短編集「飛ぶ蟹」
オカワダアキナ
1.「講和条約と踊らない叔父さん」(全文)
叔父さんのガールフレンド、ゆみこさんがかつての相棒と講和条約を結ぶという場に同席することになった。三年前に絶交してそれきりだったが、ついに和解するのだという。貸し借りしていたものを清算するらしい。ようするに僕には全然関係ない。クリームソーダがおいしい。
「緊張する」
ゆみこさんは美容師で、ころころ髪型が変わる。金色だった髪は真っ黒なベリーショートになっていた(こっちのほうが似合うと思う)。いっぽう叔父さんはつねにくしゃくしゃの髪とよれたシャツで、歳だって十五も上だ。大人のカレシカノジョというのはよくわからない。
「この店禁煙かよ、喫茶店のくせに」
叔父さんは文句を言って、お冷の氷をがりがりかじった。しゃんとすれば格好いいはずなのになと思う。たぶん死にかけているから、あきらめている。叔父さんは今年で四十になる。白髪がいっぽん、ぴょんとはねているのが見えた。あとで教えてあげようと思う。
「外で吸ってくれば?」
「暑いからいい」
そもそもは叔父さんが免停になったのが悪い。今日は朝からプールに行く約束だったのだ。いわく、「あの道は百キロ出さないと煽られるから、おれの自由意志でスピード違反したわけではない、社会が悪い」。
そういうわけでガールフレンドのゆみこさんに車を出してもらい、カフェでブランチをしてから行こうということになった。けれど出かける直前、ゆみこさんから連絡がきた。
突然だけどいまから元相棒と和平交渉をすることになった、二人にも立ち会ってほしい、と。
「……どうして僕らも一緒にいなきゃいけないの」
ゆみこさんがトイレに立ったので、こそっと叔父さんにきいてみる。もうお昼だ。快晴、真夏日。早いところ、流れるプールを永遠に回遊するサカナになりたい。叔父さんはゆみこさんのバゲットサンドをめくると、ピクルスをはがして食べてしまった。
「心細いんだと」
「でも僕はゆみこさんの友だちのことを知らないし、けんかした事情も知らないし、なんならゆみこさんのことだってほとんど知らない」
夏休みを叔父さんの家で過ごすことにしたのは、べつに母さんと喧嘩したからではない。東京にいたくない理由はいくつもあった。塾の夏期講習や文化祭の準備や近所の工事の騒音や。ついでに母さんが紹介したがっているモリモトさんと会うのも気が進まない。モリモトさんが新しいお父さんになるのだとして、決定権は十三歳の僕にはない。親しくなっておく必要なんてない。
「おれだってそうだよ」
叔父さんは肩をすくめた。
「……叔父さんは彼氏なんだから、ゆみこさんのことはよく知ってるでしょ」
「知ってるよ、顔と名前をね」
叔父さんはあくびした。
「それだけ?」
「うん」
細い目はとろんと濁って、やっぱり死にかけている。
「……変なの」
叔父さんの研究をしたいなと思った。夏休みの宿題、自由研究。厄介かつコドモっぽい宿題だけど、叔父さんの観察ならしてみてもいい。ビョーキではない。ゆっくり静かに死に近づいているのだと、叔父さんは言う。
「おっぱいがどんなかも知ってるな。ちっちゃくて固い」
「三年前に大げんかしたの」
ゆみこさんはサンドイッチをもそもそ齧りながら言った。ピクルスの消失には気づかない。
「ささいなことだったけど、どうしても許せなかった。私たちはずっと相棒で、とても仲が良かったのにね。三年間、連絡をとらなかったよ。でもいつもあの子のことを考えていた。どうしてこうなってしまったのか、どうしたら絶交せずにすんだのかって」
話が抽象的でよくわかんないなと思った。窓の向こうを眺める。アスファルトが陽炎でゆらめいている。
国道沿いのこの店はおしゃれなつくりではあるけれど、両隣をパチンコ屋と新興宗教の神殿みたいな建物に挟まれているから台無しだ。だだっ広い国道は断続的に車が行き交い、サカナの多い川みたいに見えた。この町は車がないとどこへも行かれない。
「生きていると、いろんなことがある」
叔父さんの口ぶりは重々しかったが、たぶんテキトーに沈黙を埋めた。眠そうにストローの袋をいじっている。
「避けられない国交断絶もある」
叔父さんはむかしバレエダンサーだった。白くて細長い身体でさまざまな舞台を踊った。写真を見せてもらったことがある。レオタード姿で、身体も顔もぴんとしていた。僕の生まれる前の話だ。今はブラブラしている。おじいちゃんの遺したお金を少しずつ使っている。
「ゆみこさん。席、このままでいいの」
四人掛けの席は叔父さんと僕が隣り合っていて、ゆみこさんは向かいに座っている。空いているのはゆみこさんの隣だ。和平交渉というのは、対面でおこなわれるべきではないのか。
「大丈夫。ありがとね」
十三歳なのにしっかりしてるね、と言ってゆみこさんは笑った。おかしなことを言う。十三歳なんだから、世の中のだいたいのことはわかっていて当たり前じゃないか。
「お待たせ」
カラン、とドアベルが鳴ったと思うと、女の人が一人、迷いなくこちらに歩いてきて声をかけた。
「久しぶり」
〝元相棒〟はゆみこさんと瓜二つだった。
午後のプールは混んでいて、しかし僕の想像とは大きく異なっていた。五◯メートルプールと子供用プールしかない。
「流れるプールは?」
「この町にそんな気の利いたものはない」
叔父さんは日陰のベンチを陣取り、ふふんと笑った。
僕とゆみこさんは日が陰ってしまうまで何往復も泳いだ。そのあいだ叔父さんはずっと昼寝していた(信じられないことに水着を持ってこなかったのだ!)。ゆみこさんはクロールが上手かった。ぴったりとした水着で、たしかにおっぱいは小さい。そろそろ上がろうか、と言って僕の手を引いたゆみこさんは、化粧が落ちて子供っぽい顔をしていた。
「……これで本当にさよならだな」
短い髪から水滴をしたたらせたままのゆみこさんと、手をつないでプールサイドを歩く。僕は分別ある十三歳なので、こんなことでドキドキはしない。
「さっき仲直りしたんじゃなかったの?」
うーん、とゆみこさんは唸る。
「ケンカしてからずっと、あの子のことを考えていたよ。憎らしく思ったり、かなしくなったり、あらゆることを考えた。ほんとは好きだったこともね。でもそれは会えなかったからなの。絶交していたからこそ、あの子のことばかり考えることができたんだよ」
カフェでのやりとりを思い出す。
「これ、返すね」
瓜二つの元相棒は、ゆみこさんに本を差し出した。
「私もこれ」
ゆみこさんは靴箱を渡し、そうしていろいろなものを交換し始めた。顔も背格好も声もまるで同じ、服装と髪型がちがう。短い髪にTシャツ姿のゆみこさんに対し、元相棒は髪が長くてふわっとしたワンピースを着ていた。
「元気だった?」
「なんとかね」
グラスを持つ手も同じに見えた。細い指、甲に浮いた血管。
「……子どもは?」
ゆみこさんが小さな声で尋ねた。
「幼稚園。ピアノを習い始めたよ」
「そう。……これで戦争は終わりかな」
「そうだね、平和条約」
元相棒は叔父さんと僕を交互に見た。ハンサムをふたりも連れちゃって、とゆみこさんを茶化した。それから同じ手で握手し合い、さよならと言って去って行った。ワンピースの裾もひらりと手を振った。
ベンチに並んで、みんなでコーラを飲む。叔父さんがにやりと笑う。
「でも可能性というのはおそろしい。ゆみちゃんは案外、ああいう格好も似合う」
「よしてよ。無理だと思って、今ここでこうしてるんだから」
前にゆみこさんと話したこと。ゆみこさんは以前、原宿の美容室で働いていたのだそうだ。そこのオーナーとつきあっていたけど別れて、故郷であるこの町に帰ってきた。オーナーには奥さんも子どももいたからだ。戦う、あるいはシングルマザーをやる、そういうジョーネツはなかったの。そう言っていた。
「きみたちが一緒にいてくれてよかった」
ゆみこさんはまたしてもへんなことを言う。僕らは何もしていない。
「……おれも、バレエを踊り続けているおれに会いたいな」
「さよならする勇気が?」
どうかな、と言って叔父さんはコーラをあおり、当然のようにげっぷした。
「さよならする前に、おれは踊り方を忘れてしまったよ」
アパートに帰ってきてからも、叔父さんは眠そうだった。体力がないと言ってすぐ横になる。
「……叔父さん、ちょっと踊ってみて」
叔父さんの頭からはまだ白髪がぴょんとはねている。なんだかその屹立を見ていたいと思って、言いそびれてしまった。踊らなくなった叔父さんは、歳をとることを死にかけると言ってはばからない。一日一日、少しずつ死んでいく。少しずつ、アタマも肉体も止まっていくのだとぼやく。
「やだよ、めんどくさい」
と言いつつ、アラベスクというポーズをやってみせてくれた。すうっと脚が高く上がった。
「脚だけ上げてるわけじゃない。骨盤のポジションと背中、腕を使って脚を伸ばしているんだよ。身体はぜんぶが繋がっているから。アラベスクをきれいに上げるためには、手を指先まで伸ばさなきゃならない」
さよならするためには、和解しなきゃなんない。叔父さんはぼそっとつぶやいた。クルマのサカナが行き交う川、その向こう岸の店。流れるプールみたいに循環はしない。自由研究に書くべきことは多い。
「よくわかんないけど、叔父さんはとてもきれいだよ」
もう一回、とねだってみる。気を良くした叔父さんはピルエットという回転をやってみせようとして失敗し、畳の上で盛大に転んだ。母さんに写メを送ろうかと思って、やっぱりやめた。
〈了〉
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