あんたの悩みも聞いてやっから、な?」

 男は、楽し気に言うと、勝手に近藤の正面に腰を下ろす。

「おっさん、酒、こっちな。」

 左手を高く挙げ、店主に手をひらひらと振ると、そのままその手で床几に肘を付き、手の甲に頬を乗せ、男は近藤に向き直った。

「で、あんたの名は?

ん?あ、ちょっと待て、ちょっと待て!

人の名を尋ねる前に、まず自分からって言うな。

悪かったな。

俺の名は、覇王樹ってぇんだ、宜しくな。」

 覇王と名乗った男は、ニッと笑う。その笑顔に、根が優しい近藤は、すぐに心を許した。

「俺は、近藤勇だ。

こちらこそ、宜しく頼む。覇王くん。」

「ほぉー、それじゃぁ、あんたがあの有名な壬生浪士のお偉いさんなのか。」

 覇王は、今しがた店主が持ってきた酒を、杯に注がず、徳利に直接口を付けて、中の酒を飲み始めた。近藤は、驚きながらも、覇王の姿を、まじまじと見つめ、(格好に似合った飲み方だな)と、納得し、自身は杯の酒を飲み干す。

「壬生浪士か……。

ほんの少し前の事なのに、その名をこんなにも懐かしく感じるのか。

色々あったものだ、ここまでくるのに……。」

「ん?……あぁ、そうか。

あんたら、もう壬生浪士じゃねぇんだったな。今は、お上から賜った立派な“新選組”って名があるんだよな。

そんで?」

「は?

そ、そんでとは、何がだ?」

「いや、だからよ、武士としてこれからっつう時に、あんたは何で、んな暗い顔して溜息なんかついてんのかって聞いてんだよ。」

 近藤は、その質問に躊躇いの色を見せた。しかし、特に差し支えもないかと思い直し、胸の内を明かすことにし、口を開く。


「君は、この店をどう思う?」

 辺りを、ぐるっと見回しながら、覇王は、「どうって、まぁ綺麗じゃねぇし、てか汚ぇけど、安くて味もそれなりで、俺は別に嫌いじゃねぇよ。

おっさん一人で頑張ってる感じとか、好きだしな。

ただ、最近あんまし客、見てねぇな。

……つか、これ、あんたの悩みと関係あんの?」と、顔をしかめる。

「まぁまぁ、話は最後まで聞いてくれ。

この店に来る途中に、十字路があるだろう?そこに出るために、渡る橋が架かっているのを知ってるか?」

「勿論、知ってるさ。

そもそも、そこを通らねぇと、十字路から先に行けねぇし。

なんてったって、そこを渡らねぇと、ここへ、酒も飲みに来られねぇからな。」と、覇王は徳利の首を掴み、くるくる回す。

「じゃぁ、その橋に、物の怪が出るという話は?」

「知ってるよ。

あれだろ?黄昏時迎えてから、刀を差してあの橋を渡ると、必ず何人か行方知れずになるってやつか。しかも、行方が分からなくなった奴は、橋の下で死体になって転がってて、おまけに、心の臓やら肝やら、臓物がくり抜かれてるって話だろ?

ま、俺は家に刀置いてきたけどな。」

「実は、俺も、置いてきたんだ。」

 覇王は、近藤の一言に目を丸くする。

「あ、あんたさ……。

一応、武士だろ?

何、自由やってんだよ。

てか、危ねぇだろ、良いのか?」

「いや、だがな……物の怪はちょっと。

見たこともないものに出会うのは、ちと怖いだろ?

だから、刀は置いてきたんだ。

それに、目立たないように、人目をはばかって来たから大丈夫さ。」

 呆れて覇王が何も言えないでいると、近藤は、話を続け始めた。

「でだな、覇王くん。

この店の客が減ったのは、その噂の物の怪のせいなんだよ。

ここの客は、橋を渡ってくる人の方が多い。だから、その噂が広まってから、黄昏近くになると、あの橋には誰も近付かなくてな。」

「なるほど。

十字路から先の土地なんざ、貧しい人間しかいねぇからなぁ。

いくら安いとはいえ、こんな所に食いに来られる奴なんて、いねぇわな。」

 二人の間に、静寂が生れる。

 覇王は、徳利の注ぎ口を持ち、くるくると手首を動かしながら、徳利で円を描く。見えない渦を見つめながら、彼は、胸に抱いていた疑問をぶつける。


「だから?」

「は?」

「は?じゃねぇし!

だから、この店の客足が悪くなったのは分かったよ。

そらもう、よ~く分かったさ。

けどよ、あんた、ここの店主でもないってのに、どこに悩む理由があるんだよ⁉

店のおっさんと友達か?親戚か?流行りの衆道なのか⁉

俺が聞いてんのは、あんたの悩みだって言ってんだろ‼」

 覇王は、持っていた徳利を、投げるように床几に置く。

「しゅしゅしゅしゅしゅ衆道⁉

まさか、そうではない!

だからといって、親戚でもなければ、友達でもない……。

いや、あのだな……。」

 何かを言おうとしては迷い、口を閉じたり開いたりと繰り返し、近藤は中々思いきれないでいた。そんな様子を見つめ、覇王は再び徳利を手にし、中の酒を口に流す。


(我慢だ、我慢。

辛抱することが大事だって、誰か偉い奴が行ってたんだ、多分。

苛々するなぁ、俺。

もうすぐだ。

この男が、俺の自己紹介の輝かしい若者笑顔で、コロッと自分の名を名乗っちまうよう奴だってことは、さっき確認済みじゃねぇか。

しかも、話に聞くところ、馬鹿がこびりつくくらいのお人好しで、何でも信じやすいそうらしいしな。

だから、もう少し、もう少し待てば、あの話を必ずするはずなんだ。)

 この覇王樹という男、ある噂を確信付け利用するために、あたかも偶然を装い、近藤に声を掛けていたのだ。つまり、これは、偶然とか、奇跡的な出会いでもなんでもない。必然なのだ。

 そんな思惑に、全く気が付く様子のない近藤は、何かに決心をつけるかのように、大きく息を吐く。

 覇王が、うっすらと笑みを浮かべるのと同時に、近藤は口を開いた。


 「実は、あまり公にはするな、とお上に言われている件なのだが。

君に、話しても良いものかと、考えていたんだ。

本当は、話すべきではないのかもしれないが、ここでこうして出会い、酒を飲んだのも、きっと何かの縁に違いない。

だから、君には話そうと思うが、くれぐれも内密にな。

しーだぞ?しー。」

 人差し指を唇にあてながら、近藤は真剣な面持ちだ。

「おっ……おう。

む、胸がどくどくするぜ。」

「俺も、心の蔵がどくどくしてきた。

しかし、決めた以上は話さねば。

武士に二言は許されないからな。

……実は、近頃の京の治安を脅かしているのは、攘夷の所謂、討幕派の連中だけでなくてな。

その~あの~なんというか。」

「しゃんとしろや。

武士の二言にするつもりか?」

「きっ君が信じるかは自由なんだが、人ならざる者も、加わっているんじゃないかと。

もっと分かりやすく言えばだな、例えば、物の怪とか幽霊とかだな、そういった類のものが、頻繁に京に現れては、人を襲っているようなんだ。

しかも、それらに狙われる大半が、武士や幕府の関係者であってな。

もしかすると、人ならざるものが裏で、人に使われている可能性があると気付き、おそらくは、討幕派の連中が黒幕ではないかと、俺たちは踏んでいるんだ。

まさか、そんな時代になるとはなぁ。

人間が、人ならざる奇々怪々なものを使役して……考えてもみなかったよ。」


「あのさぁ、人間がよぉ、物の怪や幽霊なんぞを使役できることに驚くも何も、そんなこと今に始まったことじゃねぇだろ?

なのに、一体あんたらは、どこに驚いてんだっての。」

 口を開けたまま、目を丸くしている近藤に、大きく呆れながら、覇王は鼻で息を吐く。

「今の、この時代なんかよりも、ずーっと昔、平安時代の頃だが、あの頃は特にそういった物の怪の使役だ呪術だが、お盛んな時で、色んなことやってたさ。

まぁ、陰陽の人間が、利用を得意とする使役物の式神なんかも、大雑把にまとめちまえば物の怪と変わらねぇしな。

ただ、そういったことは一部の人間がやってたことだから、詳しく知らねぇ奴がいても不思議じゃねぇが、今話したことくらいは、まぁまぁ知られてるんだぜ?」

「そ、そうだったのか……。

全く分からんかった。」

 肩を落とす近藤に、気にすんな、と言いながら徳利の酒を飲み干す。

 「それで、君に叱咤されたように、俺たちは、そういうことに無知でな、さっぱり分からないんだ。

そういう事件が起きたって、手の施しようがないくらいにな。

捕らえることはおろか、首謀者をはっきりと特定することすらかなわない。

そうこうしているうちに、京の治安はどんどん乱れ、もう、俺たちはどうして良いのか。」

「なるほど。

治安の悪さや、民衆からの苦情を耳にしたお偉いさんに呼び出され、怒鳴り散らされたってわけか。」

 くだらないというように、覇王は鼻で笑う。

「そうなんだ。

『物の怪⁉幽霊⁉

貴様らは、我々のことを馬鹿にしているのか、そもそも、それが事実だとしてもなんだというのだ!

それをどうにかするのが、貴様らの役目だろ、いいか?早急に対処しろ!』とか、怒鳴られても、どうしようもないというのに……。」

 今までより、一段と大きな溜息をつくと、近藤は、がくんと項垂れてしまった。それとは反対に、覇王は腹を抱え反り返りながら、大笑いしている。目には、うっすらと涙を滲ませながら、両足をばたばたと動かし、転げ回りそうな勢いだ。

 情けなさと呆れの混じった顔で、近藤はその様子を見つめている。

「そんなに面白いか?」

「あははははははっ!

あぁ、あぁ、可笑しいよ!

いかにも、頭の固いお偉いさんって感じだな。対処方法が分からんねぇから困ってるってのに、早急に対処だぁ?

あははははははっ!

よじれる、は、腹がよじれるぅぅっ!

す、すまねぇな、はははははっ。

そっか、んで元気がなかったってことか。」

「どうしたことやら。」

 困り果てた近藤を見ながら、覇王は壁に背を預ける。

(やっぱ、討幕派の連中が物の怪なんかを使って、怪しい動きをしてるってのは、本当だったみてぇだな。

面倒くせぇ世の中になってきやがったぜ。

にしても、幕府の人間は、呪術なんかにも詳しい奴がいることを隠して、家は家、ヨソはよそってか。

厄介事は、新選組行きって具合だなこりゃ。馬鹿な連中だぜ、全く。

大方、自分たちの呪術者が、ぐうの音もでない状態だったから、手を貸さなかったんだろうが、それを棚にあげて……嫌な連中だ。)

 首を垂らす近藤に、視線だけ向けながら思案にふけっていると、突然、垂れ下がった首が跳ね起き、輝きに満ちた双眸が、覇王をじっと見つめる。


「なっ、なんだ!

どうしたんだよ!

男に見つめられたって、嬉しくねぇんだけどよ。」

 今日、出会って何度目かの驚きを浮かべている近藤を、忙しいこった、と覇王は苦笑する。

「さっきから聞いていれば、覇王君、君はそういった奇々怪々なことに詳しいように思うのだが。

どうなんだね⁉」

「あーまぁ、この世の人間よりは詳しいな。

てか、俺、人間じゃねぇから詳しくて当然なんだけどよ。」

 そう言うと、覇王は、徳利を満たしている酒を、一気に喉の奥へ流し込んだ。

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