第12話
康子は、有楽町の駅前で待っていた。
なんだか気乗りはしなかったが、思い切って気持ちを前に進めるしかない。
五分ほどすると、髭をたくわえた眼鏡をかけた男性が現れた。
「あの、水野康子様でいらっしゃいますか?」
康子は、こくりと頷いた。
「わたくし、司法書士をしております、松田兼則と申します。こちら、名刺になります」
三十代前半くらいで若そうには見えたが、その堂々たる雰囲気には経験と知識があるように見えた。
「松田法律事務所 司法書士 松田兼則」
と名刺に記してあった。
「まあ、お若いのにご自分で開業されているんですか?」
「ええ、まあ、若気の至りで開業しましたが、今までになんとか至っております」
そう言って、松田は微笑んだ。
康子は、そのまま松田兼則と近くの喫茶店に入った。
「わたくし、まず土地を売るにはどうすればいいのか、分からなくて・・・」
「そうですね。まずは、今、北鎌倉に持っていらっしゃる別荘の不動産登記が、ご主人名義になっていますから、奥様にまず名義を変更する必要があります」
そう言って、松田は鞄の中から、資料を出してきた。
その資料は、主人の水野浩二が土地を買った時の手続き書だった。
「まあ、すぐに名義変更というわけにもいきませんから、奥様のご意思を再度確かめたいと思いまして・・・」
「そうですね。私もやはり、あの別荘には思い入れがありますので、本当は土地を売却したくないのですが、うちには土地を相続する子供もおりませんし・・・」
「それでしたら、老後の資金の事も考えて、高い値段で不動産屋に土地を売買してもらうのがいいかと・・」
松田は、滞りなく、しかし誠実にこちらの意図もくみ取りながら相談に乗ってくれた。
一時間程、松田と土地の登記変更や土地の売買の話を相談したところで、康子は、喫茶店を後にして、家に戻った。
―――あの司法書士の方なら、若いけど、頼りがいがあって、誠実そうで心配ないわね。
康子は、これでやっとあの土地ともおさらばするのかと思うと、少し侘しい気持ちになった。
麻里江は、意識を取り戻すと、自分がどこにいるのか分からなかった。
―――ハルおばあちゃん。脚が悪いなんて演技してたのね・・。
麻里江は、あのハルおばあちゃんに、さるぐつわとロープで両手首と両足を縛られたせいで、暗闇の中で身動きできなかった。
「俊之?」
横を見たが、俊之はまだ暗闇の中で意識を失ったままだった。
俊之に触れたかったが、体がずっと同じ態勢をとっていたせいか、体の節々が痛む。
しかも、両手、両足の自由が効かない状態にあっては、何もすることができなかった。
多分、麻里江はあの催涙スプレーをかけられた後、布で口元を抑えられたが、あの布にはクロロホルムが含まれていたのだろう。
なんで、残酷なことをする家族だろう。麻里江は、ますます家族に対する不信感が募った。
恐らく、麻衣子も同じように今頃別の場所で意識を失っていることだろう。
麻里江は無理矢理、それでも体を動かした。体は横向けに一回転し、何か引き戸のようなものにぶつかった。
―――ここは、もしかしてハルおばあちゃんの部屋の押し入れの中かしら?
足でつつこうと思っても、引き戸にはなかなか届かなかった。
その時、引き戸の向こうからハルおばあちゃんと母親が話している声が聞こえた。
『まったくねえ。あの水野康子って女も馬鹿よね。よりによって、別の女を連れてくるなんて。』
『そうですねえ。あれは私も予想外でしたわ。まったく、こちらの夕食の準備に手間がかかるのも少しは考えてほしいですわ。』
『あの、馬鹿女!麻里江達だって、何を企んでいるのか分からないからねえ。どうしようかねえ?』
麻里江は背筋が凍る思いだった。
ハルおばあちゃんは、一体、家族自体をどう思っているのだろう。
普通であれば、孫や子供をかわいがるはずである。それでも、麻里江達をいざとなれば、処分しようとしている魂胆が丸見えだった。
―――もしかして、お母さん達、水野さんの奥さんをあの晩、殺す気だったの?もしかして、伸さんを殺したのもハルおばあちゃんなの?何故、伸さんと隣の別荘の御主人を殺したの?
麻里江は、頭の中が疲労とショックで、ぐるんぐるん目眩がした。
それでも、麻里江はあまりに呼吸が苦しくて、体を思い切り反転させて、引き戸に体当たりした。
ギ――ッ
引き戸を開ける音と共に、明るい光が引き戸の中に入ってきて、思わず麻里江はまぶしくて目を細めた。
「麻里江がどうやら目を覚ましたようだ」
引き戸を開けたのは父親だった。
「お父さん、お願いだから、この布をとって!」
麻里江は、さるぐつわの中で自分の声がくぐもって聞こえるのが分かった。
「しょうがねえなあ」
父親は、ゆっくりとした動作で、麻里江の口元に当ててある布を解いて、ロープも解いた。
「お父さんたち、酷いわよ!何も私たちにここまですることないじゃない!」
麻里江は疲労困憊の中でも、体中の力を振り絞って、怒りで声を震わせた。
父親は、仁王立ちしたまま、無言のままだった。
俊之も、麻里江の叫び声で、どうやら目を覚ましたようだ。
布の中で、唸り声が聞こえた。
父親は無表情で、俊之のさるぐつわとロープを解いた。
「お前たち、誰か他人がこの家に入ってきても下手な真似はするんじゃないぞ。分かったか?」
俊之は、まだ完全に頭が朦朧としているのか、無言のまま下を俯いていた。
麻里江と俊之はなんとか、意識を取り戻したものの、お腹が空いていることに気づいた。
母親は、無言で、シチューとパンを麻里江達の座っているテーブルに置いた。
―――そうだ。今日は、隣の奥様が家に来ていたんだわ。その夕飯の残りね。
空腹には、牛肉の赤ワインのシチューとパンは体中に染みわたった。
―――私たち、このままどうするのかしら?もう後二日でバケーションは終わるのに・・・。
麻里江は、不安になりながら、シチューをすべて平らげた。
その晩、麻里江は自分が汗臭いことに気づいて、風呂場に向かった。
一階の風呂場から、また男女の声が聞こえる。
―――また、ハルおばあちゃん?
麻里江は、ハルおばあちゃんに関しては、完全に不信感を抱いていた。
お風呂に一緒に入っているのは誰なのか知りたくて、とうとう風呂場の扉を開けた。
麻里江は一瞬息を飲んだ。
そこにいたのは、あの管理人のおじいさんだった。
「あんた、人の風呂場を勝手に覗くもんじゃないよ!」
ハルおばあちゃんは、麻里江に向かって叫んだ。
管理人の方を見ると作業着は着ている物の、ハルおばあちゃんの背中を桶で流していた。
「いやー、変な風に映るかもしれませんが、ハルおばあちゃんが一人でお風呂に入れないっていうものでね・・・。そのお宅の家族に面倒を見てくれと頼まれましてね」
管理人のおじいさんは、それでも笑顔を絶やさない。
麻里江は気持ちが悪くなった。
―――そんなおばあちゃんの面倒なんて家族が見ればいいじゃない!
管理人の柳田茂にも嫌悪感が募った。
―――いい年して、二人とも色気があって気持ち悪いわ。どういう関係なのかしら?本当に家族が頼んで、お風呂の世話までしているのかしら?脚が悪いなんていって、わざわざ一階のお風呂に入りにくることなんてしなくていいのに・・・。
麻里江は仕方なく、二階にある風呂場に入りに行った。
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